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1 くらすちぇんじ

稚拙な文章ではありますが、楽しんで頂けると幸いです。

あと超遅筆なため、半年に一回の投下になると思われます。

 

 

 1 くらすちぇんじ

 

 

 

 

 ―――――村が焼かれた。

 


 ただそれだけのお話です。

 よくあるお話。珍しくも何ともありません。

 私は生まれた村から出たことがありませんでしたが、村に立ち寄った旅人さんや行商人さんから、そういった話はよく聞きました。

 たとえば、十数年前にどこからともなくやってきて、数年前に打ち倒されたという八大魔獣なる恐ろしい存在に襲われてしまった村の話。

 私の住んでいた村でも被害者が出てしまった、魔獣が生み出したという怪物、その群れに村を襲われて、命からがら逃げ出した村人の話。

 そして山賊団に襲われて全滅してしまったという村のお話。

 実際に山賊団に村を襲われて、命からがら逃げ出したという人を村で助けたこともありました。

 ですから、こういった話は遠いどこかの他人事などではなく、自分にも降り懸かるかもしれない、どうしようもない災厄として、胸奥に確かな恐怖が存在していたのです。

 だからでしょうか。

 村を焼かれたこと自体は、運がなかったのだと諦めとともに受け入れてしまいました。

 だけど、一つだけ受け入れられないのは、私の……私たちの住んでいた村を焼き払ったのが、私たちを守るはずであった騎士団であったことでしょう。

 日々汗水垂らして田畑を耕し、そうして得たものの大半を取り上げられる。

 木の実に虫、茸、それに水で飢えを紛らわして、家族友人と肩を寄せあって耐える毎日。

 それも村を、家族を、友人隣人を守ってもらうための対価と思えば受け入れられました。

 けれど、その結果がこれでは、今までの頑張りが無駄だったのだと踏みにじられたようで、それが何よりも辛い。

 助け合って維持してきた小さな村、苦しくはあったけれど明るかった毎日。

 失われてしまったあの日々は、一体なんの為にあったのでしょう。

 

「誰か買わないかい! こんな薄汚い成りだがね、着飾ればそれなりのもんにはなるはずさ! お買い得だよ!!」

 

 見知らぬ、薄汚れた街の片隅、鎖付きの首輪をはめられ、地面にヘたり込みながら項垂れて、閉じた瞼の裏に写るのは失われてしまった故郷の小麦畑。

 肥えた土地ではなかったから、お世辞にも質がよいとは言えないかもしれないけれど、それでも収穫期に見ることができた、黄金に染まる小麦畑の美しさは小さな自慢だったのに。

 それも今となっては跡形もありません。

 炎に焼かれ、軍馬に踏み荒らされて、残ったのは荒れ地だけ。

 想い出の中の小麦畑を思い出す度に、連れ去られ際に見たその光景が胸を削るよう。

 吐き出した息が軽い。まるで体の中身が空っぽになったかのようでした。

 

「そこのお兄さん! どうだい! やせ細ってるけど中々の上玉だよ!!」

 

 胸にゆらめく、深く重い形のないこの感情は何というのでしょう。

 学も経験もない私には、その感情に名前をつける事ができません。

 

「おい! ちったぁ愛想良くしやがれ! 買い手がつかねぇだろ!」

 

 側で客の呼び込みをしていた人売りが、私の首輪から延びる鎖を力任せに引きました。

 それに抵抗するだけの気力が湧きません。

 だから、なすがままに首輪に持ち上げられるようにして顔が上がります。

 母が綺麗だと、褒めながら梳ってくれた、自慢の灰銀色の髪。

 目にかかった、フケと脂、それに泥と埃で汚れに汚れ、荒れ果てた前髪の隙間から覗いた景色の中で、まばらな人波を避けるようにして進む若い男の人と目が合いました。

 恐らくは偶然に。あるいは人売りの怒声を聞いて顔を向けたのかもしれません。

 私と目を合わせた男の人は、厭そうに顔を歪めます。

 泥と煤、それに血で汚れた、ボロ布同然の服を身につけただけの、やせっぽちで肌も髪も荒れ果てた女と目を合わせて、いい感情を持つ男の人は、きっといない。

 自分だって同じような姿をした人を見れば、目を剃らすか、顔をしかめるでしょう。

 だから、男の人の反応は当然のもので、だからこそ女としてそんな姿になり果てた事が悲しかった。

 村に居た頃は、農作業の手伝いと炊事のせいで泥と煤に汚れてはいたけれど、それでも収穫祭などのお祭り事では、数人の男性に踊りの相手を申し込まれる程度のものではあったのに。

 首を傾げるようにして俯いて、目を瞑ります。

 首輪に喉を押される形になって苦しかったけれど、それでも人に見られていることを自分で見るよりはよかったのです。

 

「お、兄ちゃん! この娘が気に入ったのかい! 愛想はないが手つきのない初物だぜ」

 

 買い手が来たのかと、うっすらと目を開けば、仕立てのよいズボンと靴が目に入りました。

 私のような、安い奴隷を買うような人間の物とは思えない仕立てをしています。

 お金や地位のある人は、競売場と呼ばれる場所で奴隷を買うらしいから。

 

「……言い値でいい」

 

 押し殺したかのような抑揚のない声が降ってきます。

 

「そいつは豪気だ!」

 

 嬉しそうな人売りの声。

 男性の言葉に嘘はないらしく、交渉の一つもなく、人売りが口にした額で私は買い上げられます。

 銀貨にして三十五枚。

 その値は在りし日の我が家で飼っていた、家畜一匹よりも安かった。

 

 

 

 *

 

 

 

 

 あれから、私はほろ馬車へと乗せられ、どこかへと連れて行かれる事となりました。

 馬車に揺られること五日ほど……でしょうか。

 どうにもぼんやりしていて正確な日数を覚えていませんが、十回くらい食事があったので、それくらいだと思います。

 私を買った人が御者を務める幌馬車が静かに止まり、振り向いた私を買った人から降りるよう手で促されました。

 目的地へと到着したのでしょうか。

 指示に従い馬車から降りて、地面に足をつけたところで、その冷たさに身を震わせました。

 馬車に乗っている間は素足でも問題ありませんでしたが、流石に地面は厳しいものがあります。

 ただ、冷た過ぎて痛いという事はないので我慢です。

 それに人売りに買われるまでの間、放り込まれていた牢屋のほうがよっぽど厳しかった。

 足裏に伝わる冷たさから気を逸らす為に周囲を見渡すと、大きな―――私が住んでいた家が六つは入りそうな、二階建ての家屋が目に入りました。

 幌馬車が止められた門前から玄関口までは、家が一軒入りそうな広さがあり、罅一つないレンガが一直線に敷かれています。

 レンガ道の左右に広がる前庭には何も無く、踝の高さで切り揃えられた雑草が風に揺れていました。

 村で最も大きかったのは村長の家でしたが、それとはあらゆる面で比べものになりません。

 家屋の壁は白く、太陽の光を反射する窓には曇りもない。

 前庭の雑草は、恐らく小まめに切り揃えられているのでしょう、何れも維持するのに相当な手間暇がかけられているのが解ります。

 見たことがない景色を前に呆けている私の脇をすり抜けるようにして、私を買った人が玄関へと歩いていきます。

 そして数歩進んだところで、ぴたりと足を止めました。

 どうかしたのでしょうか?

 さほど大きくもない―――私と同年代の男性に比べて小柄な背中をボーっと眺めていると、ふと足を止めた理由が思い浮かびます。

 いえ、恐らくは思い違いだと思うのですが。

 その背中に向かって歩き出すと、私を買った人も歩き出します。

 ……どうやら思い違いなどではなく、私のことを待っていてくれたようでした。

 命令するか何かしてくれればいいのに、馬車から降りるときといい、奴隷には声をかけるのも嫌だという人なのでしょうか?

 確かに、買い上げられてから今の今まで声をかけられた記憶がありません。

 深い無力感に苛まれ、抜け殻のような私でしたが、流石に声をかけられて気付かないということはありませんし、奴隷如きが無視しようものなら厳しい叱責を受けていたはずです。

 やはり奴隷に声をかけたくないだけなのでしょうか?

 しかし馬車旅での事を思うと、私を買った人が奴隷に声をかけるのを嫌うとも思えないのです。

 なぜなら……ガチャリ。

 ――ガチャリ? 何の音でしょう? いきなり聞こえた覚えのない音に、驚きから足が止まりました。

 そして、すぐ目の前にある私を買った人の背中。考え込んでいて前が見えなくなっていたようです。

 既に玄関前に辿り着いていて、立ち止った私を買った人の背中にぶつかる寸前だったようでした。

 ぶつかるなんていう無礼を働いたら、叱責どころか鞭打ちでしょう。危なかったです。

 しかし、先ほどの音は何だったでしょうか。

 行商人さんが使っていた、荷物固定用の縄についた金具を、馬車の金具にひっかけた時の音に似ていた気もするのですが。

 そんなことを考えていると、私を買った人は扉を開けて室内へと入っていきます。

 扉を閉めないところからするに、私も中へ入ってもよいのでしょう。うん、たぶん、きっと入っていいはずです。

 少しばかりの不安と共に室内へと足を踏み入れて、目に入った光景にため息すら漏れませんでした。

 幼い頃、村のお爺さんが語ってくれたおとぎ話を、何の前触れもなく思い出していたから。

 別の世界からやってきた英雄と竜のお話。その中に登場した、とてもとても綺麗なお城のことを。

 私が住んでいた家が入るんじゃないかと思うような広さの玄関広間は吹き抜けになっていて、高い位置にある天井には天窓が付いていました。

 天窓から差し込んだ光は、薄茶とこげ茶が交互に組み合わされた木の床と、染み一つない白い壁を美しく照らしあげています。

 広間の両端には、それぞれ壁に沿って作られたコ型の階段があり、張り出し式の二階廊下へと繋がっていました。

 そして見える位置にある五つの扉。張り出し式の廊下の下、玄関扉の正面に一つ。左右の壁、階段より手前の玄関側の位置に一枚ずつ。張り出し式の二階廊下の左右に一枚ずつ。

 もしかしたら階段の裏にも扉があるのかも知れませんが、私の位置からは見えません。

 いずれの扉も、村にあった家々のものとは比べものにならないくらいにしっかりとしており、ささやかな彫細工が施されているように見えます。

 押し付けるような派手さこそないものの、沁み入るような、静かな美しさがありました。

 おとぎ話に出て来たお姫様のお城は、きっとこういう場所なのだと強く強く思って―――泣きだしたくなりました。

 こんな綺麗な場所を心の中ですら確りと言葉にすることが出来ないのが悔しくて、言葉を知らず学の無いのが恨めしい。

 何より、こんなおとぎ話の中のような場所で、私はどんな姿をしているのか。

 その事を思い出してしまったら、綺麗な玄関広間を見ている事なんてできなくて、目を逸らすように俯きます。

 けれど俯いたのは間違いでした。だって自分の姿恰好をみてしまったから。

 泥などに塗れた、服とは言いたくないボロの布。汚れた素足。目にかかった汚れに汚れた灰色にしか見えない灰銀色の髪。

 人売りの所にいた頃は、周りも綺麗ではなかったから意識する事はなかったけれど、こうまで綺麗な場所にいると自分の格好を自覚してしまいます。

 なんて、なんて…………なんというのでしょう? 思いを言葉にしたいのに、知らないから言葉にできません。

 似た言葉を選び出すのならば、みすぼらしいでしょうか……。

 そう考えに集中していると、カチャリと首元で音がして、何か硬いものが滑り落ちるのを感じました。

 

「……えっ?」

 

 そして、首筋にひやりとした空気を感じて手をやると、そこには首がありました。いえ、首しかありませんでした。

 私の首に巻かれていた首輪が失われていたのです。どういうことでしょう。いきなりの事に自分の目が驚きに見開かれたのが解ります。

 

「その廊下の突き当たりに風呂場がある」

 

 その言葉に、慌てて私を買った人に顔を向けました。

 その手には、先ほどまで私の首に嵌っていた首輪が握られており、空いた手で廊下の廊下の奥を指さしています。

 

「まずは汚れと疲れを落とすといい。脱衣所にある布類、それに歯木と塩は好きに使え。

 

 それと着替えだが……服と、俺の未使用の下着、それにつっかけを風呂に入っている間に用意しておく。

 

 思うところはあるだろうが、それに着替えてるように」

 

 私を買った人が、決まりの悪そうな表情をして言いました。

 奴隷に自分の下着を与えるというのが嫌なのかもしれません。

 

「俺はあちらにある談話室にいる。扉を開けておくから解るだろう。風呂に入ったら顔を出せ」

 

 先ほど指差したのとは別の廊下を示すと、私を買った人はそちらへと歩き出します。

 前置きも説明もなく首輪を外された事による驚きと、向けられた言葉を受け入れるので精一杯。

 なぜ首輪を外したのかを聞く余裕もなく、その背中をぽかんとしたまま見送るばかりでした。

 

 

 *

 

 

 ……湯船に浸かるなんて、初めての経験です。

 浸かれるだけの水を沸かす分の薪を用意するというのは大変な労力ですし、買うともなれば結構なお金が必要になります。

 なので少なくとも、私の住んでいた村では桶に汲んだ水に布を浸し、それで体を拭うのが基本でした。

 余裕がある時は、近くの泉や川に身を清めに行きましたが、まあ暖かい時期で、畑の世話が一段落した時に限られた、ささやかな贅沢です。

 大きな街には公衆浴場なるものがあり、貴族やお金持ちの屋敷には専用のものがあると聞きましたが、まさか私を買った人は貴族なのでしょうか?

 解りませんが、とりあえずは服という名の衣キレを脱ぎ、置いてあったカゴの中へ。

 脱衣場の片隅に畳んで積まれていた布と、円柱形の陶器の入れ物に差してあった歯木を一つ、それにその傍らに置いてあった手のひら大の陶器の塩入れを持って浴場へと足を踏み入れます。

 床や壁は滑らかな見た事もない白い石でできており、洗い場の壁には曇りの無い鏡が設置され、奥には私が数人入ってもなお余る広さの長方形をした浴槽から、湯気を立てた温水――だと思います――が溢れていました。

 そして浴槽のある部分の天井はガラス張りになっており、日の光がさんさんと照らしこんできています。

 この流れ続けるお湯は一体どこから来ているのかという不思議はありますが、今は浴場の片隅に置かれていた桶を手にとって体を洗う事にしました。

 贅沢に、浴槽からたっぷりとお湯を汲んで、念入りに頭と体を洗っていきます。

 髪はフケと脂、それに埃などで汚れ固まり、体は垢と泥にまみれていて、洗うのにも一苦労。

 何度もお湯を桶に汲み直し、髪にかけては両手で挟んで擦るように、ほぐす様にして洗っていきます。

 正直、髪の毛が痛みそうで嫌なのですが、こうしないとこびり付いた脂が落ちないのです。

 そうして暫く洗い続け肌寒さを感じ始めた頃、漸く洗い終わりました。

 かなりすっきりしました。腕が疲れましたが、フケも脂も埃もない、指で髪を梳けるほどに柔らかくなったので満足です。

 続いて、濡らした布で体を拭うようにして洗っていきます。

 

「…………おぉぅ、これは」

 

 肉が削げたかと思いました。

 驚くべき垢の量。自分の体から出たものながら不快としか言いようがありません。

 今の自分の汚らしさを正しく―――本当に正しく理解しました。

 というか、もしかしなくても私、かなり匂っているんじゃ………。

 ……………………………………………………………………………………。

 この事に関して私は何も考えないことにしました。時には真っ直ぐにものを見ないほうが良いこともあるのです。

 なので頭を空っぽにしてひたすらに体を布で擦っては布を洗い湯を被りを数度繰り返しました。

 結果。

 

「さっぱりです」

 

 夏の日に川や泉で水浴びしたかのようなさっぱり感。

 皮を脱ぎ捨てたシューラの気分が解るようです。

 ちなみにシューラというのは、古い皮を脱ぎ捨て大きくなる細長い縄っぽい動物です。

 

「次は歯ですね。

 ……ええ、しっかりと磨きましょう。磨くように言ったということは口も相当に……」

 

 そこまで言って歯木を加えます。流石にその先は口に出したくなかったのです。

 歯木の先端部を噛んで噛んで必死に噛んで、ぼさぼさになったのを確認したら歯を磨いていきます。

 一通り磨いたら、一旦、お湯を口に含み、濯いで吐き出します。

 そうしたら塩入れからを一摘み分の塩を手のひらに取りだし、それを歯にしっかりと刷り込み、もう一度歯を歯木で磨いていきます。

 塩も安くはないので滅多にしない磨き方ですが、今はこの滅多にしない磨き方をしないといけないと思うのです。

 そして最後に、数度お湯で口の中を濯いで塩っけを洗い流して、歯磨きは終了です。

 

「さて、と。風呂に入れと言われましたが……」

 

 どうしましょう? 頭と体を洗うのに随分と時間をかけてしまいました。

 私を買った人は、談話室とやらで待っていると言っていましたし、下手に待たせて機嫌を損なわれても困ります。

 お湯に浸かるのは止めて、速やかに談話室とやらに向かうべきでしょうか。

 視線を浴槽に向けながら考えます。そして瞬き一回分という恐ろしく長い時間を考えに費やし、決めました。

 

「入りましょう。入れと言われましたし」

 

 いつ手打ちにされるかも解りませんし、今、入らなかったらお風呂に入る機会なんてもう巡っては来ないでしょうから。

 恐る恐るですが片足を浴槽の中へ。

 

「ほぅ」

 

 冷え始めていた足を包んで沁み入るような感じ。

 熱すぎず冷たすぎずなお湯の熱が、じわりじわりと奥へと伝わる感じは、なんともいえない心地よさがあります。

 転ばないように気をつけながらもう片足を浴槽へ、そして一気に肩まで浸かります。

 これは癖になりそうな感じです。

 心地よい熱を受けて、ゆっくりと体から力が抜けていく感じは心地よいです。

 足を延ばして浴槽のへりに頭をのせてゆっくりとくつろぐと、お湯に広がった髪が背中を撫でて、くすぐったさを感じます

 

「はぁぁぁぁ」

 

 知らず知らずのうちにのんびりとした息が漏れました。

 体から余分な力が抜けて、周囲に危険もなく安心できたからでしょうか。

 人売りに売り物として扱われていた頃に比べると、驚くほどに余裕が出来ていて、それがどうにも不思議です。

 私を買った人がどんな人かも、まだ解っていません。だから、先の事は不安ばかりのはずなのに。

 どうして不安におびえることなく暢気でいられるか。

 もしかしたら暖かなお湯に浸かっているからかもしれないと考えて、違うと首を横に振りました。

 

 

 心当たりを思い出したから。

 

 

 呆けていたのもあって詳しくは覚えていませんが、不安を強く感じない理由、心に余裕がある理由。

 それは、きっと、馬車旅の中にあったのだと思います。

 傍に害のある存在がなく、また途中途中で差し出された食事が暖かであったこと。

 それによくよく思い出せば、食事は手が凝っていた気がします。

 たしか内容は、具のない、けれど食べたことが無いくらいに濃い味をしたスープと、蒸されて柔らかくなったパンでした。

 きっと、それが心に余裕を生んだのでしょう。

 

「でも、おかしいな……」

 

 奴隷風情にそんな手の込んだ食事を出したことが。

 自分が食べるついでだったのかも知れませんが、それでも不思議に思いました。

 私のような労働奴隷には、最低限の施しだけして使い潰すものと聞いていたのに。

 私の聞いた話が間違っていたのでしょうか?

 実際に労働奴隷を見たことはありませんし。

 色々と考えましたが答えは出ず、少しくらくらとしてきたのでお風呂から出て脱衣所へ。

 新しい布を手にとって、髪と体を念入りに拭います。

 水気を拭ったら、後は着替えですが………脱衣所を見回すと直ぐ見つかりました。

 私が脱いだ布キレを入れて置いたカゴには、いつ置いたのか、布キレの代わりになんか綺麗で真っ白な服が納められ、その上に二枚の布が乗せられています。

 片方の布は下着のようでした。腰に巻く細長い薄布で片端の両角から紐が伸びた、男女共に身につける下着です。サイズが大きめであること以外は問題ありません。 

 もう片方の布は………普通の長い布でした。恐らく胸に巻く用だと思うのですが、男性ですし仕方がないでしょう。

 女性が胸に巻く布は、布の上下を紐で補強して揺れたりしないようにするのです。

 とはいえ無いよりはマシなので下着を身につけ、籠の中の服を取ろうと目を向け―――え? これ? これを着ろと?

 取ろうと伸ばした手が震えます。

 

「これ………絹? うそ、絹!?」

 

 手に取り広げたそれは、驚くべき事に、そして信じられない事に絹のワンピースでした。

 普段、身につけている木綿の服などとは比べものにならない、柔らかですべすべとした手触りと軽さ。

 一生、縁がないはずの高級品です。私を買った人は何を考えているのでしょうか?

 田舎者虐めでしょうか、そういったものもあると、行儀見習いに行ったことのある村の女衆の何人かが言っていた気がします。

 とりあえず他に着るものがないか脱衣所を見回しますが―――空っぽの棚などがあるばかりで、服などは見あたりません。

 戸棚を開けば何かあるかもしれませんが、流石にそれは問題があるでしょう。

 いえ、問題どころか一発で無礼討ちな気がします。

 

「着るしか、ありませんか………」

 

 思うところはありますが、これ以上裸のままでいたらせっかく暖まった体が冷えてしまいます。

 覚悟を決めて、恐る恐るながらに着てみると、少し大きかったですが問題なく着ることができました。

 まあサイズぴったりの服を出されても、気味が悪くありますが。

 

 

 

 

 そうして脱衣所の出入り口に置かれていたつっかけを履いて、そこを後にしました。

 大きな窓が並ぶ、飾り気のない廊下を進み、示されていた談話室へと向かいます。

 広くはありますが、基本的には一直線なので迷うことはありませんでした。

 問題なく指示された部屋へとたどり着き、開いていた扉を潜って中へと入ります。

 そこは談話室の名の通り、話すことを目的とした部屋なのでしょう。

 村の集会場よりも少し小さい程度の広さをした一室で、床には絨毯が敷かれており、そのまま座れるようになっています。

 部屋の奥にはガラスの器が二つ―――なぜか逆さまに置かれています―――と水差しが置かれた縦長の机に、椅子が四つ並べられています。

 そのうちの一つ、壁側の椅子に私を買った人が腰掛けて本を読んでいました。

 私が来たことに気づいていたのか、ちょうど本を閉じるところでした。

 椅子に座るように手で促され、扉側―――机を挟んで反対側の椅子に座ります。

 すると、何ということでしょう。

 手元にあった水差しから器に水を注ぐと、目の前に置いたのです。

 奴隷に主人自らが飲み物を用意するなんてこと、聞いたこともありません。

 手にとってよいものかと迷っていると、お風呂で汗をかいた事もあって乾いていた喉が、知らず知らずのうちにごくり、唾を飲み込みます。

 

「その……飲んでも?」

 

 私の問いかけに、その人は小さく頷きました。

 恐らくは、飲んでいい、という事だと思います。

 そう受け取って、水を一口飲みました。

 ……よく冷えているからでしょうか、不思議と村の井戸水とは味が違う気がします。

 

「何が出来る?」

 

 私が器から口を離したのを見計らっての問いかけでした。

 ただ、前置きのない質問だったので、なにを求められているのか把握するのに、呼吸三つ分ほど必要でした。

 この人は、私が何の仕事をこなせるかを聞いているのだと思います。

 たぶん。たぶん。………たぶん、おそらくきっと。

 

「えっと、簡単な針仕事と掃除洗濯炊事、それに手伝い程度に農作業が出来ます」

 

 針仕事は古くなった服の手直しを、掃除洗濯炊事は男が仕事に出ている間の女の仕事で、農作業は主に収穫などの力や体力を余り使わない手伝い程度に。

 農家の女なら誰でも出来る程度のことで、それ以外には何も出来ません。

 下手に嘘を吐いても、それがばれた時に怒らせてしまうことになるでしょうから正直に答えます。

 

「文字の読み書きは?」

 

「出来ません」

 

 それができる人間のほうが少数です。少なくとも私が暮していた村では。

 大きな街などでは違うのかもしれませんが、そこらへんは私にはわかりません。

 

「四則演算は?」

 

「御免なさい。それはどういう意味でしょう?」

 

 初めて聞く言葉でした。何かの必殺技でしょうか?

 弟や男の子らが奇声をあげながら木の棒を振り回して遊んでいたのを思い出します。

 彼らはどうしているのでしょう。逃げられたのか、それとも私と同じように捕まって売られたのか………。

 私が捕まっている間、声も聞きませんでしたし、姿も見ませんでしたから、もしかしたら逃げきっているかもしれません。

 せめて悪い結末でないことを心の片隅で小さく祈ります。

 

「簡単な計算は?」

 

「出来ません」

 

 文字の読み書きも含めて、私が住んでいた村でそれらを一通りできるのは村長一家くらいでしょう。

 この人は農村出身の奴隷に対して何を期待しているのか。

 そして何をさせたいのでしょう。

 私を買った人は少し考えるように視線を泳がせて、それから見たこともないくらいに真っ黒な瞳を私に向けました。

 

「服の手直しは?」

 

「簡単なものでしたら」

 

 さっきも言いましたが、針仕事はできます。

 身の回りの品は基本的に母や祖母のお下がりで、サイズを合わせたり、補修をするのは普通のことです。

 ですので得意な部類の仕事です。流石に絹の服を補修しろと言われても困るので簡単なものと言っておきます。

 できない仕事を振られて叱られるのはイヤなので。

 

「明日にでも前任が使ってたメイド服をやる。

 一週間ほど休んでていいから余裕を見て自分用に手直しするといい」

 

「私にメイドをやれと言う事でしょうか?」

 

 一週間ほど休めという言葉に首を傾げながら、私はそう聞き返します。

 この人は本当に何なのでしょう。奴隷を小間使いにするというのは判るのですが、何故に一週間もの休みをくれるのでしょう。

 基本的に奴隷とは使い潰されるもので、体調の善し悪しなんて関係のない事柄の筈です。

 私を買った人は、こくりと頷くと言いました。

 

「その通りだ。仕事は家の掃除だけだが給金も出す。

 それと仕事は夕食までに終らせろ、寝るまで文字の読み書きと算術を教えてやる」

 

 ………奴隷に給金を出すという。奴隷に勉学を授けるという。

 この人は本当に何なのだろう。悪魔とか悪鬼とか、そう呼ばれる存在なのでしょうか。

 私が驚きに呆けていると、更に畳みかけるように言ってきます。

 

「部屋は二階の、北端から二つ目のだ。扉を開けっ放しにしておいたから判るだろう。

 それと後で部屋に食事を持って行ってやる。部屋に戻って休んでいろ」

 

 その言葉に私は考えるのを止めて席を立ちました。この人について、余り深く考えない方がいいと思ったのです。

 生きてた世界が違う。歩んできた人生が違う。色々と意外すぎるからきっと考えが合わないし、理解しようとすれば頭が痛くなるだけ。

 そう直感的に感じたのです。だから、考えるのを止めて部屋を出ようと背を向けようとしたとき、ふとした謎が生まれたので、やめればいいのに聞いてしまいました

 

「なんで、私を買ったんですか?」

 

「目が合ったから」

 

 その言葉を聞いて、始めてこの人が、あの日、あの時に目が合った若い男性だと理解しました。

 何故という想いが頭の中を埋め尽くしていきます。何を思っているのか、判らないぐらいに多くの謎が浮かび上がって目眩すら感じてしまう。

 逃げるように部屋を後にしようと背を向けて、そこに声が投げ掛けられました。

 

「少しは元気になったようで何よりだ」

 

 ぶっきらぼうで、投げ捨てるようだったけれど、労りに満ちた声。

 その声がとても胸に染み入ります。

 頭が問いかけで埋め尽くされていたからでしょう。自然と答えは口から漏れ出るようにして。

 

「きっと、ご飯が美味しかったからです」

 

 呆けてはいたけれど、馬車旅の途中で食べた食事の温かさは確かに覚えている。

 味が濃かったのは、具を原型が残らないほどに切り刻んで、よく煮込んでくれていたからでしょう。

 今思えば、蒸されたパンも含めて私の体を考えてくれたものだったのでしょう。

 

 本当に理解が出来ない。奴隷に対して、何を気を遣っているのか。

 

 私は頭を埋め尽くす謎に目眩を覚えながら、小さく頭を下げて部屋を後にします。

 取りあえずは与えられた部屋でゆっくり休んで、この頭を埋め尽くす謎を忘れてしまいましょう。

 

 

 

 

 

 最後の最後に、やっぱり大きな謎が叩きつけられました。

 与えられた部屋には、ランプが乗せられた机に服を入れる大きな戸棚。

 そして毛布と適度な堅さのマットが置かれた、しっかりとしたベッドがありました。

 これは奴隷に与える部屋ではありませんが、絹の服を奴隷に貸し与える人です。

 今更、驚くこともないのかもしれません。

 そう思う思うことにしました。

 

 

 

 *

 

 

 

 ―――――そうして一週間後。

 与えられたメイド服に身を包んだ私は、二階廊下を歩いていました。

 家の掃除を言いつけられていますが、詳しい仕事の内容や家の決まり、入っては行けない場所などを知りませんし、そもそも仕事を始める以前の問題として、掃除道具の場所すらしりません。

 なので、仕事と生活に必要なあれこれを聞くために、私を買った人の主な居場所と教えて貰っていた書斎へと向かっているのでした。

 その途中、思うところもあって自分の体を見下ろします。

 黒を主とした色合いの、ロングドレスを思わせるメイド服と真っ白なエプロン。 

 飾り気は殆どなく、エプロンの肩掛け部分とスカートの裾部分に申し訳程度のフリルがあしらわれています。

 そしてメイド服のことなんて殆ど知らない私ですらおかしいと思う部分が一つ。

 なぜかは知りませんが、裏地になめし革が仕込まれているのです。

 お腹周りを守るように縫い込まれているのですが、これはいったい何のためなんでしょう。

 そんな事を考えている間に書斎前に到着しました。

 部屋に入る前に、はす向かいにある大きな窓ガラスを鏡代わりにして、おかしなところがないかを確認します。

 肩口で切り揃えた灰銀色の髪は、奴隷として売られる前以上の艶やかさで、やせ細っていた体は昔のふくよかさをとりもどしています。

 ………ふくよかといっても、骨と皮だけだった頃に比べてふくよかというだけであり、別に太っているという訳ではありません。ありませんとも。

 そして肌に関しては、未だかつてない滑らかさです。

 

「……食は偉大です。料理人さんには機会を見てお礼を言わないと」

 

 いや、このお屋敷に来てから今日まで、本当に食べてばかりでしたからね。

 寝る食べる以外でした事と言えば、それこそ部屋の中をうろついたり、メイド服やある日、食事と一緒に運ばれてきた女性用下着の手直しくらい。

 なんて素敵な穀潰し生活。ここが私の生まれた農村なら、おそらくきっと、山に捨てられているでしょう。

 

「寝癖は……」

 

 寝癖がないことを確認して、念のため手で軽く整えます。

 その途中で、ガラスに映った自分と目が合いました。

 薄緑色をした瞳。母に父に、自分たちの良いところだけ受け継いだと誇られた翡翠の目。

 

「………………」

 

 鏡に映った自分の目から視線を外します。

 最後におかしなところがないか、つま先から頭まで確認していきます。

 特に問題はありません。

 始めに貸し出されたワンピースを着れば、自分を奴隷などと思う人間はいないだろうという程度の外見にはなっています。

 ただ、それは外見だけです。

 首に手をやってもそこには何もなく、素肌をなでる感触があるばかり。

 填められていた奴隷の首輪は外されています。

 ですが、私を捕まえて首輪をつけた騎士様が言っていました。

 奴隷の首輪には魔法がかけられていて、一度でもつけると、身に付けた人間のうなじのところに、首輪で隠れてしまう程度の小さな印を残す。

 外したところで、奴隷としての印が残るから奴隷と分かるし、主人はその印を目印に居場所などがわかるのだ。

 その印を消したければ、主人の立ち会いのもとで特殊な道具を使わなければならない、と。

 首が軽く、首輪の感触がないというだけで、今なお私の首には見えない首輪がはまっているのです。

 仕事着とはいえよい服を与えられ、身なりが良くなろうとも自分が奴隷であることに違いはありません。

 そのことを心に刻んで、背後へと振り返り書斎の扉へと向き直ります。

 深呼吸を一つして気を引き締めて、書斎の扉を開いて中へと足を踏み入れました。

 部屋の中には、私を買った人が一人だけ。

 部屋の奥に、扉と向かい合うように置かれた机に、羽ペン片手に向かっています。

 机の上には重ねられた薄くて白い長方形の何かと、いくつかの羊皮紙が置かれていました。

 仕事中、なのでしょうか?

 私を買った人は、羊皮紙に向けていた視線を私へと向けました。

 無表情と言うよりは無愛想と言った感じで、子供の頃よく面倒を見てくれた、お隣の頑固爺さんを思い出します。

 

「ノックを忘れずに」

 

「……あ。も、申し訳ありません」

 

 ぼそりとしたお叱り、というよりも窘めるような言葉に、あわてて頭を下げました。

 しょせんは奴隷。主人の不興を買えば、即日首が飛ぶ身分なのです。

 人売りのところの私ならば、それこそ首を刎ねたければ刎ねればいい、という態度をとったかもしれません。

 しかし生活というか、今に余裕ができると、不思議とそういった態度を取ろうとは思えなくなりました。

 食事がおいしいのと、後は給金がでるのが理由かもしれません。

 なにせ、自分で自分を買って自由を得るのも可能かもしれないと言う希望があるから。

 とはいえ、自分を買えるかは主人次第で、買取値段も主人の一存によって決まるので、奴隷身分からの解放ができるかは今はまだ分かりません。

 

「何か用事か?」

 

「掃除用具の場所と、このお屋敷で守るべきことを教えて欲しいのです」

 

 主人に聞くべきことではないのは分かっていますが、お屋敷に人影はなく、聞きにくるしかなかったのです。

 こんな大きなお屋敷にメイドが私だけとかありえないので、おそらくたまたま居ないだけなのだと思いますが。

 

「お前に宛がった部屋の隣にある用具室に道具が置いてある。

 守るべき事は特にない。常識の範囲で行動して判らないことがあったら聞きに来こい」

 

 その答えは困ります。

 だって、その常識というものが、アナタと私ではきっと根っ子から違うのです。

 何故そう感じているのかというと、私に対する扱いからです。

 私のような農村の人間でも子供の内に教わる国の階級があります。

 王、貴族、臣民(市民、農民)、農奴、戦奴、労働奴隷、罪人な並び順で、私は下から二番目の労働奴隷。

 給金すら出ずに最低限の食事だけが与えられる立場であり、人間と言うよりは道具に近い場所のはずです。

 それに給金を出したり、絹の服を貸し与えたり、ちゃんとしたベッドと机のある部屋と真っ当な食事を与えている時点でおかしいのです。

 いえ、私も村からでたことがなかったので、奴隷の生活なんて詳しくはしりません。

 ただ、村の大人たちや旅人さんなどから、狭い部屋に押し込められて、パン一つ与えられるだけの生活をしている、などと言った話を聞いていたのです。

 とはいえ、その事をそのまま言っても機嫌を損なうだけでしょうから、自分に非があるようにして言い返すことにします。

 

「その、私は農民出身の身分ですのでお屋敷で働く上での常識とか知らないのですが……」

 

「そうか。

 気にするな、仕事をしながら覚えていけ」

 

 迷いなく帰ってきた、投げやりとしか思えない言葉に、自分の頬が引き攣るのが判りました。

 不快に思われると命が危ないので、気合いを入れて表情を引き締めて、真面目な顔をします。

 しかし何なのでしょうか、この人は。

 もしかして、この人は私のことを奴隷として扱わないつもりなのでしょうか?

 わざわざ奴隷を買って、そんな扱いをする人が居るとは思えません。

 確かに今の私は首輪を付けていませんが、それでも私は奴隷なのです。

 首輪がなかろうとも、奴隷の証は残っています。

 なので、私は首輪を付けていない奴隷なのです。

 なぜだろうと、もう少しだけ考えましたが、答えはでません。

 なので、このことに関しては考えるのを止めて、最後の質問をすることにしました。

 

「判りました。

 それと、私は貴方様の事をなんとお呼びすればいいでしょう?」

 

「好き呼べ」

 

 名前も知らないのにどうしろと言うのか。

 名無し様、とでも呼べばいいのか。

 

「………ご主人様?」

 

 最もらしい名称を引っ張り出して口にしてみました。

 奴隷身分としては正しい選択のはずです。

 

「様は付けなくていい」

 

「ご主人?」

 

 私を買った男性改め、ご主人はこくり、と頷くと手元の羊皮紙へと目を向けました。

 恐らくは、これでいいという事なのでしょうが、様付けを嫌がるとは珍しい気がします。

 奴隷に呼び捨てされるのを良しとする金持ち――――もしかしたら貴族かも――――はいないと思うのです。

 そんな謎を抱きながら、私は書斎を後にすることにしました。

 

「それでは失礼します」

 

 羊皮紙に目を向けたまま、ご主人は頷きます。

 それに返すように一礼して、書斎を後にするのでした。

 

 

 しかし本当に、この人は何なのだろう。

 

 

 *

 

 

「………ナニコレ」

 

 用具室には見たこともない道具が並んでいました。

 いえ、見たことがない道具が並んでいるというのは正しくはありません。

 より正しく言うならば、見慣れない形状をした掃除道具と、見たことのない掃除道具が混じり合って置かれているというべきです。

 穂先が平べったくなった箒とか、柱を縦に真っ二つにして、平らな面を地面に押し付けて中を空洞にし、持つための棒をくっつけたちり取り―――たぶん―――とか。

 他にも見慣れた四角い、取っ手がついた木の桶の横に並べられた、円形をした鈍色の、恐らくは鉄製の桶とか、棒の尖端に雑巾的なモコモコがくっつけられた何かとか。

 他にも厚い床拭き用の雑巾と並べておかれた、トゲトゲした茶色い何かとか。

 使い方が判らない道具が盛りだくさんです。

 

「窓を拭いて、廊下は掃き掃除でいいよね……あ、水場ってどこだろう」

 

 そんな事を呟きながら、平べったい箒とちりとりらしきものに手を伸ばした時でした。

 

「道具の説明を忘れていた」

 

「!?」

 

 いきなり背後からご主人の声がして、私は驚きに肩を震わせて、そして勢いよく振り返ります。

 そこに立っていたのは無愛想な感じのご主人で、私は驚きに跳ねる胸を手で押さえるようにして深呼吸。

 そして私が落ち着くのを待っていたのでしょう。胸の鼓動が収まった所で、ご主人が口を開きました。

 

「まず石畳を拭う時はそこのモップを使え。

 桶に水を入れて、それに浸して絞って床に押し付けるようにすれば楽に床を拭える」

 

 言いながらモコモコ雑巾付き棒を指差します。

 あれはどうやらモップというらしいです。

 

「それとブリキの桶には軽量化の魔法が、木の桶には浄化の魔法が付与してある。

 上手く使い分けるといい」

 

「すみません。浄化と付与ってなんでしょう」

 

 ブリキとかいうもので作られた桶などを指差して説明してくれていたご主人にそう問いました。

 難しい言葉を使われても困ります。ご主人は考えるように目を泳がせてから言いました。

 

「浄化は汚れたものを綺麗にすること、付与は……与え持たせること、だ」

 

 後半、少し自信なさげでした。どうやらご主人にも感情というものはあるらしかったです。

 なぜわざわざ難しい言葉を使うのでしょう。最初からそういえばいいのに。

 奴隷にこんなものを使わせるご主人の常識に思うところはありますが、それ以上に魔法の道具を日常的に用いる当たり、ご主人はやはり貴族かお金持ちなのでしょう。

 魔法の道具は高級品で、貴族や商人のようにお金を持っている人以外は持てないらしいです。

 昔、村長が道端にしゃがみ込んで、村に一揃えあれば農業もはかどるのに、でも買い揃えたら村の財政破綻しちゃうよ、と野花に語りかけていたのを覚えています。

 ………ちなみに財政破綻の意味は知っています。その場で聞きましたから。

 

「タワシは物によっては傷が付く。

 浴槽掃除に使う以外は注意するように」

 

 言って、茶色のトゲトゲを指差します。

 タワシ。自分の手が痛くなりそうな見た目をしています。

 

「こんな所か。他に何かあるか?」

 

「水場は何処でしょう」

 

 ご主人の問い掛けに、そんな質問を返しました。

 窓ふきをするのに水が必要でしたので。

 

 

 

 *

 

 

 

 庭に設えられた屋根付き井戸の側。

 ブリキの桶を片手に空を見上げていました。

 とても綺麗な青空という以外に、私には表現できない、そんな空。

 立場が、あるいは環境が変わったからでしょうか?

 空は鮮やかに明るく、風は柔らかで暖かい、そんな感じです。

 村で見上げていた空は灰色がかって暗く、風は硬く冷たさを持っていた気がするのです。

 ですから、今の空と風は少し嫌です。

 明るくて目がくらむし、風が暖かで汗ばみそうだから。

 そんなことを思いながら、井戸から水を汲み上げます。

 まずは軽くなると言うブリキの桶で水を運び、それから水を綺麗にするという木の桶に移すのです。

 その方が仕事もはかどること間違いないでしょう。

 備え付けの桶で組み上げた井戸水をブリキ桶に移し、両手で取っ手を持って腰を入れて持ち上げ――――

 

 ―――――余りの軽さにバケツを振り回し、そのまま体勢を崩して尻餅を突きました。

 

 がんばっしゃーん、という咄嗟に手を離してしまった桶が、地面にぶつかる音と水がぶちまけられる音。

 その音に眉を寄せながら、私は打ったお尻を軽く撫でつつ立ち上がります。

 

「いたたた……。これ、軽くなりすぎ。空っぽなのと変らないじゃない」

 

 立ち上がって振り返れば、少し離れた場所に落っこちて横倒しになり水をまき散らしたブリキの桶。

 木の桶に比べてブリキの桶はとても軽く、持ち運ぶのが大変楽でした。

 しかし、水を注げばその分だけ重くなるもの。

 桶に並々と注がれた水の重みは、女の細腕で持ち上げるのは中々に厳しいものがあります。

 なので、腰を入れてしっかりと力を籠め勢いをつけて持ち上げようとしたのですが、それが失敗でした。

 本当に、驚くほど軽かったのです。空っぽの桶の中に、こぶし大の石を数個入れただけのような軽さでした。

 そのため、勢い余って転んで桶を放り投げるなんて真似をしてしまいました。

 軽くなると言っても限度があると思います。

 

「けど、水を被らなかったのは幸運でした」

 

 替えの仕事着とかないですし。

 言って、私は桶を拾いにいき、改めて井戸から水を汲み上げます。

 しかし魔法とはすごいものです。桶一杯の水の重みが石数個分になってしまう。

 もしかしたら木の桶も、一度水を注いでしまえば、窓を全部拭き終わるまで水の入れ替えをしなくてもいいくらいなのかもしれません。

 そんな事を思いながら、なんとなしに首を撫でました。

 そこに首輪はありません。

 目に見える首輪はありません。

 手に触れる首輪はありません。

 

 

 魔法とは、本当にすごくて便利なものです。

 

 

 ………汲み上げた井戸水をブリキの桶に移して、私は井戸を後にします。

 まずは窓ふきを。見た感じ掃き掃除が必要そうには見えなかったので。

 

 

 *

 

 

 

 絞った雑巾で一階廊下の窓を拭き、その後、乾いた雑巾で拭います。

 雑巾を木桶の水で洗って、絞った雑巾で窓を拭き、乾いた雑巾で拭うのです。

 木桶の水で雑巾を洗って、絞った雑巾で窓を拭き、乾拭きします。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。ぬれ雑巾で窓を拭き、乾拭き。

 

 

 ……………………ぬれ、かわ。

 

 

 廊下の端の壁にぶつかり、窓ふきが終ったことに気が付きました。

 窓越しに見える太陽は空高くにあり、昼時である事を告げています。

 

「……私のお昼ってどうなっているんでしょう」

 

 ご飯の事も訊いておくべきでした。

 今までは、部屋の扉の脇に何時の間にかか滑車付の台が置かれ、そこに食事が乗せられていました。今日の昼ご飯もそうなのでしょうか。

 取りあえずは桶を二階に持って行くついで、部屋にも寄って確認しようと階段がある玄関方面へと体を向けて――――

 

「はうわっ!?」

 

 気配もなければ音もなく、いつのまにやら半歩横にご主人が立っていました。

 この人は、私を驚かせるのが好きなのでしょうか? せめて一声掛けて欲しい。

 いや、心臓に悪いので。本当に悪いので。一々驚かされては寿命が減ります。

 

「な、何か御用でしょうか?」

 

「昼食の支度が出来た」

 

 この言葉数の少なさを誰かどうにかして欲しい。

 私の昼食が出来た、という事なのでしょうか、それとも自身が昼食を食べるので給仕をしろと言う事なのでしょうか。

 

「何故、ご主人がお呼びに?」

 

「この家には俺とお前以外いないからな」

 

 いま、なんと。

 私とご主人以外に誰もいない?

 

「半月前までは二人ほど居たんだが暇を出した」

 

 私の顔見たご主人がさらりと答えました。

 下働きがたった二人だけですか、とか、なんで暇を出したんですか、とか思うところはありましたが、そうなのですか、と頷いて納得を示しめします。

 醜聞に触れて手打ちにされるとか嫌ですし、藪をつついて斬首刑はごめんです。 

 しかしお屋敷を見るに、お金はありそうなので、もっと人を雇えばいいのに。

 と、そこまで考えて重大な事実に気がつきました。

 

「………あの、料理は誰がしたのですか?」

 

「俺だが」

 

 このお屋敷には料理人もいないらしい。

 この人、本当になんなのでしょう。訳が分かりません。

 そんな感じのことを考えていると、ご主人は背を向けて数歩歩いて足を止めました。

 背中を向けたまま何も言ってきませんが、これはついてこいということなのでしょうか。

 桶を両手でしっかりと持ち上げて、その背中に向かうとご主人がそれに合わせたように歩き出すのでした。

 

 

 *

 

 

 食堂の長机には、二人分の食事が並べられていました。

 そう、二人分です。

 葉のもののサラダが盛られた深皿、白いソースがかけられた見たことがない赤身の魚の切り身が乗せられた平皿。

 その脇にはきつね色のスープと楕円形のパンが収まったバスケット。

 それにパン置きと思われる平皿には、バターが一切れ乗せられています。

 奴隷が食べるような食事ではありません。特にバター。我が家では一年に一回の贅沢品でした。

 今朝まではパンと濃厚な野菜スープだけだったのですが、それに比べ急に豪華に…………って、あれ?

 今朝までの時点で既に奴隷の食事ではない気がします。

 特に濃厚なスープとか。

 ともあれ、奴隷の食事とはもっと貧しいものなのではないでしょうか。

 パン一つとか、それに茹野菜が少々とか。

 これを奴隷の食事と認めたくありません。

 だって、村で暮らしていた時の食事よりも豪華なのですから。

 上座に座るご主人のほうを見ると、私のものと同じ献立が並べられています。

 奴隷に自分と同じ食事を出し、更には同席させる。何なんでしょうね、この人は。

 奴隷と同じ食事を、奴隷と同席して食べるのって嫌じゃないんでしょうかね。

 私が椅子に座ることもなく考え込んでいたからでしょう。

 ご主人が問うてきました。

 

「何か食べられないものでもあったか?」

 

「いえ、たぶん大丈夫です。

 見たことのないものばかりでしたので」

 

 そうか、とご主人は頷きました。

 それを横目にしながら、私は椅子に座ります。

 するとご主人は両手の平を合わせ、目を伏せました。

 食前のお祈りでしょう。私も両手の指を組み、目を瞑って農耕神に祈りを捧げます。

 他の場所の事は知りませんが、私の住んでいた村では、一人の例外なく農耕神を信仰していました。

 他の所でも、それこそ国が違っても、農民であれば農耕神を信仰しているのではないでしょうか。

 収穫量の大小と飢饉は、生活に関わりますから。

 ご主人が、ぽつりと何かを呟いたようでした。しっかりとは聞き取れませんでしたが、恐らくはお祈りの言葉でしょう。

 待たせるわけには行きませんので、私も急いで食前のお祈りを口にします。

 

「我らが土地に恵みを与えてくれたアナタに感謝を。

 我らが大地に潤いを授けてくれたアナタに感謝を」

 

 ちなみに私が知っているお祈りの言葉は、これ以外だと豊穣祭の時の聖歌くらいだったりします。

 村に置いてあった聖書には、他にも色々と書かれていたらしく興味はあったのですが、文字が読めなかった事もあり手に取ることはありませんでした。

 瞑っていた目を開いて視線をご主人に向ければ、既にお祈りを終わらせたのか膝に手を置いていて、私を待っているようでした。

 慌てて謝ろうとする私を制するように、ご主人は言います。

 

「食べられないものがあるなら無理はするな」

 

 そしてフォークとナイフ―――ではなく、二本の細い木の棒を指で挟むようにして持ち、器用に魚を切ったり摘んだりして食べ始めます。

 私は謝る機会を見逃してしまった事もあり、微妙にしょげつつナイフとフォークを手にします。

 村では木製のスプーンやフォーク――三又ではなく二又のもの―――を使っており、鉄器の食器、特にナイフを使って食事をするのは初めてです。

 とりあえずナイフは料理をするときに食材を切る要領で小さく切り、それをフォークで口に運んで食べればいいのでしょう。

 しかしこの人、本当に何なんでしょう。遠い国から流れてきて貴族になったとか、一山当てたとかそんな感じの人なんでしょうか。

 思いつきではありますが、遠い国から来たというのはなかなかに正しい気もしました。

 ご主人の見た目と雰囲気は、村の人たちはおろか旅人さんとも違っています。

 見たこともないくらいに真っ黒な髪と瞳、肌の色も少し黄みがかっていて、歳は私とさほど変わらないようにも思えるのですが、立ち振る舞いなどには村の大人たちを思わせる落ち着きがあって見当がつきません。

 そんなことを考えながら、見たこともない白いソースがかかった赤身魚を一口大に切って、フォークで突き刺してパクリ。

 

「………………………………………………………………………………………………………………」

 

 ……………………………………ナニコレ美味しい。

 言葉もありません。というか、言葉がでません。

 人生初めての味でした。もう何と言えばいいのか、なんといっていいのか。

 言葉を口にしようとして何も言えず、ぐるぐると頭の中を言葉が回ります。

 赤身魚は焼かれただけなのでしょうが、癖がなくとても美味しく、そしてかかっているソースはこってりとしていて複雑な味です。

 無言で切り分けてもう一口。やっぱり美味しい。信じられない、こんな美味しい物があったなんて。

 フォークとナイフを平皿において、今度はスプーンを手にとり透明な茶色いスープを掬って飲みます。

 ………これも美味しい。一言では言表わせない味です。多分ですがこのスープの主な食材はオーオンと呼ばれる、切ると涙が出る野菜だと思います。

 私の家の畑でも少しですが育てて居たので食べたことはありますし、スープにもしたことはありますが、こんな美味しくは無かったです。

 スプーンを置いて、パンを掴んでパクリ。柔らかい、そしてふわりと薫るコレはなんでしょう? 噛みちぎったパンの断面を見ると、緑色の粉的なものがちらほらと。

 刻んだ野菜か何かを生地に混ぜていたのでしょうか? 判りません、判りませんが、美味しいのでもせもせとパンを口の中へと押し込みます。

 料理は女の仕事だったので、私も人並みにはできます。

 いえ、村で一番というほどではなくとも、祭りなどで料理上手と褒められる程度の腕前ではありました。

 なので料理が得意と自称していたのですが、これらを食べた後では、とてもではありませんが料理が得意だとか言えません。

 

「おかわり、いるか?」

 

 ご主人の言葉に我に返り、気がつきます。

 今、手にしたパン以外すべての料理を食べ尽くしていたことに。

 赤身の魚はソースまで綺麗になくなり、スープは空っぽ、バスケットのパンも、今手にしている欠片が最後でした。

 

「え、えっと・・・・・・」

 

 とりあえず手にしたパンの欠片を口に押し込み飲み込んで。

 

「おかわりは大丈夫です。ごちそうさまでした」

 

 恥ずかしさから顔を背けるようにして、頭を下げて言いました。

 やってから不敬と咎められるかもと思いましたが、そんなことを考えつかないくらいに恥ずかしかったのです。

 自分を見失うほどに食事に夢中になるなんて、子供だってしないでしょう。

 そんな私に返ってきた言葉は、態度を木にした風でもない「お粗末様」という言葉でした。

 

 

 食後の、元々の後片づけはご主人が行うこととなりました。

 一階廊下と同じ程度の長さがあるであろう、二階廊下窓拭きが残っている身としては、とてもありがたいことではありますが、下働きの仕事を主人が率先して行うというのは奴隷的に、メイド的にいかがなものかとも思うのです。

 そんなことをむにむにと考えていると、食後のお茶を淹れていたご主人―――私がやると言いましたが、お茶の淹れ方を知らないだろうと諭されました―――が、私を鋭く見据えます。

 何か不興を買った、というか不敬と不作法だらけの私に、ついに叱責かと緊張に背筋を伸ばしたところで、ご主人は言いました。

 

「お前も思うところがあるだろうが、料理は俺の仕事だ。

 旅の仲間にも、お前の前任にも言ったが、どれだけメイドを雇おうが料理の仕事は誰にも譲らん」

 

 強い、驚くほどに強い言葉でした。

 

「質素であることに文句はないが、この世界の料理は手抜きが過ぎて我慢がならない」

 

 これだけは譲らないという、村はずれの頑固じいさんを思い出させる、強固な意志を持った声。

 それに私は弱々しくも、思ったことを口にしました。

 

「・・・・・・それは、他人の作る料理は美味しくないから自分で作る、ということでしょうか?」

 

 ご主人はこくり、と頷きます。

 

「あとは趣味だな。・・・・・・ほら、茶だ」

 

 言いながら、お茶が注がれたティーカップを目の前に置いてくれました。

 見たこともない緑色のお湯。お茶とは茶色いものだった気がするのですが。

 

「渋みがあるから、口に合わないなら飲まなくていい」

 

 主人から出されたものを残すというのも駄目な気がしましたので、全部を飲み干す覚悟で頂きました。

 

 

 

 渋くはありましたが、とても美味しかったです。

 ええ、村で飲んでいたお茶が、薄い色をした泥水と思えるほどに。

 

 

 *

 

 

 

 

 

 二階廊下の窓拭きと一階、二階の廊下の掃き掃除は、何とかではありますが夕食前に終わらせることができました。

 掃き掃除に関しては急ぎすぎて雑だった気もしますが、まあ元々散らかっていた訳でもありませんから大丈夫でしょう。

 そしてご主人が用意してくれた夕食は、白パンにお昼と同じスープ、ソースのかけられた生野菜のサラダです。

 お昼に比べると質素とも思いましたが、盛られた野菜は一口大に切り分けられていて、サラダにかけられたソースは複雑な味わいがあり、手の込んだ贅沢な夕食なのだと思い知らされました。

 サラダなんて、水で洗ってちぎって盛るだけの簡単な副菜ではなかったのですか。

 そんなことを思いながら、サラダ皿に残ったソースを、最後に残った一口大の白パンでぬぐい取って口へと放り込み、本日の夕食は終了し、私は書斎の隅に立っています。

 ご主人に食後の片づけが終わるまで書斎で休むように言われ訪れたのですが、正直いって全く休まりません。

 書斎の奥には大窓を背に扉と向き合うようにして仕事用と思われる机が置かれ、その正面には背の低い机を挟むようにして来客用の三人掛けソファーが二つ設置されています。

 奴隷身分で勝手にソファーに座るわけにはいかないので立っているのですが、休まらない原因はそこではありません。

 休まらないのは、両壁に設置された大型の本棚―――――そこにビッシリと詰め込まれた本のせいなのです。

 昔、行商人のオジサンに教えてもらったのですが、本というものは高価な羊皮紙を職人が大きさを整え、その整えられた羊皮紙に文字書きや絵描きが内容を綴り、それを束ねて本とするのだそうです。

 なので、材料費に職人や文字書きへの手間賃などが加わる為、裕福な人間でもなければ早々手が出せないものなのだそうです。

 しかも、この部屋の本棚に収まった本の背表紙に記された題名は、いずれも金か銀で書かれています。

 恐らく、いえ、確実に。

 この本一冊の値段には、私が十人揃っても太刀打ちできないでしょう。

 このお屋敷に置いてある家具などと違い、なまじ相場というか、一冊一冊の値段というものが想像できてしまうために、なんとも気後れしてしまうのです。

 …………というか、この家の家具とか食器っていくらするのでしょうね?

 村では自分たちで作るか、物と交換するのが普通だったので、今一つ値段に想像がつきません。

 などと、意味のないことを考えることで、高級な本から発せられる重圧に耐えていると、片づけが終わったのでしょう。

 扉が開いて、ご主人が部屋の中へと入ってきます。

 

「なんで隅に立っているんだ?」

 

 不思議そうに小首を傾げたご主人に、私は隅っこが落ち着くのですと答えました。

 正確には落ち着ける場所が隅っこにしかないというだけなのですが、ご主人は納得してくれたのか頷きました。

 そのままご主人はソファーを通り過ぎて、奥の机の傍らに立つと椅子を引いて、机の引き出しからはねペンとインク、黒ずんだ布、それに白く薄い長方形のなにかを取り出して机に並べながら言いました

 

「とりあえず座れ」

 

 言われたとおりに座ります。

 おぉう冷たい。お尻が冷えます。

 

「なんで床に座る。椅子に座れ、椅子に」

 

 ご主人は、傍らの椅子の背もたれをぽんぽん、と叩きながら言いました。

 そこに座れと? 主人の愛用品(?)を奴隷ごときが使ってよいのでしょうか。

 いえ、持ち主というか主人が許可を出しているのですから問題はないのでしょうが、心情的に奴隷が自分の持ち物を使うというのは不快には感じないのかと思うのです。

 ただ、奴隷に手料理を振る舞い、席を同じくし、勉強を教えるような人ですから、そういったことに寛容なのかもしれません。

 そうして私はご主人の命に従い、椅子に座り、驚きに身を強ばらせました。

 

「す、凄い座り心地いい……」

 

 ついつい言葉が漏れました。

 背凭れのみならず、座の部分にも布が張り付けられていたのですが、どうやら綿が詰められているようで、とても座り心地が良いのです。

 椅子に長い事座っているとお尻が痛くなってくるものなのですが、これなら何時間でも座っていられそう。

 

「まずは文字の読み書きからだ。

 羽ペンの使い方はわかるか?」

 

「わかりません」

 

 素直に答えます。いや、文字すら書けない人間が、どうして羽ペンなど使う機会に恵まれるというのか。

 

「インク瓶に羽ペンの先端を突き入れれて、取り出すときに瓶の縁で余分なインクを落とすだけだ。

 使い終わったらそこの布にペン先に残ったインクを吸わせればいい。

 それと、取り出すときに引っかけてインク瓶を倒さないように気をつけろ」

 

 はい、と答えて言われたとおりにしようとペンを握りしめ、インク瓶にペンを突き立てようとすると、

 

「待て」

 

 ご主人に制止されました。

 言われた通りのつもりでしたが、何か間違えていたのでしょうか?

 小首を傾げるようにして振り返ると、ご主人は机の引き出しから新しい羽ペンを取り出して言いました。

 

「持ち方が間違っている。

 手で握り込むんじゃなくて、中指で支えるようにして親指と人差し指で支えるんだ」

 

 どうやら持ち方が間違っていたようです。

 見せてくれた持ち方は、スープを飲むときのスプーンの持ち方によく似ています。

 

「こう、ですか?」

 

 手の羽ペンを見せてもらった通りの持ち方で持ってみます。

 すると、それでよかったのか、ご主人は頷きました。

 そして今度こそインク瓶へ羽ペンを突き入れ、瓶の縁で余分なインクを落とします。

 そして、そして…………どうすればいいのでしょう。

 途方に暮れてご主人を振り返ると、ご主人も少し困ったように眉を寄せています。

 どうかしたのでしょうか?

 

「君の名前、なんだっけ」

 

 奴隷が自分で名前を名乗ってどうするんだ、ということと、聞かれなかったのもあって名乗っていませんでした。

 聞かれたので答えます。農民出身なので名前だけしか私は持っていません。家名を持つのは貴族と、一部の特別な人間だけなのです。

 ご主人は私が告げた名前を二、三度、確認するかのように呟きます。

 

「よし、今から俺が言うようにペンを動かせ」

 

 はい、と返事をしていわれた通りに白くて薄い長方形の何かの角っこから、羽ペンで何かを記していきます。

 初めて書いた文字にしては上等ではないでしょうか。

 ぐにゃぐにゃしてて模様っぽいですが。

 

「あの、ご主人。これはなんと読むのですか?」

 

「君の……」

 

 言って、ご主人は何かに気がついたかのように言葉を切って、そして改めて言いました。

 

「お前の名前だ」

 

 その言葉に、私は視線をぐにゃぐにゃした文字らしきものへと向けました。

 何といえばいいのでしょう、感じるものはあるのですが、うまく言葉にできません。

 こういう時に学が無いというのは本当に不便です。

 ただ簡単に言えば、胸の奥がジンジンして、それでいて息が詰まるような、心の中を何か暖かな、あるいは柔らかいものがすっと通り抜けたような、心地よくも不思議な感覚を覚えます。

 似たような感情を思い出すのならば、幼い日、豊穣の年の、夕日に照らされた小麦畑を初めてみたときの、そんな言葉にしがたいものでしょうか。

 

「どうかしたか?」

 

 ご主人の言葉に、はっと自分を取り戻します。

 なんと答えればいいのか、言葉を作れず、代わりに誤魔化すように別のことを口にしました。

 

「いえ、あの、この白くて薄いのはなんだろうとか、あ、あとご主人の名前は何というのですかとか、色々と、はい」

 

 知りたかったことを一気に口にします。

 思ったことをちゃんと口にできない気恥ずかしさと、後はなんだかよくわからない感情からか頬が少し熱くなるのを感じました。

 しかし、勢いに任せて名前まで聞きましたが大丈夫でしょうか。

 不敬にはなりませんよね?

 

「名乗るのを忘れていたか、すまない。

 

 ペンを貸してくれ、それとこれは『紙』だ。

 余所では貴重品かもしれんが、この領地の工芸品みたいなもんだから、領内では普通に出回ってる」

 

 言いながら、ご主人は私から羽ペンを受け取ると、新しい『紙』とやらを引き出しから取り出して机の上に置くと、なにやらさらさら、と書き記しました。

 

「ほら」

 

 紙には、何というかみたこともないものが記されていました。

 自分の書いた文字を模様などといいましたが、それ以上に模様じみています。

 記号や絵を思わせる形をしており、角張っていて複雑です。

 

「俺の国の文字でな、―――――と読む」

 

 低く声を抑えたような、そんな抑揚のない響きで、そのせいかうまく聞き取ることができませんでした。

 

「申し訳ありません。上手く聞き取れませんでした、もう一度お願いできますか?」

 

 私の言葉に、ご主人の顔に寂しさがよぎりました。

 やってしまいました、これは首が飛びます。

 私が謝罪しようと口を開くより早く、ご主人が言いました。

 

「ツキ、でいい。

 略称だが言いやすいし覚えやすいだろう。

 俺の名前は、どうにも聞き取りづらくて言いづらいらしいからな」

 

 そういうご主人の表情には、先ほどの寂しさはない、毎度の無表情です。

 謝るべきかを考えて、藪に飛び込むことはないので止めておきます。

 藪の向こうが崖っぷちとか困るなんてものじゃないですから。

 

「ツキ様ですか」

 

「様はいらん」

 

 立場的に様つけないといけないのですが!

 奴隷という立場を抜きにしても、自分の主人に当たる人を呼び捨てにするなんてことはありえません。

 というわけで、今後とも「ご主人」と呼び続けることにいたしましょう。

 様がついてない時点で余所からは不敬と言われるかもしれませんが、ご主人の望みなので仕方がありません。

 

「ペンとインク一瓶、それと紙を好きなだけ持っていって書取をしろ。

 それで、そうだな……明後日あたりまでに自分の名前を完全に書けるようになっておけ。

 続きの勉強はそれからだ」

 

 言って、ご主人は机の一番下の引き出しから紙の束を取り出し机におくと、書斎を後にしようと歩き出しました。

 その背中に、私はあわてて立ち上がって声をかけました。

 

「ありがとうございました。おやすみなさいませ」

 

 ご主人は足を止めて振り返ると、「お休み、精進するといい」と言い残し、書斎から退出されました。

 後に残された私は、立ったまま机の上の紙を眺めます。

 真っ白な紙の片隅に書かれた、のたうった糸虫のような文字。

 綺麗だなんてお世辞にはいえないけれど、生まれて初めて私が書いた、私の文章。

 

「クラーラ」

 

 生まれて初めて自分で文字として書いた自分の名前を口にして、胸の奥底から流れ出す、言いしれぬ喜びに自然と笑みが浮かぶのでした。

 

 


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