雪鍋夜話
凍える冬の夜、一つの鍋が囲炉裏の上で煮え立つ。湯気は過去を呼び覚まし、食材は人生の縮図を語る。この短い物語は、鍋を囲む孤独な一瞬に宿る、滑稽で切ない人間のさがを、綴ったものだ。シニカルなスパイスを効かせつつ、雪降る夜の温もりを味わっていただければ幸いである。
雪はまるで天が世界を白い忘却で塗り潰すように降り続く。古びた借家の四畳半、煤けた卓袱台に据えた鍋が、ゴトゴトと命の脈を打つ。湯気はまるで魂の吐息、部屋の薄闇に溶け出し、窓ガラスに儚い霧を刻む。白菜は熱に身をくねらせ、豆腐はふやけて無垢に還り、鰤の切り身は煮汁の中で最後の踊りを踊る。鍋はまるで、この世の縮図だ。生きとし生けるものが、煮込まれて一つになる。
この家は誰のものでもない。いや、誰もが一瞬だけ借り物の生を味わい、去っていく寄宿舎だ。今宵、鍋の湯気はまるで過ぎ去った時間の幽霊を呼び覚ます。箸を持つ手が、なぜかためらう。心? そんなものは「居酒屋の割り箸みたいに、使えば折れて捨てられる」さだめだ。鍋の蓋がカタリと鳴り、湯気の向こうに何かが見えた。かつての友か、遠い日の恋人か、それとも私の若い頃の残響か。
「お前も食うか、影よ」と呟いてみる。返事はない。ただ、湯気の揺らめきと、雪の沈黙だけが私を包む。出汁は昆布の海の記憶と、鰹の遠い夏の味を溶かし、舌の上で人生を嘲る。一口啜れば、まるで忘れたはずの笑顔が喉を滑り落ちる。鍋は笑う。生きるとは、こんなにも滑稽で、こんなにも旨い。
雪は降り続く。鍋は空になり、卓袱台の上には湯気の残り香だけが漂う。私は箸を置き、窓の外を見る。白い闇が世界を飲み込むが、腹の底にはまだ出汁の熱が宿り、私をこの夜に繋ぎ止めていた。生きるってのは、結局、鍋を囲む一瞬のためにあるのかもしれない。