七月の女王様
一 期末試験の成績表
七月上旬。期末試験が終わり、夏休みまであと二週間ほどとなった。
三年生の教室には、受験生らしい緊張感と、最後の高校生活を楽しみたいという気分が同居していた。
昼休み、古賀加奈子の机の周囲には、いつもの女子たちが集まっていた。
「もうあかん。うち、英語だけはほんまにあかん」
西園寺紅葉が答案用紙を机に広げて嘆いている。
「論理・表現、三十八点。こんなん人間の取る点数ちゃうやろ」
「人間の取る点数だろ。現にお前が取ってるじゃん」
加奈子が容赦なく切り捨てた。
「せやけど、うち英語しゃべれるんやで?」
「知ってるよ。だから余計に腹が立つんだろ」
「日本の英語の試験、変やねん。こんな言い方せえへんもん」
「だったら英語はもういいから大阪弁を直せ。千葉に来て三年目だろ」
「なんでやねん!」
「ほら、それだよ」
クレハは父親がフィンランド人で、母親が日本人だった。大阪で生まれ育ち、高校進学を機に千葉へ移ってきた。
金髪に青い瞳、背が高く、顔立ちはどう見ても北欧の少女だったが、口を開くと大阪のおばちゃんだった。
フィンランド語、英語、フランス語を相当な水準で話せるらしい。それなのに学校の英語では時々信じられない失敗をする。
加奈子はそんなクレハを気に入っていた。
「で、真琴は?」
「何が?」
「論表だよ。見せろ」
熊埜御堂真琴は少し困ったような顔をした。
「別に、普通よ」
「お前の普通は信用できない」
加奈子は真琴の答案を引っ張り出した。
百点。
「……おい」
「何?」
「もっと人間らしい点数に抑えろよ」
「どうして?」
「九十八点とか九十七点とか、そういう奥ゆかしさが必要なんだよ。日本人には」
「加奈子、さっきクレハに日本の英語はおかしいって言われてたでしょう」
「それとこれとは別だ」
真琴は小さく笑った。
学年一位の秀才である真琴にとって、百点はそれほど珍しいことではない。むしろ、間違える理由が分からない問題が多かった。
ただし、そのことを口にすると加奈子がうるさいので黙っている。
「あ、巧!」
加奈子が突然声を上げた。
教室の通路を歩いていた藤沢巧が振り向く。
「何だよ」
「論表、何点だった?」
「八十六」
「はあ?」
加奈子が眉を寄せた。
「お前、サッカー部だろ」
「そうだけど」
「サッカー部ってのは、勉強なんか投げ捨てて練習するもんだろ。お前は精進が足りない」
「何の精進だよ」
「もっと馬鹿になれ」
「無茶言うな」
巧は笑った。
藤沢巧は、女子からかなり人気があった。
背が高く、整った顔立ちで、運動神経がよい。サッカー部では主力選手として活躍し、六月の県大会敗退をもって引退したばかりだった。
しかも、勉強もそこそこできる。
本人も自分が女子に好かれることを承知している。だからといって鼻にかけることはなく、誰に対しても気さくだった。
そして、古賀加奈子の幼馴染だった。
「巧、ちょっと待て」
立ち去ろうとした巧を加奈子が呼び止めた。
「よし。明日はプールに行こう」
「……は?」
「明日、暇だろ」
「まあ、部活はないけど」
「決まり。巧、プールに付き合え」
「何で俺が?」
加奈子は満面の笑みを浮かべた。
「報酬は女の子の水着姿見放題だ」
クレハが吹き出した。
「加奈子、それ言い方!」
「何だよ。俺を変態扱いしてないか?」
巧は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌なのか。なら他の男を誘うぞ」
「……誰を?」
「誰でもいいだろ。男なんて余ってるんだから」
「行きます」
「ん?」
「行かせてください」
「よし」
加奈子は満足そうに頷いた。
「これで用心棒は雇った。真琴もクレハも行けるよね?」
「うちは行くで!」
「私も大丈夫」
真琴は答えながら、巧の顔を見た。
巧は少し照れたように笑っている。
彼は気づいていない。
たった今、自分がどんな扱いを受けたのか。
加奈子は巧が自分の誘いを断らないことを知っている。
しかも、巧が断りそうになれば、別の男子を誘うと言えばよい。
それだけで十分だった。
「ねえ、私も行っていい?」
そこへ佐藤尚子が声をかけた。
六月末まで陸上部で活動していた尚子は、引退を機に加奈子たちと行動することが増えていた。
明るく、運動が得意で、人付き合いも上手い。最近では加奈子の描く妙な漫画にも興味を持ち始めている。
ただし、尚子がこのグループに加わった理由は、もう一つあった。
藤沢巧である。
「いいよ。じゃあ女子四人か」
「男子も呼ぼうよ。巧君一人じゃ大変でしょう」
尚子が提案した。
「そうだな。巧、三人ほど調達しろ」
「俺は人材派遣会社か」
「頼りにしてるぞ」
「都合のいいときだけ頼るなよ」
結局、男子側も人数を合わせることになった。最終的には女子四人、男子四人で出かけることになった。
この一連のやり取りを、教室の生徒たちは遠巻きに眺めていた。
女子四人と男子四人が、連れ立ってプールに行く。
それも、クラスでも目立つ女子たちと、サッカー部の人気者が中心になっている。
「……何だよ、あれ」
「リア充って、ああいう連中のことを言うんだな」
「藤沢、ずるくね?」
「いや、古賀に振り回されてるだけだろ」
「振り回されたいわ、俺も」
誰かが呟いた。
真琴には、その気持ちが少し分かった。
もっとも、加奈子に振り回されるのは、見ているほど楽なことではない。
二 夏のプール
翌日は朝からよく晴れていた。
市営の屋外プールは、夏休み前ということもあって、まだそれほど混雑していなかった。
男子四人が先に着替えを済ませ、入口付近で待っていると、女子たちが更衣室から出てきた。
最初に現れたのは加奈子だった。
黒を基調にしたハイカットの競泳水着。
余計な飾りは一切なく、いかにも泳ぐための水着だった。
「お待たせ。何ぼさっとしてんだよ」
「いや、お前、本当に泳ぐ気なんだな」
巧が言った。
「プールに来て泳がないでどうするんだよ」
「普通、もうちょっと遊ぶだろ」
「遊ぶよ。泳いでからな」
次に現れたクレハを見て、男子たちの会話が止まった。
鮮やかな金髪。
白い肌。
すらりとした長い手足。
そして、身体の線を隠そうという意識がまるで感じられない水着姿。
クレハ自身はごく普通のつもりだった。
「何や、みんな。どないしたん?」
返事がない。
男子の一人が、無言で巧の肩を叩いた。
巧も困ったように笑っている。
「クレハ!」
真琴が慌てて駆け寄った。
「これ、着て!」
自分のラッシュガードを脱ぎ、クレハに押しつけた。
「ええ? 何で?」
「いいから!」
「暑いやん」
「お願い!」
クレハは不思議そうにしながらも、ラッシュガードを羽織った。
ところが、そこで別の問題が発生した。
ラッシュガードを脱いだ真琴が、想像以上に目立ったのである。
普段の真琴は、髪を整え、制服をきちんと着て、教室の隅で静かに本を読んでいるような少女だった。
顔立ちが整っていることは誰でも知っていたが、本人が目立とうとしないので、男子たちも特別に意識していなかった。
その真琴が、今日はビキニを着ていた。
「……真琴」
加奈子が低い声で呼んだ。
「何?」
「どうして高校生が大人のビキニなんて着てるのよ」
「普通に売っていたから」
「普通に売ってたら買うのかよ」
「加奈子だって水着買ったでしょう」
「それに、そのおっぱいは何。遠慮がないわねぇ」
「遠慮って……」
真琴が赤くなった。
「お前、普段どこに隠してるんだよ」
「加奈子!」
クレハが腹を抱えて笑い始めた。
「真琴、めっちゃ怒られてるやん!」
「お前もだよ、クレハ。二人とも少しは周囲への配慮というものを覚えろ」
「何の配慮やねん!」
男子四人は、笑ってよいものか、目をそらすべきか判断できずにいた。
尚子だけが、その様子を少し離れたところから眺めていた。
彼女はスポーティーなセパレートタイプの水着を選んでいた。陸上で鍛えた身体は引き締まっていて、健康的な魅力がある。
だが、今日の主役は明らかにクレハと真琴だった。
尚子は小さく息を吐いた。
別に、水着で勝負するために来たわけではない。
目的は一つ。
藤沢巧と親しくなることだった。
「巧君、泳ぐの得意?」
「普通かな」
「私、クロールが苦手なんだ。教えてくれない?」
「いいよ」
あっさり承諾してくれた。
尚子は内心で拳を握った。
作戦成功。
一方、加奈子は五十メートルプールに向かっていた。
「おい、巧。あとで勝負しようぜ」
「何の?」
「五十メートル自由形」
「お前、水泳部だったっけ?」
「中学のバスケ部だよ」
「知ってるよ」
「じゃあ、あとでな」
加奈子はプールサイドから水に入ると、軽く身体を伸ばして泳ぎ始めた。
そのフォームを見て、巧は目を見張った。
無駄の少ないストローク。
安定したキック。
呼吸のたびに身体が大きくぶれることもない。
まるで水泳部の選手だった。
「……あいつ、あんなに泳げたのか」
「加奈子、中学のころから何でもできたんやろ?」
クレハが言った。
「いや、バスケは上手かったけど、水泳は知らなかった」
五十メートルを泳ぎ切った加奈子は、プールの縁につかまって振り向いた。
「巧! 何してんだよ! 来いよ!」
「今行く!」
巧は笑って水に入った。
尚子は少し残念そうにその背中を見送った。
しかし、加奈子は巧と一往復だけ競争すると、すぐに一人で泳ぎ始めた。
「私、ちょっと泳ぎ込むから。お前ら適当に遊んでろ」
そう言って、何本も五十メートルを往復する。
巧はその姿を眺めていたが、やがて尚子のところへ戻ってきた。
「佐藤、クロール教えるんだったな」
「うん!」
尚子は嬉しそうに頷いた。
真琴は、プールサイドの椅子からその様子を見ていた。
尚子は上手い。
泳ぎ方を教えてもらいながら、自然に巧との距離を縮めている。
巧も楽しそうだった。
加奈子は気づいているのだろうか。
真琴が五十メートルプールに目を向けると、加奈子は相変わらず泳いでいた。
ただ、ターンの際に一度だけ、巧たちの方を見た。
それだけだった。
昼食は八人で一緒に取った。
男子たちはすっかり上機嫌だった。
クレハはよく笑い、真琴は普段より口数が多い。尚子は巧の隣に座り、自然な会話を続けている。
加奈子は焼きそばを食べながら、男子の一人に文句を言っていた。
「お前、さっきからクレハばっかり見てるだろ」
「見てねえよ!」
「嘘つけ。目が泳いでるぞ」
「古賀、お前こそ人のこと見すぎだろ!」
「私は観察してるんだよ。創作の資料だ」
「何の創作だよ」
「聞かない方が幸せだぞ」
巧が横から忠告した。
真琴は危うく飲み物を吹き出すところだった。
加奈子の趣味を知っているからである。
彼女はクラスの男子たちを題材に、男性同士の恋愛を描いた漫画を制作していた。
しかも、巧はその主要人物として頻繁に登場する。
尚子も最近、その世界を知ってしまった。
最初は驚いた。
次に興味を持った。
そして、今ではかなり熱心な読者になりつつある。
ただし、藤沢巧を題材にした作品だけは、複雑な気持ちになる。
尚子は密かに決意していた。
いつか、この気の毒な幼馴染を加奈子の魔の手から救い出してみせる。
もちろん、救出した後は自分の恋人になってもらうつもりだった。
午後もよく遊んだ。
流れるプールでは八人が一緒になり、ウォータースライダーでは男子たちが妙な競争を始めた。
加奈子は時々巧を呼びつけたが、基本的には自由に遊ばせていた。
尚子はその隙を逃さなかった。
帰り道、巧と並んで歩く時間も作れた。
好きな音楽。
進学先。
サッカーをやめてからの生活。
思っていた以上に話が合った。
尚子にとって、その日は十分な成果があった。
一方、真琴は別のことを考えていた。
加奈子は、巧と尚子が仲良くすることを止めなかった。
それどころか、ほとんど気にしていないように見えた。
なのに、帰り際。
「巧、駅まで送れ」
加奈子がそう言うと、巧は当然のように彼女の隣へ移動した。
「お前、家まで一人で帰れるだろ」
「帰れるよ。でも荷物が重い」
「自分で持てよ」
「冷たい男だなあ」
「……貸せよ」
巧は加奈子のバッグを受け取った。
加奈子は満足そうに笑った。
真琴は思った。
この女は、何もしなくても巧が戻ってくることを知っている。
三 最後のクラスマッチ
夏休み前、最後の学校行事がクラスマッチだった。
三年生にとっては、事実上最後の大きな校内スポーツ大会になる。
今年の種目は、女子がバスケットボールと卓球、男子がバレーボールと卓球だった。
男子のバスケットボールは、過去に接触プレーによる怪我が相次いだため、長年実施されていない。
また、現役の運動部員は、自分の専門種目に参加できない決まりがあった。
その点、加奈子は特殊だった。
中学時代はバスケット部の主力だったが、高校には女子バスケット部がなく、帰宅部として三年間を過ごしている。
したがって、何の問題もなく出場できた。
そして、それが問題だった。
「加奈子、あんた反則やろ」
試合前、クレハが言った。
「何が?」
「中学であんなにバスケやってたんやろ?」
「三年もやってないんだぞ。もう素人だよ」
「絶対嘘や」
「大丈夫。優しくするから」
加奈子はにっこり笑った。
その言葉が信用できないことは、クレハも真琴も知っていた。
試合が始まると、予想通りの展開になった。
加奈子は速かった。
ただ足が速いのではない。
相手がどちらへ動くかを読んでいる。
ボールを受ける前から次の動きを決め、ドリブルで相手を抜き、味方が空けば正確にパスを出す。
相手チームの守備は、加奈子一人に振り回された。
「加奈子! パス!」
クレハが叫ぶ。
「ほらよ!」
加奈子のパスがクレハの胸元に飛んだ。
「うわっ!」
慌てて受け取ったクレハがシュートする。
ボールはリングに当たって跳ねた。
その落下地点には、もう加奈子がいた。
リバウンドを取り、そのままシュート。
得点。
「ナイス、クレハ!」
「うち、何もしてへん!」
「リングに当てたじゃん。立派なアシストだ!」
相手チームから笑い声が上がった。
加奈子の凄いところは、勝負を壊すほど上手いのに、試合そのものをつまらなくしないことだった。
自分で得点できる場面でも味方にパスを回す。
初心者には無理をさせない。
相手が転べば手を貸す。
そして、勝負どころでは容赦なく得点する。
かつての熱血バスケット少女が戻ってきたようだった。
真琴はベンチから、その姿を見ていた。
普段の加奈子は、いい加減で、口が悪く、他人をからかってばかりいる。
だが、スポーツをしているときは違う。
判断が速い。
周囲をよく見ている。
何より、味方を使うことが上手い。
そういえば。
真琴はふと思った。
藤沢巧に対しても、加奈子は同じことをしているのではないか。
自分が動くより、相手を動かす。
相手が何を望んでいるかを知り、その一歩先で待っている。
そして、必要なときだけ決定的な一手を打つ。
「真琴!」
突然名前を呼ばれた。
「何?」
「出番だぞ!」
加奈子がボールを投げてきた。
真琴は慌てて受け取った。
「シュート!」
「えっ?」
「打て!」
真琴はほとんど反射的にボールを放った。
綺麗な放物線を描いたボールが、リングに吸い込まれた。
「おおお!」
加奈子が大喜びした。
「やるじゃん、学年一位!」
「勉強と関係ないでしょう!」
「頭いい奴は何やっても上手いな!」
真琴は笑ってしまった。
結局、女子バスケットボールは加奈子たちのクラスが優勝した。
決勝戦では加奈子がほとんど一人で試合を支配し、最後はクレハのシュートで勝負が決まった。
「うち、人生で初めてバスケで褒められたわ!」
クレハは大喜びだった。
「よくやった。今日はお前がエースだ」
加奈子が肩を叩く。
「ほんま?」
「最後のシュート決めただろ」
「加奈子が全部お膳立てしたんやけどな」
「細かいこと気にすんな」
一方、男子のバレーボールでは巧が活躍していた。
サッカー部出身だけあって、身体能力は高い。
ジャンプ力もあり、反応も速い。
バレーボール特有の技術では経験者に及ばないが、運動神経の良さでかなりの部分を補っていた。
準決勝では巧のスパイクが何本も決まり、クラスを決勝へ導いた。
決勝戦は接戦になった。
巧は最後まで奮闘したが、相手チームにバレーボール経験者が多く、惜しくも準優勝に終わった。
「巧、惜しかったな!」
試合後、加奈子が声をかけた。
「お前らは優勝したんだろ」
「当然だ」
「腹立つなあ」
「お前も頑張ったじゃん。準優勝なら上出来だろ」
加奈子はそう言って、巧の背中を叩いた。
「よくやった!」
巧は少し驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに笑った。
その様子を、尚子が見ていた。
彼女は最近、巧のことをかなり知るようになっていた。
誰にでも親切で、気配りができる。
女子に人気があることを知っていながら、妙に落ち着いている。
それなのに、加奈子に褒められると、子供のような顔をする。
尚子は少しだけ胸が痛くなった。
でも、まだ勝負は始まったばかりだ。
幼馴染というだけで、恋人になる権利が決まるわけではない。
それに、加奈子は巧を恋人にするつもりがないように見える。
だったら、自分にも十分にチャンスはある。
そう考えた。
四 放課後の一手
クラスマッチが終わった放課後。
教室には、まだ何人もの生徒が残っていた。
勝った者も負けた者も、最後の大会の余韻を楽しんでいる。
加奈子は自分の席で、何やらスケッチブックに描き込んでいた。
真琴が覗き込む。
「……また巧君?」
「そう」
「今度は誰と?」
「野球部の元キャプテン」
「今日の試合が材料なのね」
「いやあ、あの二人のネット越しの視線がよかったんだよ。宿命のライバルって感じで」
「実際には普通に握手していたでしょう」
「そこから先が創作だろ」
加奈子は楽しそうにペンを走らせた。
真琴は呆れた。
この女は、あれだけ巧を振り回しておきながら、本人を題材にこんな漫画を描いている。
しかも、巧がそれを知っていることも承知している。
普通なら怒る。
ところが巧は、加奈子の趣味に関しては半ば諦めていた。
「変なものを人に配るなよ」
それが彼の唯一の要求だった。
加奈子も、その約束だけは守っている。
そのとき、尚子が巧に声をかけた。
「藤沢君、ちょっといい?」
「ん? 何?」
「少し話があるんだけど」
尚子の声は、いつもより少し硬かった。
真琴は顔を上げた。
巧は机に置いていたバッグを持ち直した。
「いいよ。何?」
「ここじゃ、ちょっと……」
尚子は教室の外へ目を向けた。
その様子を見て、真琴はすぐに察した。
告白だ。
ついに尚子が動く。
プール以来、尚子は巧との距離を着実に縮めていた。
休み時間に話しかけ、一緒に帰る機会を作り、サッカー部時代の話を聞いていた。
巧も尚子を嫌っていない。
むしろ、かなり好意的に接している。
尚子は明るく、気立てもよく、運動もできる。
男子から見れば、十分に魅力的な少女だった。
真琴は加奈子を見た。
加奈子はまだスケッチブックに向かっている。
聞こえていないのだろうか。
尚子がもう一度言った。
「藤沢君、廊下で……」
「巧!」
加奈子が突然顔を上げた。
「今度は海に連れていけ」
教室の空気が、一瞬止まった。
「……は?」
巧が振り向く。
「海だよ、海。夏休みだろ。プールの次は海に決まってるじゃん」
「お前、また突然だな」
「何だよ。嫌なのか?」
「嫌とは言ってないけど」
「じゃあ決まり」
加奈子はスケッチブックを閉じた。
「車はまだ無理だから電車だな。荷物持ちが必要だし、男も何人か連れていこう」
「また俺が手配するのか?」
「頼りにしてるぞ」
「お前なあ……」
巧は笑った。
加奈子は続けた。
「そうだ。帰りに水着見に行こうぜ」
「水着?」
「海用のやつ。今の競泳水着じゃつまらんだろ。私も大人のビキニにする」
「何、その鼻血が出そうな誘い。俺が行ってどうするんだよ」
「荷物持ち」
「またそれか」
「嫌ならいいよ。他の男を誘うから」
「分かったよ。付き合う」
加奈子は満足そうに立ち上がった。
「よし、行こう」
巧は尚子を振り返った。
「あ、佐藤。話って何だった?」
尚子は一瞬、言葉に詰まった。
「……ううん。何でもない」
「そう?」
「また今度でいい」
「分かった」
巧は軽く手を振り、加奈子の後を追った。
二人が教室を出ていく。
加奈子は廊下で何かを言い、巧が笑っている。
いつもの光景だった。
尚子は、その背中を黙って見送った。
真琴は声をかけようとして、やめた。
今は何を言っても慰めにならない。
しばらくして、尚子がぽつりと言った。
「……ずるいよね」
真琴は答えなかった。
「加奈子って、巧君のこと好きなのかな」
「どうだろう」
「でも、付き合ってないんでしょう?」
「うん」
「だったら、私が好きになってもいいよね」
真琴は尚子を見た。
その顔には、悔しさと、まだ諦めていない強さがあった。
「もちろん」
真琴は静かに答えた。
「それは尚子の自由よ」
尚子は小さく笑った。
「ありがとう」
そう言って、自分のバッグを持った。
「私、帰るね」
「うん。また明日」
尚子が教室を出ていく。
真琴は一人になって、加奈子の机を見た。
そこには、描きかけのスケッチブックが置かれていた。
開いてみる。
藤沢巧と野球部の元キャプテンが、妙に意味ありげな視線を交わしている。
その絵を見て、真琴は深くため息をついた。
本当に、どうしようもない女だ。
加奈子は巧が好きだ。
間違いない。
ただし、その好きという感情は、普通の恋愛とは少し違う。
加奈子は巧と付き合いたいのではない。
少なくとも、今は。
彼女が欲しいのは、恋人という肩書きではなかった。
呼べば来る。
誘えば付き合う。
自分のわがままに文句を言いながら、最後には笑ってくれる。
幼いころから続いてきた、あの関係そのものだった。
巧が自分を好きなことも知っている。
だから告白させない。
告白されれば、返事をしなければならない。
付き合うことになれば、今までとは違う関係になる。
断れば、もっと大きく変わってしまう。
加奈子は、そのどちらも望んでいない。
だから、巧が何かを言い出しそうになると、先回りして別の話をする。
そして、他の女子が近づいてくると。
今日のように、唐突に巧を連れ去る。
真琴は窓の外を見た。
校門へ向かう二人の姿が見えた。
加奈子が何かを話している。
巧は隣で笑っている。
加奈子は歩きながら、巧の腕を軽く叩いた。
巧が何か言い返す。
加奈子が大きな口を開けて笑う。
それは、恋人同士と言われても不思議ではない光景だった。
けれど、二人は恋人ではない。
真琴は思った。
この女は知っている。
藤沢巧の価値を。
容姿がよく、性格がよく、運動も勉強もできる。
そして何より、自分をずっと好きでいてくれる。
そんな男子が、どれほど貴重な存在なのか。
加奈子は知っている。
だから、手放さない。
ただし、捕まえることもしない。
逃げられない程度に自由を与え、必要なときだけ手綱を引く。
しかも、本人はそれを大したことだと思っていない。
真琴は思わず笑ってしまった。
「……最低ね、加奈子」
しかし、不思議と嫌いにはなれなかった。
加奈子は、自分のしていることを恋愛の駆け引きだとは思っていないだろう。
ただ、巧が他の女の子のものになるのが嫌なのだ。
そして、今の関係が変わることが、もっと嫌なのだ。
だから今日も、思いつきのような顔をして巧を連れていった。
尚子が告白しようとした、まさにその瞬間に。
偶然のはずがない。
真琴は確信した。
加奈子は佐藤尚子を、排除すべき相手だと認識している。
そして、必要ならこれからも同じことを繰り返すだろう。
「……巧君も大変ね」
真琴はスケッチブックを閉じた。
だが、少し考えてから、首を傾げた。
本当に大変なのだろうか。
巧は加奈子が好きだ。
一緒にいられるだけで満足しているようにも見える。
加奈子に呼ばれると、いつも嬉しそうにする。
自分がどれほど女子に人気があるか知っているくせに、加奈子の前では妙に素直になる。
もしかすると。
巧にとっても、今の関係は悪くないのかもしれない。
少なくとも、今日までは。
真琴は窓の外をもう一度見た。
二人の姿は、もう見えなかった。
夏休みが始まる。
海へ行く約束ができた。
尚子はまだ諦めていない。
そして加奈子は、きっと何も変えるつもりがない。
真琴は小さく呟いた。
「さて、いつまで続くのかしら」
その声は、誰にも聞こえなかった。
了




