一番暗い時刻の恋色
夢を見ている。そう、俺は半ば確信に近いものを持ってそう思った。なぜ完全な確信ではないかと言うともちろん、たいていの人間は夢を見てもそれに気づくことが極めて少ないからだ。
舞台は古ぼけた電車の中。俺は、どこに向かっているかも知れないそれの中で独り、外を眺めている。月明かりがこうべの垂れた稲穂をふわりと映し出していてやけに幻想的だ。
「お兄さん、遠出ですか?」
景色に気を取られていると、いつの間にか車掌と思しき出立ちの男が俺の隣に腰掛けていた。顔は陰になっていてよく見えない。気配が感じられないあたり、本当に夢のようだ。
「珍しいですね、この電車にお乗りになるとは。」
「……どういう、」
「ことかって?」
俺は素直に頷く。
「この電車は、心に影がある方――いわゆる『迷える子羊』たちだけが乗車を許されるといった代物でしてね。」
車掌は軽い口調で続ける。
「つまり、貴方様にもお悩みがあるってことでございますよ。どうです、話してみませんか。見知らぬ相手のことです、話しやすいこともあるかと思いますが。」
不思議と、俺はこの男に嫌悪感を抱くことはなかった。普段の自分なら考えられないだろう。なにしろ自分は人と話すことが苦手なのだから。
……一人を除いては。
まあ、この車掌については、夢の中だからということにしておこう。そう区切りをつけて俺は、折角だからと、さっき頭によぎった奴の話を聞いてもらうことにした。
「人と話すのは苦手だ」
「そのようですね。」
「無口だからな。けど最近、そんなことはお構いなしとばかりにガンガン話しかけてくる奴がいてな。うざったいのなんの」
「もしや、それが心地いいとか?」
「その通りだ。しかも、やけに。今までそんなことがなかったからな、全くわけが分らない。それから、あいつが俺と話すときだけテンションが違うのも気になる」
「ほう。それは嫉妬ですかな、それとも」
「嬉しいほうだな。少なくとも今まで俺は、あいつが自分と話すとき以上のハイテンションで誰かに話しかけている所を見たことがない。」
繰り返すようだが、不思議だ。嫌悪感を抱くどころか、自分の心内がすっきりクリアになっていく。そうして、思っていたよりも随分長く話し込んでしまっていた。
気づくと電車は既に停車していた。
「ここが終点か?」
「ええ、まあ、とりあえずのね」
独り言のつもりが、車掌から答えが返ってきて驚いた。
「とりあえず……?」
「ええ。だって、人生の終点なんてまだまだ先でしょう?」
知らねぇよ。
心の中だけで相変わらずの軽口に悪態をつき、手動のドアを開けて、申し訳程度の寂れたホームに降り立つ。おいおい、自動改札機も駅員も居ないじゃないか。
「なあ、車掌――」
振り返ると微笑んだ車掌がいた。
そう、微笑んでいる。
初めて見ることができた奴の顔は、毎日鏡で見る、よく知った顔に酷似していて。
それに驚いて目瞬きすると、その間に車掌は消えていた。
ホームは稲穂に囲まれており、車内で見たときよりも辺りは暗かった。米の粒を判別するのがやっとな程度。
どこかで聞いたことがある。一番暗い時刻は夜明け前だと。
きっと、それはもうすぐそこだ。