ご本を読み聞かせた結果www
子供達に本を読み聞かせた後は、いつもあのときのことを思い出します。
それはほんの数ヶ月の出来事でした。ですが、私の脳裏には強く焼き付いています。
いや、私だけでなく、あのときお城にいた全員の脳裏に焼き付いた出来事でしょう。
帝国の汚点。皇帝陛下が自らを罰せられる詔を出されたほどの出来事。
ですが、私にとっては、運命が変わった出来事でした。
あの頃、私はお城に勤めていました。後宮の姫君のお世話は、私のような下級役人の娘には義務といっていいお仕事です。
皇帝陛下が、西方のまつろわぬ遊牧民を成敗なさるため、十万の大群を率いられて親征に出られてから一月あまりが経った頃でした。にわかに王宮が慌ただしくなりました。
風の噂で聞いたのですが、皇帝陛下が捕虜になられたというではありませんか。そして、遊牧民が勢いに任せて攻め込んでくる。そんな噂も立っています。近衛兵の方々は噂に過ぎないと仰られましたが、火のないところに煙は立たぬと申します。後宮を不安と恐怖が覆うまでに時間はかかりませんでした。何せ、遊牧民は強欲で獰猛、禽獣に等しい存在と史書に記されています。歴史書を読めば読むほど、私たちを待ち受けている未来は暗いものと思えます。
そして、あの日を迎えました。
都に遊牧民が押し寄せてきました。そして、都を守られていた将軍様は無血開城を決断されました。親征によって兵糧は欠乏、都を守る兵力もわずかな近衛兵のみ。敗北は明らかでした。将軍様は無駄な血を流したくはなかったのでしょう。それによって私たちは救われました。それが帝国にとって良いことだったか悪いことだったかは別として。
「毅然となさい。禽獣に屈することなど、あってはなりません」
皇后陛下は後宮のお妃様方、そして女官を集められ、そう仰られました。覚悟を決められたような、そのような毅然としたお顔でした。お美しい皇后陛下ですから、それはもう印象に残りました。私も、お世話をしているお妃様と一緒に、部屋の中で背筋を伸ばして、侵略者を待ち構えました。
「不安じゃ……。わらわはどうなってしまうのか……」
「大丈夫ですよ。姫様に手を出す者がいれば、私が身代わりになります。ですから、皇后陛下が仰られたように、背筋を伸ばしましょう」
そして、あのお方が見えられました。
「ええか、べっぴんさんばっかやからって興奮するんやないで! 姫さん達に手ェ出したら、その首、ないもんと思えや!」
訛りの強い声でした。そして、後宮では末席にあたる、私達の部屋の扉が開けられました。
現れたのは、がっしりとしたお体に、厳めしいお顔。顎髭を蓄えらえた、将軍様のような、無骨なお方でした。悪い言い方をすれば、むさ苦しいお方。
「儂が大君や。今はあんたらお姫さんたちに挨拶周りをやっとる。騒がせて悪いな」
大君。遊牧民の実力者。その名に恥じない、堂々としたお姿。お妃様はその威圧感にやられたのか、縮こまられておられます。年端も行かぬ、とても可愛らしいお妃様にこのような姿をさせるのは許せません。ですが、なぜあのようなことを言ってしまったのでしょうか。
「悪いと思っているのなら、頭でも下げてはいかがですか?」
ああ、若気の至りとは恐ろしいものです。案の定、大君様の横にいらっしゃった兵隊さんが剣に手をかけます。
「……うははははっ!!」
ですが、大君様は大声で笑われて、兵士さんを制しました。
「こら一本取られたわ。いや、騒がせてすんまへんな。あんたらに暴力は振るわへんから、安心しいや」
大君様が頭を下げられました。まさか、本当に頭を下げるなんて。なんと対応すればよいのかわからずに困惑する私。兵士さんの視線が痛いです。
「かわいらしいお妃さんに、侍女さんやな。体を大事にしいや」
大君様はそう言い残され、部屋を出て行かれました。
「……そなた、随分と気が強いのじゃのう……」
「……あれぐらいガツンと言わないと、後々何をされるかわかりませんよ!」
ああ、これも若気の至り。
翌日の夜のことでした。
私達の部屋の扉が開けられ、そこには兵士さんがいました。
「大君が寝所へ呼んではる」
ああ、ついにこのときが。お妃様が息を飲み込む姿が目に入りました。暴力は振るわないなんて言いながら、結局はこれですか。私は再び、頭に血が上るのを感じました。
「姫様に手を出さないでください。なんなら、私が身代わりに……」
「そのあんたを呼んではる。ワイからしたら姫さんのがかわいらしいと思うがなぁ」
「私、ですか?」
思わずお妃様のほうを見てしまいます。お妃様も肩すかしに遭われたようで、ぽかんとされています。不謹慎ですが、可愛らしい表情でした。
私は兵士さんに連れられて、薄暗い廊下を歩きます。普段なら皇帝陛下のご寵愛を受けるため、そこかしこから艶っぽい声が聞こえるのですが、今ではすっかり静かなものです。
大君様は客間に居られました。陛下のお部屋ではありません。
「お、姉ちゃん、よう来たな」
「……何のご用でしょうか」
「まぁまぁ。そう立っとらんと。座りや」
「いえ。何かされた時に、こうしてればすぐに逃げられますから」
ああ。若気の至りとはいえ、お恥ずかしい限り。
「うははは! 姉ちゃん、おもろいな! 儂にそこまで言うた女の子、お母ん以来やで!」
大君様は大笑い。
「安心しいや。儂は何年か前に怪我してから、勃たへんのや。あんたに何かしとうてもでけへん。まぁ、儂はもっと乳がでかいほうが好みやがな」
確かに私の胸は小振りなものです。そう、年端も行かぬお妃様と変わらぬほど。
「……不能、ということですか?」
「ずばりと言うてくれるな。まぁその通りや。幸い、息子はおる。儂に似んと、優しい息子や」
「それで、何のご用でしょうか」
「ああ。あんた、せいおうろく、って本、知っとるか?」
「……知っているも何も」
聖王録。この帝国のはるか昔にいらっしゃられた王様の記録です。その治世は後の世の見本とされ、役人にとっては義務教育の教本のようなものです。私も幼い頃、父のような役人になるために読みふけったものでした。もっとも、私は女。役人にはなれないということに気づいたのは、本を暗記してからでしたが。
「聖王録でしたら、暗記していますが」
「そらええ。ちょっと言ってくれへんか?」
「ご自分でお読みになられたほうが……」
「皆まで言わすなや。儂は字が読めんのや」
意外な一言でした。遊牧民の大君とあろう方が、字が読めないとは。
「でも、あんたらの国の物語は好きや。本を読んでもらうのもな」
「子供のようなことを仰るのですね」
「悪いか?」
「いえ。子供のお世話も仕事のうちですから」
当時の私、本当に酷い芸風でした。大君様が寛容なお方で助かりました。
「うははは! お母んかお前は!」
「では、失礼して」
「おう。頼むわ」
頬杖をつく大君様を前にして、私は聖王録の序文を暗唱するのでした。
序文を暗唱したところで、私は大君様のお部屋を後にしました。暗記はしていますが、暗唱できるかというと、少々自信がありません。できなくはありませんが、失敗したくはないので、後日、本を読んで聞かせることに致しました。
すでに夜は更けておりました。宿舎の鍵の入った鞄をお妃様の部屋に忘れてしまったので、お妃様を起こさないよう、そっと扉を開けました。
「だ、大丈夫であったか!?」
お妃様が、私の袖を引っ張るような形でしがみついて来られました。突然のことに、少々慌ててしまいました。
「ひ、姫様? まだ起きておいでで……」
「そなたが心配だったのじゃ……。……その様子じゃと、無事のようじゃな。安心したぞ……」
お妃様は一安心されたかのように、ほっと胸を撫で下ろされました。不謹慎ですが、可愛らしいお仕草でした。
「そんな、もったいないお言葉……」
「……して、あの男はどのような男であったか?」
「そうですね……」
そこまで深く知ることはできませんでしたが、言えることは一つでした。
「禽獣ではありませんでした。人間でしたよ」
「……ふむ。そなたがそう言うのなら、禽獣ではないのじゃろうな」
お妃様からの次の言葉は、私の芸風を考えさせるのに十分なことでした。
「そなたはいつも物言いがきついからのう。禽獣のような男が相手では、無礼を働いて斬られてそうで心配したぞ」
お妃様からもそういう認識を受けていたことは。
それから、私は数日おきに大君様のお部屋で、聖王録を読み聞かせました。大君様はいつも満足そうにお聞きになられておりました。
ある日、私は一つの気になったことを質問しました。
「……あの、一つお聞きしてよろしいですか」
「お? 何や? 簡単なことなら答えたるで」
「どうして略奪をしなかったのですか?」
気になっていたことはそれでした。かつてこの都が遊牧民の襲撃を受けたときは、徹底した略奪と虐殺、陵辱が行われたそうです。
「簡単なことや。別にここは攻めたくて攻めた訳やないからな。いらん恨みまで買う必要はあらへん」
「……どういうことでしょうか」
「儂らは遊牧の他にも交易をやっとる。今時、遊牧だけじゃ食ってけへんからな。言い方を変えたら、あんたらの国に依存しとる。あんたらの国が滅んだら、儂らも商売あがったりや」
遊牧民から買っているものは数多いと聞きます。馬に毛皮、異国の装飾品。勿論、織物や工芸品など、こちらが売っているものも多いのですが、交易自体は赤字なのだとか。
「今回の戦の原因も、ちょっといい条件で交易したかったってだけや。ちょっとちょっかいかけたら、皇帝さんが本気になってもうて」
大君様は呆れた様子でした。
「十万の軍やで、十万。儂らはせいぜい一万がええとこや。ああ、詰んだと思ったわ」
「……ですが、結果は」
「知っての通りや。なんでも、指揮を執ってたのは皇帝さんのお気に入りの文官らしいやん。隊列は延びきっとるわ、統制はまるでとれてないわ、ひどいもんや。子供が行進してるほうがまだマシやで。横っ腹に突っ込んだら、それで終いや。無駄に兵隊殺してもうた」
大君様の呆れ声の中には、怒りが孕まれているようでした。
「見栄のためにたくさんの兵隊殺しちゃ世話ないわ。そこからは勢いだけや。とんとん拍子にここまで来てもうた」
「それで、これからはどうされるのですか? 陛下の部屋に入られないということは、何かしらの意味があると思うのですが」
「それはあんたに言うことと違うわ」
「……失礼しました」
「今日はもう遅いな。これでええ。あのかわいらしい姫さんと一緒に、ゆっくり寝ぇや」
あの日以来、私はお妃様のお部屋に泊めていただいております。遅くに宿舎へ帰るのは迷惑になる、とのことですが、お妃様も不安なのでしょう。
「……ご存じでしたか」
「何や、ほんまやったんか。適当に言っただけやのにな」
大君様はいつものように大笑いされました。
噂が立っていました。
各地の諸侯が連合し、都の救援に向かっているという。後宮はにわかに活気づきました。この忌まわしい侵略者達の顔色を窺わなくてもよい、という。
そんななか、私はいつものように大君様に呼び出され、聖王録を読み聞かせていました。残りは四分の一ほど。長かったようで、短かったものです。大君様は毎回真摯にお聞きになられていました。その姿は本当に子供のようでした。
「ご苦労さん。今日まででええわ」
「それはまたどうして。ここからが肝要ですのに」
「時間がない。忙しくなるんや」
忙しくなる。ということは、噂は本当だったのでしょう。
「……援軍が来ているから、ですか?」
「その通りや。予想よりはだいぶ遅かったな。おおかた主導権争いでもしよったんやろ」
大君様は寝床に横になられました。
「そんな訳で、近いうちに引き払うわ。迷惑かけたな」
「戦われないのですか?」
「最初に言うたやろ。無駄な恨みは買いたないってな」
恨みという点では、想像よりも少ないのでしょう。ですが、禽獣のように見ていた遊牧民の方々の顔色を窺う日々というのは、多くの人にとっては屈辱でしかなかったこともまた事実でしょう。
「あんたに本読んでもろたのはおもろかったわ。今やから言うがな、あんたの声は綺麗やったわ。……何や、恥ずかしいな」
「あら。もう引き払うというのに、今更お世辞を言っても、何も出ませんよ」
「一回抱いてやってもよかったな」
「不能でしょう、あなた」
芸風は一朝一夕では治らないものです。
「痛いとこ突くわほんまに。儂も昔は女泣かせやったんやで」
「なら天罰ですね、それ」
「うはは、そういうことか。やりすぎたなぁ」
大君様はひとしきり笑われた後、真剣な面持ちになられました。
「……なぁ、文字っちゅうのは、ええもんやな」
「どうしました、急に」
「儂らは昔のことは何もわからん。あんたらに昔のことを何て書かれてても、何も言い返せへん。儂は字も読めん。恥かいてばっかや」
大君様は手近な本をぱらぱらとめくられました。
「息子達にはそんな思いさせたないんやがな」
「大君様が教えてあげればよろしいのでは?」
「だから儂は字なんか読めへんて。せや、儂が字を作るか」
「でしたら私の名前を、美人という意味にしてください」
「そらさすがに無理や。嘘ついたらあかん」
大君様はいつものように大笑いされました。
そしてそれが、都で大君様を見た最後の姿となりました。
大君様達が都から撤退された後、諸侯の方々が都に入ってこられました。そして、皇帝陛下もお帰りになられました。
宮廷には活気が戻りました。
皇帝陛下が自らを罰する詔を出されたほどですから、処罰されたのはただ一人でした。
無血開城を決断された将軍様だけ。
将軍様は、八つ裂きのうえ、臓腑を抉られ、晒し首となる、最も重い刑を受けられました。噂では、一言も弁解されなかったそうです。
そんななか、お妃様は皇后陛下に呼び出されていました。
「ふう……。大変なことになったぞ」
「大変なこと、ですか」
お妃様はお部屋に戻られるやいなや、大きなため息をつかれました。
「わらわは今度、陛下の娘として、遊牧民に嫁入りすることになった」
「……えっ!?」
寝耳に水とはこのようなことでしょうか。
「陛下を解放する条件の一つに、陛下と大君の息子との間に婚姻関係を結ぶということがあったそうじゃ。しかし、陛下の娘を禽獣のような連中にやるわけにはいかぬということで、わらわに白羽の矢が立った。幸い、わらわはまだ純潔を保っておる」
お妃様が自嘲気味に笑われました。お妃様はここ数年で頭角を現した将軍様のご息女なのです。将軍様は地方で専制を極めており、皇帝陛下も苦々しく思われているそうで、お妃様にご寵愛が向かぬのも仕方のない話でしょう。お妃様はとても可愛らしいお方なのですが、まだお若いため、陛下のご趣味からも外れているそうです。
「ここに居てもくすぶるだけじゃ。ならば、異国で機会を得ることに賭けるというのも悪い話ではなかろう。それに、父上は強引じゃ。馬脚を現さぬとも限らぬ。そうなれば、わらわも庶人に落とされるだけでは済まぬじゃろうて」
皇后陛下がお妃様をお選びになられたのは、お妃様がご寵愛を受けられていなかったということだけではないでしょう。お妃様は聡明なお方です。この大役に不足は無いでしょう。
「大丈夫です。彼らは言うほど禽獣じゃありません」
「そのことはそなたを見てよう知っておる。それに、一つだけ条件をつけた」
「条件とは?」
「そなたを侍女につけてもらうことじゃ。見知らぬ土地で、わらわ一人というのは心細い。そなたがおれば安心できるというものじゃ」
お妃様は笑顔を浮かべられました。お妃様からそうしたご評価をいただいているのは、とても名誉なことでございます。
「それに、そなたは大君と顔見知りじゃろう。悪い方向には働かぬのではないか?」
「大君様はともかく、お妃様がお望みであれば、私はどこまでもお供いたします」
「うむ。その一言が聞きたかった」
お妃様は私の手を、満足そうにそっとお握りになられました。
そうして、私は草原の住人となりました。
私とお妃様の姿を見られた大君様は、あの大笑いをされました。そして、聖王録を全て読み聞かせることができました。
今度は他の本を、と思っていた矢先、大君様は亡くなられ、ご子息が跡をお継ぎになられました。今では帝国とはつかず離れず、平和な日々が続いています。
お妃様は大君様のご子息と馬が合われたのか、子供を三人も儲けられました。そして、私は彼らの教育係として、読み書きを教えさせていただいております。皆、飲み込みが早く、私がたじろぐようなご質問をされることもあります。帝国の人は彼らのことを禽獣だと言いますが、何の根拠もない話です。彼らよりも愚かな皇族は都に山ほどおられました。
都、そして両親が懐かしくないかといえば嘘になります。ですが、この自由闊達な雰囲気は、都では味わえません。また、父は今、遊牧民との外交窓口を勤めているそうです。それは、私がここにいることと無関係ではないでしょう。父は無難ですが、清廉で真面目な人です。上手くこなしているのでしょう。
あのとき、大君様に生意気を聞き、聖王録を読み聞かせてから、私の運命は変わったのでしょう。そして、お妃様も。
私とお妃様は、帝国の文化を知り、草原の文化も知ることができました。どちらも素晴らしいものです。甲乙などつけられません。
願わくば、二つの文化が共にありつづけることができますように。
私は毎日、夜空の星に願っております。
読んでいただき、ありがとうございました。
大君の孫は知勇兼備の名君に育ち、帝国に引導を渡すと思う。
でも長続きせず、泥沼の分裂時代に突入するのだ。(五胡十六国並の予想)