考える葦
人は、生まれつき持っているものと、後から身につけるものがあるらしい。
良心とか、常識とか、罪の意識とか。
それらは皆、時間をかけて、自然と心に根付くものだと。
僕は、そうだと思っていた。
だからこそ、気づいた時には遅かった。
――自分には、それが無い。
無くしたのではない。
奪われたのでもない。
最初から、そこに存在していなかった。
その事実を理解した時には、すでに僕は檻の中にいた。
看守 「反省しろ」
短い言葉だった。
怒鳴り声でもなければ、感情もこもっていない。
ただ、事務的だった。
反省。何を?
そう聞き返したかったが、口には出さなかった。
答えが返ってこないことを、もう知っていたからだ。
反省とは、罪の自覚があって初めて成立する行為だ。
なら、その前提が欠けている人間は、どうすればいい。
僕は、独房で静かに考えていた。
檻の外では、鍵が鳴る。
遠くで、誰かが泣いている声がする。
それらは現実だ。
理解できる。
正しく認識できる。
――それなのに。
「悪いことをした」という感覚だけが、どうしても分からない。
看守 「自分が何をしたか、分かっているのか」
看守が僕に問いかける。
分かっている。
事実としては。
出来事は、すべて覚えている。
順序も、結果も、周囲の反応も。
ただし、そこに重さが無い。
人が言うところの「罪悪感」というものが、どんな形をしているのか、想像すらできなかった。
だから、代わりに覚えた。
表情。
声の震え。
距離の取り方。
人は、何か、自分が悪いと判断した時、決まった反応を示す。
それを記憶し、真似ることはできる。
実際、そうしてきた。
謝罪もした。
頭も下げた。
後悔しているような顔も、作った。
それでも、どこかが決定的に違っていたらしい。
「分からないなら、考えろ」と言われた。
「考えても分からないなら、感じろ」とも。
僕には無理な話だ。
存在しない感覚を、どうやって感じろと言うのだろう。
僕はただ、知りたいだけ。
人が言う「罪」とは、一体どこに、どうやって生まれるものなのか。
僕には感情が無いわけではない。
空腹は分かる。
痛みも分かる。
不快と愉快の区別もつく。
ただ、そこに評価が伴わない。
悪いという判断だけが、欠落している。
医師は、それを障害だと言った。
看守は、言い訳だと言った。
法廷は、危険だと言った。
どれも、事実として理解できる。
否定する気はない。
人は、自分と違うものを恐れる。
それも、合理的だ。
だから僕なりに努力した。
本を読んだ。
記録を見た。
過去の事件と、その判決を照合した。
何が「罪」になり、どこからが「許容」なのか。
線は曖昧だった。
時代と場所で、簡単に変わる。
にもかかわらず、更に分からないのは、人はそこに感情を乗せる。
怒り、悲しみ、嫌悪。
ときに、快感すら。
理解できなかったが、記憶はした。
反省文の書き方も学んだ。
短すぎてもいけない。
具体性がなければ誠意が無いと判断される。
主語は「私」
動機は「未熟さ」
結論は「深く反省しています」
それを口にすると、皆、少し安心した顔をする。
効果は確認済みだ。
それでも、評価は変わらなかった。
「心が無い」
「人間じゃない」
「怖い」
そう言われる理由は分かる。
同意もできる。
感情が無い人間より、感情が理解できない人間の方が、扱いづらい。
看守 「被害者の気持ちを考えろ」
被害者。
その単語は、役割を示しているに過ぎない。
出来事の中で、損失を被った側。
それ以上でも、それ以下でもない。
気持ちは推測できる。
統計的にも、過去の例からも。
だが、それを重いと感じる機能が無い。
だから、僕は選択を間違えない。
感情に引きずられないからだ。
結果だけを見る。
効率と確率だけを比較する。
それが、社会にとって最善だと本気で信じていた。
――信じていた、という表現は正確ではない。
疑う理由が、無かった。
檻の中で、ようやく一つだけ理解した。
人は、「罪を感じない人間」を最も重い罪として扱う。
それが、ここにいる理由だ。
制度は、感情を前提に作られている。
反省する者は、戻れる。
後悔を示す者は、管理できる。
……その前提が、まず面白い。
誰が決めたのだろう。
「感じている人間は安全だ」と。
反省には、形式がある。
言葉の選び方。
声の大きさ。
沈黙の長さ。
それを守ると、人は安心する。
――不思議だ。
中身よりも、外側の方が
よほど重要らしい。
看守 「被害者の気持ちを考えろ」
……まただ。
この言葉は、いつも同じ場所に置かれる
考えている。
正確に。
どの程度の恐怖か。
どれくらいの損失か。
回復の見込みはあるのか。
ここで、少しだけ困る。
それを重いと感じられない。
だから、危険なのだそうだ。
罪を感じない人間は、何をするか分からない。
……本当に?
感情に振り回される人間より、ずっと予測可能だと思うのだが。
もちろん、それは口には出さない。
それも学習済みだ。
この作品は朗読会、Lunask Act4で使用した台本です。
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