第3話 金と銀の少年
決死の覚悟で馬車を飛び出したミーナは、敵の目が自分の向くのを確認してから、アグラ方面に向かって走り出した。
理由は単純だ。インディラから、より遠く引き離すために。
倒木を跨いだところで、ちらっと振り返ると、黒ずくめの一人がこちらを指差し、誰かに向かって手招きするのが見えた。
うまい具合に引っ掛かってくれた。
ミーナは、ほくそ笑む。
でも、私は特に訓練を受けた人間ではないから、そう長く走り続けられない。
だから、可能な限りこっちに引きつけておいて、適度な所で身を隠してやり過ごそう。山中には、身を隠せる茂みや岩場などが幾らでもある。
黒ずくめが数人、無言で追ってきた。
ミーナの額に、じわりと汗が滲む。
知らなかった。
「待て!」などと威嚇されるより、黙って追いかけられる方がずっと恐いなんて。
「く…」
黒ずくめから漂う不気味な圧迫感に、ミーナの心の中の冷静な部分が、どんどん浸食されていくようだった。
無意識に、足を速めていた。
そんな自分に気づいて愕然となる。
囮になる、とインディラに力強く宣言したのは決して虚勢じゃなかった。
それなのに、いざ一人になって、追われる立場になった途端、呆気ないほどに心の弱さが露呈するとは。
何てことは無い。危機的状況に遭って、昂っていただけなのだ。インディラさまを守るという使命感に。
本当は、ただの無力な小娘なのに。
「…なんて、自己分析できる、くらいには、冷静さを、保てている、みたいね」
はっ、はっ、と荒い息の隙間で、ミーナはひとりごちる。
とはいえ、予想通り距離は詰められてきている。追いつかれるのは時間の問題だった。
と、その時、道の前方が大きく右に曲がっているのが目に入った。
よし、ここだ!
道を曲がった瞬間、ミーナは左側の樹林の中に身を投じた。
そこは斜面になっていた。勢いに任せ、木々の間を縫うように駆け抜ける。
「痛っ…!」
木の枝か何かが、頬を引っ掻いた。
傷が出来たようだ。ひりつく痛みがそう告げている。勿論、そんなことで足を止めるわけにはいかない。
ミーナは周囲を見回した。
すると、近くに重厚感を漂わせる、ひときわ大きな古木が見えた。
取りあえず、あそこに隠れよう。これ以上進むと返って姿を見られる恐れがある。
大木の傍に駆け寄ると、ぽっかりと洞が空いていた。
ミーナはそこに身を沈め、息を殺した。
どこかで野鳥が鳴き交わしていた。
時折吹く風に揺られ、木々が、ざわざわとさざめいている。
その音の中に溶けるように、埋もれるように、ミーナは膝を抱えて丸くなった。
じっとしていると、ますます緊張感が募った。呼吸が浅く早くなる。走り続けて息が苦しいのに、肺がうまく動かない。
ふっと、目の前が暗くなった。
刹那、睡魔にも似た墜落感に襲われる。
抗う間もなく、ミーナの意識は闇に引きずり込まれていった。
「ば、馬車を出たら、川に向かうのよね」
そして、川に沿って下り、麓の村を目指す。
周囲の状況を確認する余裕など無かったインディラは、迷わず川への最短距離を選んだ。
えいっとばかりに、樹林の中へ身を投じる。
そうして、ミーナの言葉を思い出しながら、脇目も振らず急坂を駆け降りた。
一見、深層の姫君然としたインディラだが、その実、幼い頃は兄を追いかけて野山を駆け回っていたものだ。だから、茂みをかき分けて進むことも、デコボコした地面での踏ん張り方も、体が覚えている。
うまく逃げられたかしら。
ある程度、距離を稼いだ所で、インディラは手近な木の陰に隠れ、周りの様子を窺った。
人影は無かった。敵も、そして味方も。
警護の人たちは大丈夫かな。
それに、ミーナは。
インディラはその場にしゃがみ込み、膝に額を押しつけた。
必死で考えないようにしてるのに。
いくら蓋をしても、不安な思いが後から後から胸に溢れ出てくる。
ミーナ。ミーナ。ミーナ。
どうして一緒に逃げてくれなかったの?
私をこんな所に一人ぼっちにするなんて、ひどいじゃないの。
次に会った時は、うんと文句を言ってやるんだから。
だから……お願い、どうか無事でいて。
そんな事を考え始めると、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
「う…うう、ひっく…」
堪え切れず、唇から嗚咽が漏れる。
泣く暇があったら、足を動かしなさい。
この場にミーナがいれば、そう叱咤しただろう。
でも、ミーナはいない。いないのだ。
インディラは泣き続けた。
そうして、幾許かの時間が過ぎたあと、ふと心がほんの少しだけ軽くなっている事に気付いた。
まるで、不安な気持ちが涙と一緒に流れ出たかのように。
もちろん、完全に消えてしまったわけではないけど、一歩を踏み出す力くらいは戻っているようだった。
インディラは顔を上げて、涙に濡れた目をぐいっと拭った。
そして、背中を木に預けるような格好で立ち上がる。よし、膝に震えは来ない。
インディラは進むべき方向を、真っすぐに見据えた。
瑞々しい緑を湛えた広葉樹が立ち並び、薄い衣のような木漏れ日が幾筋も降り注いでいた。
カタック山は、小さな山だ。山道を外れていても、人の足を拒むような荒々しさとは無縁だ。
その代わりに、まるでお伽の国みたいな親密さと美しさがある。
と、その時。
「え…?」
突然、光の衣が塗りつぶされるように、ふっと陰ったかと思ったら、すぐさま蘇った。
雲が日輪を隠したのだろうか。いや、というより、何かが空を通ったような感じだった。
鳥? でも、それだと大き過ぎる。
思わず考え込んでしまいそうになり、インディラは、慌てて頭を振った。
急がなきゃいけないのに! ただでさえ、無駄に時間を費やしたのだから。
インディラは疑問を振り払い、道なき道を急いだ。
坂は次第になだらかになっていった。手前の方から灌木が生い茂っている。
「あ!」
見上げると、木漏れ日の向こう側に裂け目のような青空があった。
木々が途切れる場所。すなわち、その下に川が流れている。
「やった…!」
インディラの心に、希望という名の喜びが湧き起こった。
それに突き動かされるように、足を速めた。
灌木の茂みに分け入り、真っすぐに川を目指す。
その瞬間、足元が消えた。
「え…?」
がくん、と体が傾き、視界が急転する。
体が、体が投げ出されていた。
灌木に隠されて見えなかったが、そこは崖になっていたのだ。
インディラの華奢な体が、あっという間に、谷底へ吸い込まれていく。
「きゃああああああああ!」
本能的な恐怖に、インディラは混乱した。
落ちながら、救いを求めるように、空に向かって無茶苦茶に手を振り伸ばしていた。
その時、金色の大きな何かが、裂け目の形をした空を横切った。
一瞬、恐怖を忘れた。
それは、鳥の形をしていた。
ああ、やっぱり、さっき木漏れ日を消したのは、鳥だったんだ。…ん?
うそ。背中に人が乗ってる。
インディラは驚愕に目を見開いた。
刹那、その体が水面に叩きつけられた。
「…インディラさま?」
ふと、主人の声が聞こえたような気がして、ミーナは、ぱちっと目を開いた。
「あれ? …ここは…」
一瞬、ミーナは自分の居場所を見失っていた。が、すぐに頭がはっきりしてくる。
そうだ。私はインディラさまを敵から守るために、囮になって奴らを引きつけたんだ。
そうして、ここに隠れてやり過ごすつもりが、いつの間にか気を失っていたらしい。
ミーナは、はっとして周りを見回した。
「私、どのくらい寝ていたんだろう」
木々の隙間から落ちる木漏れ日は、気を失う前よりずっと薄くなっていた。
もう夕刻のようだ。逆算すると、三時間はここにいた事になる。
ミーナは、ぞっと肌を粟立てた。
よくも見つからずにいたものだ。
いや。それよりも、インディラさまは、無事に麓の村へ辿り着けただろうか。
時間的には到着していてもおかしくはない。
ミーナは立ち上がった。
洞の中で、手足を折り曲げるようにして眠っていたせいか、節々に痛みがある。
思わず肘を撫でると、その拍子にインディラのサリーが肩から滑り落ちた。
「あら、いけない」
こんな上物、汚しては大変。
ミーナは腰を屈めて鮮やかな夕日色のサリーを取ろうとして、
背後から、強い力で腕を掴まれた。
水の流れる音が聞こえる。
これは、川のせせらぎ?
そうよ。私は川を見つけて、それから下流に向かって、カタック山の麓にある村まで行かなきゃならないんだから。
だけど、ひどく体が重かった。
頭の芯がぼうっとして、瞼を開けるのさえ億劫だった。
額に冷たい物が当てられる。
柔らかい、そしてどこか懐かしい感触。
これは、人の手だ。
そう気付いた途端、意識が急激に浮上した。
「…ミーナ?」
ゆっくりと瞼を上げる。その途端、梢に隙間できらきらと跳ねる陽光に目が眩んだ。
反射的に、両手で目を覆う。
「気がついたか」
いきなり頭上から知らない声が降ってきた。
インディラはびっくりして跳ね起きた。
「い、痛い…!」
起きた瞬間、刺すような痛みが全身を走り抜けた。
インディラは思わず体を縮こまらせる。
「あの高さから水に叩きつけられたんだ。軽い全身打撲だろうな」
知らない声が、気遣う風でも無く、淡々と事務的な口調で告げる。
インディラは思い出していた。
そう。私は崖から足を踏み外して落ちた。
もう駄目だと思ったのに、生きてる…!
はっとして、顔を上げた。
そこにいたのは、インディラと同じ年頃に見える、端正な顔立ちをした少年だった。傍の岩に、浅く腰掛けている。
少年は見たこともない、直線的な意匠の衣を纏っていた。
しかし、何よりインディラの関心を奪ったのは、その髪と目の色だ。
透明感のある銀色の髪と、日の光を溶かしたような金色の目。
こんな人間がいるなんて。
インディラは状況も忘れて見惚れていた。
「綺麗。まるで、宝石みたいね」
そう言うと、金と銀の少年は、無表情のまま首を傾げていた。
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