拾ってください。
学校からの帰り道にて。
ふと目を向けた先で、茶色いもふもふした物体が、道路脇にあるブロック塀の上から私を見つめていた。
「なー」
ちみっこいそいつは、尻尾をゆらゆらと振りながら私をじっと見ている。
猫の分際で私を見下すとは生意気な奴だが、かわいいから許す。
「なー」
つぶらな瞳でじっと見つめてくる子猫。
誰かとこんなに見つめ合ったのは初めてだ。なんだか目を逸らしたら負けな気分になる。
「野良猫かな」
「なー」
つい口に出してしまった。ぼっちをこじらせると独り言が多くなるというが、本当らしい。
子猫は相変わらず、じっとこちらを見つめるだけ。首輪もないし野良猫だと思うが、拾って欲しいのだろうか?
「おまえも、ぼっちなの?」
「なー」
子猫は一鳴き。今のはきっと肯定の鳴き声だ。
勝手に判断して嬉しくなった私は、子猫に手を伸ばしてみる。私の手が喉元に触れるが、子猫は逃げなかった。
ますます嬉しくなって、抱きかかえてみる。逃げない。
「決めた、拾ってやる。今日から私がおまえの飼い主だ。ふふふ、喜びなさい」
「なー」
子猫は一鳴き。今のはきっと歓喜の鳴き声だ。なんとなくイントネーションが違っていたし。
子猫を腕に抱いてにやにやしながら独り言を呟く私。自分で想像してみたが気味が悪い。ふむ、道理で先程から周りの視線が痛いわけだ。
意識して表情筋を引き締める。今私の可憐な顔面は、さながらタイムセールへと赴くおかーさんのように勇ましいことだろう。
「なー」
この鳴き声は私を讃える類のものだろう。瞳からは心なしか尊敬の念が窺える。もっと私を敬うがよい。私が母だ。
「私は自分自身を客観的に見ることができるの。ふふふ、見習いなさい」
「なー」
「うむ、いい返事だ。それじゃあ帰ろうか、まいすいーつほーむへ。往くぞ我が子よ!」
「なー」
沈む夕日をバックに、変なテンションのまま唐突に走り出す私。周りの視線は痛いを通り越して不審者を見る様だったが気にしない。
こうして私の青春に、新たな一ページが刻まれた。
◆
「というわけで、飼ってもいい?」
「なー」
「ダメよ」
まいすいーつほーむにて、正確にはその玄関先にて。
私はおかーさんという名のラスボスと対峙していた。
「なんで? 自分で世話するし、ちゃんと躾るから」
「似たようなこと言って、昔昆虫くじで当たったニジイロクワガタ、ほったらかしにして死なせちゃったでしょ。それに家はふすまとか柱とかあるし、猫なんて飼ったら大変なことになるわよ」
「知ったような口きかないで! おかーさんはこの子の何を知ってるの!」
「あんたこそ何を知ってるのよ」
「なー」
おかーさんは何もわかっていない。私がこの子を躾けるんだから、この子は飼い主に似ておしとやかで慎ましい子になるはず。何よりこの私が目を付けた猫。そこいらの凡猫と一緒にしないでほしい。
「わかった!?」
「なー」
「何がよ……」
しまった、言葉に出していなかった。ぼっちをこじらせると思ったことを口にできないというが、本当らしい。
「はぁ、もういい? お母さんこれから買い物に行くの。いつまでもあんたの相手してる暇はないの。わかったら元いた場所に捨ててきなさい」
駄目だ、まるで聞く耳を持ってくれない。
こうなったおかーさんは私が何を言ってもどっしり構えてびくともしない。横綱みたいだ。最近太ったし。
なんてふざけている場合じゃない。このままこの子を捨ててしまえば、今日という一日を私は何一つ得るものもなく、自室に引きこもって終えることだろう。それどころか痛い行動をとった分損すらしている。
これでは青春じゃなく我が人生の如き黒歴史である。何とかしなければ……。
「待っておかーさん! 私の話を聞いて!」
「はいはい、帰ってからね」
おかーさんのたるんだお腹に左腕を回してしがみつくが、私とおかーさんでは人生でも体重でも重みが違った。おかーさんが横綱ならば私は序ノ口である。
私と子猫と肩にかけた通学鞄を物ともせず突き進むおかーさんは、このような状況でなければとても頼もしく感じるのだろう。しかし差し当たっては自身の非力さとスレンダーな身体を呪うばかりだ。 ああ、こんな時おとーさんがいれば……。
「おーい、二人とも何をしているんだい?」
「お、おとーさん!」
「あら、あなた」
どうやら天は私を未だ見捨ててはいなかったようだ。よれよれのスーツを着た頼りなさげなおとーさんが、今だけはヒーローに見えた。
「おとーさん、この子家で飼ってもいいでしょ? ちゃんと世話するから」
「お、子猫かぁ、かわいいな~。うん、いいんじゃないかな、何事も経験だよ」
「ありがとうおとーさん!」
「なー」
よし、おとーさんの了承は得た。おかーさんだって二人で説得すればきっと――
「あなた、ずいぶんとタバコ臭いわね」
「ええっ! ファヴリーズしたのに!?」
「あなた……」
――おとーさん使えない。
「それで、渡したお小遣い、いくらすったのかしら?」
「そ、そんな、僕はパチンコになんて行ってな」
「いくら、すったのかしら?」
「……全額です」
肉付きのいい背中が邪魔で私からは見えないが、今おかーさんは修羅の如き人相なのだろう。おとーさんは青ざめて震えている。
こうなっては懐柔などできるはずもない、巻き込まれる前に避難しないと。……ちょっと見直したのに、おとーさんのバカ。
私と子猫がその場から逃げだした後、おとーさんらしき悲鳴が夕暮れの住宅街に響き渡ったが、空耳ということにした。
◆
どれだけの時間、ここに座っていたのだろう。気が付けば、茜色だった空は深い藍色へと様変わりしていて、街灯には明かりが灯っていた。
周りを見渡すが、ベンチに腰掛けた私以外、公園には誰の姿も見えない。
行儀よく閉じた自分の膝を見る。子猫が、私を見つめていた。
「……お腹すいた」
「なう」
なんだか、鳴き声が違う気がする。
「寒いなー」
「なう」
まあいいや。それより、この子をどうするかが問題だ。おかーさんは元いた場所に捨ててこいなんて言っていたが、そんなの論外だ。
せめてこの子を飼ってくれる人がいればいいと思い、鞄からスマートフォンを取り出してアドレス帳を確認する。
「……ごめんね。私ぼっちだった」
「なう」
見なかったことにして、鞄にしまった。LI〇EやらTwi〇terやらに洒落込む日が果たしてやってくるのだろうか。なんだか風がやけに目に染みる。
こうなったら、交番に届けようか。迷子の子猫ちゃんです。犬のおまわりさんはいませんか。
「にゃー」
「わっ、どうしたの」
突然、子猫が膝上から飛び降りた。急にどうしたのだろう? 子猫はそのまま走り出す。
「あ、待って! 置いてかないで!」
「にゃー」
私の制止を聞かず、いずこへ向かうというのだ我が子よ。
立ち上がり、追いかけようとするが、その必要はなかった。
「にゃー」
「みゃ~ん」
どこか子猫の面影がある大きな猫と、私の子猫は戯れていた。親子だろうか? 茶色いもふもふのそいつは、流し見るように私を一瞥すると
『この子が世話になったわね。一応礼を言っておくわ。それじゃ、さようなら』
何て言ってそうな余裕ある態度で去っていく。子猫は、私など見向きもせずにそいつの後を追っている。
何なの、これは……。なんで私が捨てられるような展開になっているの……。
「ま、待ちなさい! 私を、おまえの飼い主である私を捨てるというの!」
「なう」
子猫は一鳴き。今のはきっと肯定の鳴き声だ。だってこっち向いてないもん。
「待って! 捨てないで! お願い、私を一人にしないで!」
今度は、返事すらしてくれなかった。そのまま草陰へと消えていく二匹……。あ、ちょっと泣きそう。
ふらふらとおぼつかない足取りで、私は公園を後にする。街灯が照らす住宅路を歩く私の体温を、肌寒い夜風が容赦なく奪っていった。
拾ってやる、なんて、もう言いません。だから、誰か私を拾ってください。
「……あんた、何してるの?」
顔を上げた私の前に、横綱みたいなおかーさんの姿。自転車のかごにはスーパーのレジ袋が入っている。
「な、なんで泣いてるのよ。もしかして、泣くほど猫を飼いたかったの?」
「おかーさん……」
「え、なに?」
あの子も、今の私みたいな気持ちだったのだろうか。さっきまで冷え込んでいた心と体が、温かくなって、安心できる、こんな気持ち。
おかーさんの目を見つめてみる。あの子のように。私の帰る場所は、ここにあった。
「拾ってください」
「……は?」