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音の海を泳ぐ君

作者: 稲嶺雷華

 シャカシャカと耳に障る音漏れを、咎めるように私は左隣りの席に座った友人を見た。相変わらずきれいなラインを描く大人びた口元と、さらさらと流れる髪の毛に縁取られた子どもっぽい瞳が不釣り合いに美しい。その視線の先に授業は無いけれど。

 教師は既に授業中に彼女を注意してやめさせる手間を放棄した。それを知っている彼女も、咎められないのをいいことに、音の海にダイブして戻ってこない。しかし一度でいいから隣の席に座る優等生のふりをしていたい私の苦労を思い出してくれないだろうか。部活まで同じの私は大抵、授業の後に先生に呼び出されて。

「篠崎さん。彼女どうにかなりませんかね」

「はあ」

「あれじゃあいくらいい点数取っていても、いい成績を付けることができないんですよ。親しいあなたの言うことなら、少しくらい聞いてくれるんじゃないですか」

 無理です。と言ってやりたかったけど、それはそれで角が立つから、黙ったまま頭の上を先生の小言が飛び過ぎるのを待つ。ちらりと横目に見た彼女は相変わらず空を見つめてヘッドホンの奥の音の海に溺れているらしい。


 この光景がクラスの定型になって早くも二月が過ぎようとしている。初めのころは注意していた先生も、最近はあきらめたようだ。彼女は注意されることを何も気にしていない。嫌がらせのように突然に指名をしても、たとえそれがまだ習っていない事だったって彼女はノートも教科書も開かずにさらさらと答えてしまうのだ。ヘッドホンの下、外の音も少しは聞えているらしい。先月腕試しのかわりにおこなわれた小テスト、彼女の点数は学年トップを記録していた。らしい。

 教室は彼女のいる環境にもう慣れてしまった。教室の誰とも口をきかない黙ったままのが、教室で誰かと親しく喋るのを聞いたことがあると言う人はいないが、そのなかには自分も含まれるわけで。わたしに言われても、困るんだけどな。そんな思いを悟ってもらえないまま、苦言を呈すだけ呈したおじさん先生は教科書を抱えて去っていった。


さようならの疎らな声のあとの、賑やかな娘たちの声を抜けて、鞄をてに部室へと向かう。幽霊部員の上級生は今日も来ていなくて、美術室に一番乗りしたわたしは立てたままのイーゼルをがたがたとひきずりだし、安いビニールのエプロンをかけて、絵の具を出したままのパレットに油壺をセットして、溶き油に筆を浸した。ぴたり五分遅れて彼女が地下への階段を下る軽やかな音が聞こえる。扉を開けた彼女は、教室とはまるで別物で、にこやかで社交的なふうに、私におはようと笑いかけた。

「しの、今日も安藤に呼ばれてたね」

「用件もいつもと同じよ。その授業態度、どうにかならないか聞いてくれってさ。どうにかならないの?」

安藤先生の言い方を真似て聞くと、聞かれた彼女はくすりと笑顔で「さあて、どうかしら」とはぐらかした。

「今日はなに?」

「V系」

言いながら、なにも入っていなそうなへこんだ鞄から、小さなスピーカーをとりだし、机においてコードで繋いだ。こうやって彼女は私に音楽を分けてくれる。

私はただ静かなのは嫌だけど、彼女は必要以上にしゃべる気は無いらしい。音に溺れて楽器の音の海を自在に泳ぎ続けていたいと言う。だから彼女が入部して次の週、先輩方が来ないことに二人がなれた頃、わたしは彼女にこのミニスピーカーをプレゼントした。使ってくれるとは思わなかったけど、使ってくれたら良いかなって、家に合った小さなスピーカーを、あげたのだ。受け取った彼女は、驚いたようにありがとうと言ってそれを鞄に納めた。翌日から彼女は、挨拶をするようになった。音楽を流している間は誰もしゃべらないのも習わしのような無言の決まり事だ。日によってクラシックだったりロックだったり、昭和の歌謡曲だったりする曲は、毎回CD一枚分の十数曲一時間のセットリストで活動中に二週するかどうかだ。広い美術室の端と端でそれぞれの隔たれた精神空間が、ひとつの空間を共有してるのだと気がつかせてくれるのは教室の真ん中、机の上にただ置かれたスピーカーだけだ。


「ねえ、しの」

 活動の時間の終わりを告げるチャイムの音に、二人でごそごそと画材をしまっているとき、彼女は突然口を開いた。

「なあに?」

「ここは静かでいいね」

「そうだね」

 確かに彼女のスピーカーから流れる音を除けば、地下にはこの教室しかないし、至って静かに、創作に没頭できる環境である。

 私は別にうるさかろうと静かであろうと、影響されることは無いけれど。

「それにしのも静かだ」

「そりゃ、どうも」

 静かだと何がいいのかわからないけれど、それが彼女にとって良いのならそれでいいのかな、とも思う。きっと彼女にとって静かであることが一つの価値なのだ。

「静かなのは好きなんだ」

 スケッチブックを壁に作りつけられた木の棚に立てかけて、それから彼女はこちらを振り向いた。

「だからしのも、好きだよ」

「それはそれは、ありがとう」

 にこりとわらった笑顔がいつもみない眩しさで、私は思わず何でもない顔を取り繕って返事をした。いや、何でもないなんてことない。その眩しい笑顔はなんだ。

「私、なんか余計な音まで聞こえすぎちゃって、気が散って、周りがさっぱりわからなくなるのね。だから何か別の、知っている音で弱い雑音を消さないと、何を聞いていいか判断できないんだ」

「そうなんだ。そりゃ初耳だ」

「うん、初めて言った」

 何でもない事のようにさらりと言うけれど、それは結構大変なんじゃないだろうか。授業中外の喧騒、ひそひそ話。チョークが黒板を叩くカツカツという音に教師が机の回りをあるく足音。鉛筆がカリカリと紙をひっかき、ガタリと机が動く。

「だから、スピーカー貰った時、不安だったんだけど」

「うん」

「でも、大丈夫だった。ここは静かだから。しののお陰だ。ありがとう」

「それは、どういたしまして」

 眩しい笑顔が自分だけの物のような気がして、その笑顔を引き出せた自分が誇らしくて、自分も笑顔になる。

 

 下校の音楽に急かされて教室を出ると外は暗かった。後ろから、スピーカーを鞄にしまい、ヘッドホンを装備し直した彼女が付いてくる。帰り道の賑やかな声のなかに、深呼吸をひとつして飛び込む二人。きっと明日も変わらず、美術室で同じ音を聞こう。

 











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