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アイリス、家を買う

任務の帰還報告を終えた翌朝。アイリスは、市場通りの雑踏を抜け、城壁近くの住宅区へと足を向けていた。


 今までは宿屋を転々としていた。安価で身を潜めやすい反面、設備やプライバシーの面で不満があったのも事実だ。武装や情報端末の整備、訓練の継続、突発的な襲撃への備え——どれも落ち着いた拠点がなければ非効率だ。


 帝都から遠く、国境線にも近いこの都市は、犯罪組織や傭兵、流れ者が行き交う独特の空気を纏っている。その分、隠れ家としては申し分ない。


「そろそろ根を張る頃合いか」


 アイリスは通りの不動産案内板を眺めた。二階建て、裏路地に面した石造りの旧家屋。魔導蒸気配管が一部古い型だが、修理次第で問題はない。地下倉庫付き、屋上アクセスあり。交渉次第で値引きも可能とある。


 ——戦場以外に、自分の意志で選んだ“居場所”か。


 心の奥に微かな違和感が残ったが、アイリスはそれを振り払うように案内所の扉を押した。


「これでいい。次の任務までに備えを整える」


 決断は即断。迷いはない。

 この場所が、アイリスという名を背負う者の“拠点”となる。


 購入を決めた家は、裏路地に面した石造りの二階建て。屋上への外階段と地下倉庫を備え、視認性も低い。周囲は職人や行商の住居が点在し、人通りが多すぎず、監視と警戒にちょうどいい立地だった。


 初日は鍵の受け渡しと簡単な内覧に費やした。床は軋みが目立つが、骨組みは頑丈。配管の一部は旧式のままだったが、蒸気圧管理用のバルブを新型に交換すれば許容範囲だ。


 二日目。アイリスは鍛冶通りの古物店と修理工房をまわった。最低限の家具と装備台、作業机、魔導端末の設置用架台をまとめて購入。応急手当用の施術台と訓練スペースも確保し、地下倉庫には備蓄用の食料・水・武具・銃弾を整理した。


 三日目の朝、配管工が呼び出され、魔導蒸気暖房と給湯配管の取り替え作業が始まる。応急対応用に調達した可搬式ヒーターを設置し、作業の間も最低限の生活環境は確保された。


 生活というより、戦術的根拠地。


 物件の中央階段から見渡す室内は、どこか軍施設を思わせる簡素さを帯びていた。だがそれがいい。隠れ蓑に過ぎない一時的な安寧──それでも、使えるものは最大限活用すべきだ。


 壁に武装ラックを設け、窓の死角には射線の通る位置に防護魔法の簡易符を配置。屋上には双眼鏡付きの観測台と、簡易の煙幕発射口も追加した。


「よし……最低限の備えは整ったな」


 アイリスは一度だけ深く息を吐き、床に据えた鋼鉄製のチェアに腰を下ろす。静寂が満ちる。外では子供の声と市場の喧騒がかすかに響くが、ここは遮断された空間だ。


 この場所が、戦場以外に自ら選んだ初めての拠点。


 その事実に一抹の違和感を覚えつつも、彼女はただ無言で拳を固めた。


 ──拠点確保、完了。

 次に備えるべきは、戦場の更新か、それとも──この世界の常識そのものへの介入か。


 その夜。

薪を焚き、湯を張り終えるまでに小一時間かかったが──


「……ふぅ、やっぱり……風呂はいい」


肩まで湯に沈んだ瞬間、全身から重りが剥がれ落ちていくようだった。


薄暗い浴室に、湯気が立ち込める。

筋肉の緊張がじわりと溶けていくたび、心のどこかで張り詰めていたものが緩んでいく。


背中に刻まれた無数の傷跡が、熱に浮き上がった。

戦いの記憶が、肌に、骨に染みついている。

それでも──


「ここが、拠点ベースになる」


静かに呟いたその言葉が、ひどく心地よく響いた。


新しい家。

静かな夜。

ようやく手に入れた、確かな「自分の場所」。


そして、明日はもう次の準備に入らなければならない。

この町で生きる。生き延びる。


その覚悟が、湯船の中で静かに形になっていった。


湯気が立ちこめる風呂場から上がったアイリスは、濡れた銀髪をタオルで拭いながら、上半身だけをバスタオルで覆ってリビングに戻ってきた。


「……悪くないな」


 部屋の空気がほんのりと温かい。石造りの風呂場に備え付けの魔導温水器は旧式だったが、湯量も温度も及第点だった。


 家を購入してから初めて入る風呂。狭いながらも清潔で、壁面に蒸気の逃がし口があるのは評価に値する。おそらく前の住人が手を入れていたのだろう。


 リビングには最低限の家具をすでに配置済みだった。壁際に重厚な木製ラックを据え、そこには工具箱、魔導測定器、整備用ゴーグル、修理用グリス、そして数冊の専門書が並ぶ。


 中央には折りたたみ式の作業台。その横に、専用ケースに収められた《スレイヴ・ラプチャー》と《スレッジ・リミッター》が置かれている。弾薬ケースも並列で整理され、薬莢はサイズ・用途別に分類済み。装備の手入れと整備は、ほとんど癖になっている。


 ベッドは奥の小部屋に。シンプルな寝台にしてはマットが良く、意外にも安眠できそうだった。


 彼女はバスタオルを乱暴にソファへ投げると、インナーシャツとショートパンツを素早く身につけ、髪を雑に結びながらラックの前に腰を下ろした。


 スレッジ・リミッターの側面に走った焦げ跡が気になっていた。あの騎士との戦闘の際、魔術による高温干渉があったのだろう。熱でフレームが歪んでいないかを念入りに確認する。


「魔導障壁を貫けない時点で、こいつの限界は見えてる……改造するなら銃身を強化して、あとは魔導蒸気圧との干渉を抑える構造にする必要があるな」


 工具を取り出し、分解作業に入る。ネジの回転音と金属の擦れる音が、夜の静寂に響いた。


 新たな任務に備えての、装備の再構築。身体を清めたあとの彼女の時間は、いつもと変わらぬ「戦場の準備」だった。


 *


 朝霧の残る路地裏を抜け、アイリスは革靴の音を響かせながら坂を登る。目的地は街の東端にある《バステン工房》。「魔導装甲」の調整と製造を手がける職人の一人、ガロ・バステンの工房だ。


 分厚い扉を叩くと、数秒後に錠の外れる音がして、重々しい音とともに扉が開いた。


「よぉ、来たな。予定より一日早いじゃねぇか」


 出迎えたのは、頬に火傷の跡を持つ大柄な男、ガロ・バステンその人。油と焦げた金属の匂いを纏いながら、片手で溶接用ゴーグルを額に上げた。


「早く使いたくてな。完成してるんだろ?」


「とっくにな。こっちだ」


 工房の奥へと通され、重い防音扉を抜けると、そこはまるで異界だった。整然と並ぶ金属パーツ、魔導圧縮炉、そして蒸気噴出口を備えた冷却装置。そこに、鎮座するように吊るされた漆黒のボディスーツがあった。


「これが……新型か」

漆黒に近いメタルグレーの装甲は、滑らかな曲線を描きながらも、爆発にも耐える複合素材が重なっている。各関節部には新型の補助骨格がむき出しになっており、細かな駆動部が青白く発光していた。


 「防弾性能、従来比で一・四倍……対衝撃、特に爆風耐性を強化済みか」


 アイリスは仕様を思い出しながら、手早く装着を進める。

 内部冷却機構はそのまま維持されており、魔法耐性も向上している。特筆すべきは、補助骨格の出力強化――瞬発力を重視した3.5倍の強化仕様。従来より持久力は劣るが、一撃離脱の戦術にはうってつけだった。


 スーツの外殻が最後に閉じると、しんと静寂が訪れた。内圧が安定し、電子音が小さく鳴る。


 「……悪くない」


 装甲は、まるで彼女の身体に吸い付くようにフィットしていた。

 細腰からヒップ、長くしなやかな脚線に至るまで、設計者が“美”にこだわったことは明白だ。

 単なる機能美ではない。戦場であっても、彼女の存在そのものが“映える”ように最適化されている――そんな意図すら透けて見える。


 アイリスは顎をわずかに上げ、鏡に映る自分を一瞥した。


 「──見た目は上等だ。問題は中身の性能だな」


 そして、彼女はマガジンをチェックしながら、重々しいスレッジ・リミッターを肩に担ぎ、動作チェックへと移った。

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