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2-2 はじめてのおやくしょ

 ――――恥ずかしい。



 なんでこんな当たり前のことに思い当たらなかったのか。

 結局のところ、私が世間知らずだったというだけなのでしょうが、あまりの恥ずかしさに顔を上げることすらできません。

 見慣れない作りをした家々が立ち並び、それらに挟まれるようにしてある道は平坦で、牛車や馬車が2.3台はすれ違えそうな広さがあり、そこを見たことがないくらい多くの人々が行き交っていました。

 その道の真ん中を、行き交う人々に道を譲られながら、私を乗せたジンライさんは悠々と歩いているのですが……道行く人々の目が私に集中しています。

 当然です。当然のことなのです。ええ、その当然のことに、私は思い至ることすらなかったのです。

 そりゃ目立ちますよね。大きな馬に乗ったメイドとか。

 


 ――――ジーライ様に乗ってる、あれは誰だい?



 ――――見たことないな。



 ――――様んところで、新しく雇われたんじゃねぇ?



 雑多な音に混じって聞こえてくる言葉からするに、町の人々はジンライさんの事を知っているようでした。

 ……多くの人が知る幻獣の背中に乗った、見覚えのないメイド服のわたしに皆さんの目が釘付けです!

 まったくもって嬉しくない。恥ずかしくて恥ずかしくて、今にも体に火がついてしまいそう。

 多くの人が行き交う場所とは聞いていましたが、こんな数え切れない程に居るなんて思わなかった。

 こんなに人がいるなら、町に入る前にジンライさんから降りて歩いたのに。

 家の見た目とか、道行く人々の服装とか、気になることは沢山あるのに、それを見ることも出来ません。

 うぅ……早く目的地へ着いてほしい。

 そんなことを思いながらじっと俯いていると、ふわりと小さな何かが目端を横切っていきました。

 何でしょう? 少し気になって顔を上げてみると、朱とも紅ともとれる綺麗な花びらが目の前を通り過ぎ、幾つかは体に当たり、服に引っかかって、そうでないものは地面へと落ちていきます。

 見ればジンライのタテガミにも、花びらがくっついています。

 服についた花びらを手に取ってみると、それは本当に小さく、小指の先程度しかありません。

 それらは頭の上から、ひらひらと風に揺れるようにして舞い落ちてきます。


「綺麗……」


 花びらを追うようにして空を仰ぐと、そこには満開の花々がありました。

 空を覆わんばかりに広がった大樹の枝に、小さな花が無数に咲いています。

 なんと言えばいいのでしょう。この美しさを例える言葉が、表す言葉が浮かびません。

 だと言うのに、それが当然だと思う自分が居ます。

 普段であれば、学のなさを恥じ入るところですが、今回ばかりはそうではありません。

 だって、恐らくきっと。それで正しいから。

 この美しさを、言葉にして表すのはきっと間違っている。

 周囲の目も忘れ、咲き誇り、舞い落ちる花々を見上げていると、体を押されるような不思議な感じがして、流れる風景が止まります。

 どうやら、ジンライさんが足を止めたようでした。 


「あの、どうかしましたか?」


 ジンライさんに向き直って、そう問いかけると、ジンライさんは何かを示すように顔を持ち上げます。

 その鼻先を見てみると立派な作りをした二階建ての建物がありました。

 ご主人のお屋敷より、二回りほど大きいでしょうか。

 両開きの扉がある玄関には、柱に支えられた三角形の庇を備えています。

 広場に面しているからでしょうか。家というよりは、村の集会場のような感じがありました。


「えっと、お役所というのは、あそこですか?」


 私の言葉にジンライさんは頷きます。

 どうやら目的の場所に着いたようでした。

 となると、まず考えるべきことは、どうやってジンライさんから降りるか、ということです。

  

「ジンライさん、座れます?」


 駄目で元々。念のために聞いてみたところ、首を横に振られてしまいました。

 無理なようです。

 立ち上がるときに随分と揺れましたし、座れないのではなく、座ろうとすると私を落としてしまうからできない、というのが正しいのかもしれません。

 こうなったら覚悟を決めるべきでしょう。いえ、決めねばなりません。

 頭から落ちなければ大丈夫。足から落ちれば、尻餅をつくか、悪くても足を挫くだけですむはずです。

 そう自分に言い聞かせ、目を瞑って深く息を吸ったときでした。

 

「――――何か、お困りですか?」


 そんな言葉が、足下から聞こえてきたのは。

 声した方に慌てて振り向くと、緑がかった黒髪の女性が、こちらを見上げながら立っています。

 背丈と年齢は私と同じくらいでしょうか。

 髪は頭の後ろで束ね、馬の尻尾のようにしており、整った鋭さを感じる顔立ちは、頭が良さそうというか、生真面目さが感じ取れます。

 膝丈まである真っ白な薄手の外套に袖を通し、薄茶色のチョッキに黒のズボンを身につけており、男性のようでした。

 大きな町では、女性もこういった格好をするのでしょうか?

 

「ああ、いえ、その……下りられず困っていまして」


 自分の両眉尻が垂れ下がるのが分かります。

 恥ずかしいので誤魔化したい所だったのですが、誤魔化したところでどうしようもないので正直に答えました。

 すると女性は、何か察したのか、しょうがないな、という風に小さく笑みを漏らし、


「鞍がないと乗り降りは難しいですからね。全く……」


 手を私へと差し出しながら、優しげな顔をして言いました。


「降りるのを手伝いましょう」


「す、すみません。助かります」


 通りすがりの人に手を煩わせてしまった申し訳なさと、恥ずかしさから頬に熱を感じます。

 ジンライさんの背中に手を置いて、体を支えながら跨った足を持ち上げて、背中の上で腹ばいになって足から落ちるのを、女性は私の腰を持って支え……るというより、持ち上げるようにして地面へと降りるのを助けてくれました。

 おかげで尻餅をつくことも、足首を挫くことなく地面に降りることに成功です。


「ありがとうございます。おかげで助かりました」


 深々と頭を下げながらお礼を言います。

 もう、ありがとうございます以外の言葉が浮かびません。

 こういう時、学がないと困ります。


「いえ。困った時はお互いさまと言うそうですので」


 大恩ある人の言葉なんです、と片目を瞑って見せると、ジンライさんに挨拶するように小さく頭を下げて、肩で風を切るようにして立ち去りました。

 何とも格好いい立ち振る舞いです。

 私もあんな風になりたい所ですが、無理でしょう、きっと。

 そんな事を考えながら、ジンライさんの顔の側に近寄ります。


「帰りは、あちらの道を真っ直ぐに進めばよいのですよね?」


 来た道を振り返り、そこにある大通りを指さします。

 俯いていたとはいえ、道を曲がったり、脇道へ入ったりはしなかったので、間違ってはいないはず。

 ジンライさんも、そうだというように頷きます。


「……ここまでお世話をおかけしました」


 胸をよぎった不安に、少し言葉が淀みました。

 初めての場所に一人きり。少なくとも、お屋敷に帰るまでは、ずっと。

 ジンライさんに、帰るまで一緒に居てくれ、と、そうお願いしたい気持ちが沸き上がるのを必死で押さえます。

 奴隷が、そのような我が儘をいう訳にはいきません。

 背に乗せてくださったとはいえ、ジンライさんは幻獣であり、立場は私より上でしょう。

 ご主人相手に馴れたせいか、さん付けでしたが、本来は様を付けて呼ばねばならない相手かもしれないのです。

 町の人たちも様付けで呼んでいましたし。

 だから奴隷の私が、初めの場所で不安だからなんて理由で、人様ならぬ馬様を煩わせる訳にもいかないのです。

 それに心細いなんて理由で仕事を放り出すことは出来ません。

 これは奴隷云々以前の、仕事を請け負った人間としての、当然の責任なのですから。

 だから、覚悟と決めるように、大丈夫、大丈夫と心の中で唱えます。根拠はない……訳ではないです。

 さっき、優しい人がいました。

 私を奴隷だと知らなかったかもしれませんが、それでも見ず知らずの、メイド服を着て馬に乗った変な女を助けてくれるような人。

 そんな人がいる場所なのです。初めての場所に一人に心細さは感じても、怖がる必要なんてないのです。

 そう、自分に言い聞かせ、ジンライさんに向き直ります。


「助かりました、ありがとうございます」


 お礼を述べて、しっかりと下げた頭を上げると、ジンライさんの黒い瞳がじぃっと私を見ていました。

 何か、言いたいことがあるのでしょうか?

 首を小さく傾げながら、どうかしましたか、と聞くとジンライさんは、何も言わず―――ジンライさんが文字を刻んでくれても読めないのですが―――何でもないという風に首を横に振って、何処かへと歩き出しました。

 来た道を戻るのではないので、どこかよる場所でもあるのでしょう。

 その後ろ姿を見送って、私はお役所とやらに向き合いました。

 深く、深く息を吸って吐いて、玄関へと近寄ります。

 近づくと両開きの扉に施された、細かな装飾が目に入りました。

 葉の多い茂った木の枝を思わせる模様が、左右の扉に刻まれています。

 もう非常に高そうで、来客を知らせるために扉を叩くことにすら躊躇ってしまいます。

 玄関先に届け物を置いて帰るというわけには……いきません。

 仕事を途中で放り出すというのも趣味ではありませんし、私自身好むところではありませんし。

 というわけで、来客を告げるために、扉を叩きます。


 

 こんこん。……こんここん。………こここんこんこん。



 反応がありません。留守……ということはないでしょう。

 これだけ大きなお屋敷なら、使用人さんは何人も……居ないこともありえますね

 ご主人のお屋敷とか。ご主人のお屋敷とか。

 もしかして、大きなお屋敷に使用人が少数というのが、最近の流行なのでしょうか?

 分かりませんが、今度は少し強めに扉を叩いてみることにします。



 ……どんどんどん。……どどんどん。



 これで誰も出てきてくれなかったらどうしよう。

 そんな不安を感じていると、慌てたように扉が開き、中から茶色のチョッキ姿の男性が姿を現しました。


「ええっと、どうかなさいましたか?」


 くすんだ金髪を揺らしながら、戸惑いを表すように両眉の端を下げて聞いてきます。


「ごしゅ、いえ、ツキ様からこちらに書類を届けるように仰せつかってまいりました」


 ご主人と言おうとしたのを、慌てて言い直します。

 余所でご主人と言ったところで相手には通じないでしょうし。

 しかし、敬語というのはこういう感じで良いのでしょうか?

 村では特に意識して使う事なんてありませんでしたし、ご主人に買い上げられてからも何か言われたことがないので、今ひとつ分かりません。


「とりあえず、そうですね。窓口へ書類をお出しになるのはいかがでしょう?

 そこで書類を改めれば、必要なことは諸々分かるでしょうから」


 男性は柔らかい笑みを浮かべながら言いました。

 なるほど、窓口に出せばいいのですね。

 ところで。


「窓口とは何でしょう?」


 分からなかった部分を聞いてみます。

 

「書類の受け渡しや公的な手続きや事務を行う場所……です」


 少し自信なさげに男の人は答えてくれます。

 どうやら、ご本人もよく分かっていないようでした。

 公的な手続きや事務とは何なのかと聞きたい所なのですが、相手に悪い気がするので止めておきましょう。

 というか、これ以上、根を掘るように聞いても嫌がらせにしかならない気がしますし。


「あの……もしかして、役所に来るのは初めてですか?」


「はい。今日が始めてとなります」


 私の返事に、なるほど、と納得したかのように男の人は頷きます。

 初めてという言い方からするに、このお役所というものは、頻繁に訪れる場所なのでしょうか?

 だとすると、嫌なお話です。色々と、空気すら高そうな場所に何度も来ることになるのでしょうから。

 

「それで扉を叩いたのですね。

 役所は領民に対して公開された場所ですので、朝の四の鐘から昼の三の鐘が鳴るまでは誰でも出入りができます。

 ですので、次からは扉を叩かずに、中に入ってしまっても大丈夫ですよ」


 朝の四の鐘から昼の第三の鐘ってなんでしょう。

 朝とか昼とか言ってる所からすると時間を表しているのでしょうか?

 時間は日と月の傾きと、それが傾くまでの時間を大まかに言い表すもので、昼の三の鐘とかいう言い回しは時間を示すものとは思えません。

 あと、私って領民になるんですかね? 奴隷なんですけど。


「中に入ってどこに行けばいいのか分からなければ、空いている窓口か職員に説明を求めれば対応してくれます。

 それで、窓口というのがどういう場所かと言いますと、区分けされた横長の机ですね。

 これに関しては見れば分かるでしょう」


 男の人は嫌な顔一つせずに説明してくれました。

 奴隷に対して、いえ、無知な娘に対して、驚くほどに紳士的です。実際に紳士と呼ばれる人なんて見たこと無いですが。

 これは、やはり私を奴隷だと気づいていないからでしょう。

 まあ、うん、メイド服を着てて、首輪してない奴隷とかまず居ないでしょうし。

 後はメイド服の力でしょうか。メイド服を着ているのは、概ねお屋敷に勤めている人間ばかりはずです。

 お金持ちの使いに粗相をしたり、その相手に行儀見習いをしている地位ある人の娘さんだったりしたら、それはもう大変な事になってしまうのは想像に難くありませんから。


「ご丁寧にありがとうございます」


 ぺこり、と頭を下げると、男の人は「いえいえ」と笑顔で首を横に振り、扉を開けると閉まらないように腕で押さえながら言いました。


「これも業務の一環ですので。

 さ、中へどうぞ」


 業務ってなんでしょう?

 難しい言い回しなので、ついついどんな意味か聞きたくなってしまいますが、流石に私の相手をさせ続けるのも悪いので我慢します。

 一礼しながら中へと入ると、そこは高い天井についた天窓から差し込む明かりに照らされた、横長に広い作りをした広間でした。

 広間を横半分で区切るようにして長い机が置かれており、衝立で区切られている所からするに、あれが窓口と呼ばれるものでしょう。

 机の奥には区切られた場所一つにつき一人、説明をしてくれた男性と同じようなベストを来た人が椅子に座っているようす。

 そして入った扉側には、長椅子が綺麗に並べられており、何人かの――おそらくは町の人でしょう――が腰掛けていました。

 取りあえず空いている窓口に行けばいい、と言っていたので暇をしてそうな人を選んで、その窓口へ近づきます。

 近づいてみると黒っぽい……ご主人のそれに比べると濃い茶色にしか見えない髪の女性が俯くようにして本を読んでいました。


「あの、書類を届けるように頼まれたのですが……」


 声をかけると慌てるように本を閉じて、俯いていた顔を上げました。

 

「はい、どのような書類でしょうか?」


 慌てたような表情も僅かのこと。

 すぐににっこりとした笑みを浮かべると、ハキハキとした口調で言いました。


「内容は聞いていません。ただ、急ぎとだけ」


 分かりました、と担当の女性は頷きます。


「では、書類の中身を確認させていただいても宜しいですか?」


 はい、と返事をして、手にした紙と羊皮紙を机の上に置いた時でした。

 担当の女性が驚いたように目を見開き、その目は私と羊皮紙の間を行ったり来たりします。

 なんでしょう、この反応は。丸まったままで中身もまだ確認していないのに。

 何か悪いものだったりするんでしょうか、この羊皮紙。

 あまり聞きたくありませんが、持ってきた手前、聞かなければならないでしょう。


「あの、どうかなさいましたか?」


 私の声に、女の人は我に返ったのか、視線を行き来させるのを止めましたが、顔からは笑顔が無くなり確かな緊張が見て取れます。

 驚くほど真剣な表情です。え、何なんですかこの反応。

 女の人は羊皮紙を手に取ると、開封する事無く私へと差し出します。


「申し訳ありません。こちらの羊皮紙ですが、これを開封する権限が私にはありません。

 お手数ですが町長室までお持ち頂けますか」


 何の問題があったのでしょう? 町長室って、町の長がいるところですよね? ええ、なんで? 町長室なんで?

 これは町長に会えという事なのでしょうか? 町長って絶対に村長より偉いですよね? どういう事なんですか!

 ご主人からは何も聞いていませんよ!?


「ど、どういう事でしょう?」


 動揺を隠しきれない。いや、だって町で一番偉い人の所に行けとか言われて動揺を隠す方が難しいですよ。

 そんな私を見て落ち着いたのか、担当の女性は先ほどのような笑みを浮かべて説明してくれます。

 なんか態度がさっきに比べて、心なし丁寧になった気がしますね。


「この封蝋がされた書類は、領主様、町長、郵便局長、医学長、地方執務長、学校長の何れかしか開けてはならない決まりがあります。

 そして原則、使いの者が直接手渡すことになっています」


 私、そんなこと一言も聞いていません。

 お役所に届けろとしか言われていないのですが。

 あ、いえ、町長室がお役所にあるのであれば、確かにお役所に届けろでも間違っては居ませんね。

 童話に出てくる悪者が使う、間違ってはいないが本当でもない言い回しではないですか………。


「恐らく説明を忘れたのかと。普段はご自身でお持ちになりますので」


 私の動揺を見て取ったのか、慰めるように女性が言います。

 慰めというよりも、ご主人を庇うような感じですが。

 ひどい。もう虐めじゃないでしょうか、これ。虐めですよね。


「代わりに届けては……?」


 縋るように頼んでみますが、首を横に振られました。


「申し訳ありません。

 規則ですし、今の仕事が気に入っていますので鉱山での無期労働はちょっと……」


 あ、重罪なんですね。この羊皮紙を他人に託したり、恐らく勝手に中を見たりとかするのって。

 差し出されたそれを受け取ると、何となく渡す前よりも重くなったように感じます。水が半分くらい貯まった桶くらい。

 なので落とさないように確りと、胸に抱くようにして持つようにします。


「こちらの、紙の書類は受け付けますので、帰りにでもお寄りください。

 これが引き替え札です」


 言いながら差し出されたのは、番号が刻まれた手のひら大の木の板でした。

 仕方がありません。覚悟を決めて行くしかないでしょう。

 札を受け取りながら聞くべき事を聞くことにします。


「それで、町長室はどちらでしょう?」


 担当の女性が体を乗り出して、広間の右壁に設置された両開きの扉を手で示しながら言いました。


「あちらの扉の先を潜った先の廊下を真っ直ぐ進むと途中に階段がありますので、それを上ってください。

 そしたら向かって右手側に進むと突き当たりに扉がありますので、そちらが町長室となります」


 単純な道ですので間違えることはないでしょう。

 軽く頭を下げて、教えて貰った扉を通って廊下を進んでいきます。

 幾つかの扉を横切り、仕事中と思われる人たちとすれ違って、階段に差し当たります。

 これ以外に途中階段が無かったので、上るべきはこれでしょう。

 さして急でもないですが長めの階段を登り切って―――――――。


「―――ひっ」

 

 佇むそれを見た瞬間に息が詰まり、体から血が失われたように感じました。

 自分の目が見開き、それを強く見据えているのが分かります。

 息が出来ません。体が自分のものでなくなってしまったかのよう。


「あ―――っ、な―――」


 目すら自由に動かせず、目の前のものから反らせない。

 鉄か、鋼か、銀色の人型。冷たげで感情的なものを感じさせないもの。

 胸が高鳴り、逃げるように僅かに背後へと後ずさります。

 

「――――ないで」


 不思議です。息が出来ていないのに、掠れるような、絞り出すような言葉が漏れました。

 落ち着きなさい私。それは動きません。置物です。置物なのです。飾り物なのです。

 迫ってなんて来ていません。気のせいです。気のせいなんです。だから来ないで。

 いえ、来てなんて無い。それは動いてはいません。だから大丈夫。

 喉に声が詰まっています。来ないでと叫びたいのに、声が出ません。

 違います。来ていません。それは動いてません。近づいてきてないから、叫ぶ必要なんてありません。

 落ち着くために大きく息を吸おうとしても、喘ぐように息を小さく吐いては吸うばかり。

 更に一歩、逃げるように下がり――――足が空を切りました。

 何かに体を引かれるような感覚。いけないと思うけれど、時は既に遅く。

 私は背後の階段へと、縄で引かれるようにして体を落としました。



 傾いでいく世界の中、壁際に身じろぎ一つせず佇む板金鎧から目を離せずに―――。


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