第九章 陰杭(かげくい)を打つ
俺が十歳の頃、親父と一緒に山回りをしていたとき、ある家に立ち寄ったことがある。
その家では、一ヶ月ほど前に亡くなった老人が、なぜか何度も家に戻ってきては、生前の姿勢そのままで現れるという奇妙な現象が起きていた。
それを聞いた親父は、即座にこう言い放った。
「これは陰杭を打たれたんだ」
彼らが見ていたのは、死体なんかじゃない。戻ってきたのは、亡くなった老人の魂そのものだったのだ。
「陰杭を打つ」が何なのかを理解するには、まず「陰」と「杭」について知らなければならない。
人は死んだら土に還る。いわゆる「安らかに眠る」ために、黄土の中に埋められるのが常だ。
その時点で、死体が置かれた土地は現世から切り離され、「陰界」──すなわち「陰」の世界へと入る。
では「杭」とは何か? それはわかりやすいだろう。太くて丈夫な木の杭のことだ。
人の背丈ほどの長さで、直径はだいたい三十五センチ。これに赤黒い液体を塗りたくって全体を血のような色に染め上げ、死者の棺に打ち込む──それが「陰杭を打つ」だ!
言うまでもなく、幽霊や魂魄は赤を恐れる。死者の前に真っ赤な物が現れると、魂は落ち着きを失い、時には屍が暴れ出す「屍変」が起こることもある。
だからこの杭に赤を塗るのは、死者の魂が再び棺に戻ることを防ぐためなんだ。
この杭を打ち込む一連の儀式、それが“陰杭を打つ”というわけだ。
だが、この陰杭を打つには、いくつもの厳しい条件がある。
・太陽が昇っているときは打ってはならない
・夜空に月が高く昇っているときも打ってはならない
・身体が弱っているときは打ってはならない
・故人と血縁関係がない者は打ってはならない
・棺の中に遺体が残っている場合(骨を除く)も打ってはならない。
この五つの条件のいずれかでも破れば、陰杭の効果は発揮しない!
一つひとつは分かりやすい。つまり、昼間はダメ、真夜中の満月の時もダメ、体調が悪い時もダメ、死者と血縁関係のない者が打つのもダメ、そして棺の中にまだ遺体(骨を除く)がある場合もダメだ。
基本的に「陰の杭」は、棺から遺体を取り出した後に行われる。直接遺体を傷つけることはない。
だが、その代わり、死者にとってはとんでもない迷惑になる。
死者にとって棺は、最後の居場所。居場所を失った魂魄は、仕方なく「生前の家に帰る」しかない。
……五つの条件を思い返した時、俺はすぐに雇い主の行き先に思い当たった。
あいつ、絶対に彼の親父の墓に行ってる!
今ごろ、墓を掘り起こして、棺に陰杭を打ってるに違いない!
村に来る途中、村の入り口で見かけた新しい墓。あれこそが雇い主の父の眠る場所ではなかったか?
もし急いで今から向かえば、日の出前には間に合う!
——そうすれば、あの爺さんの魂魄を再び棺に戻すことができる!
だが、もし日の出まで棺に戻せなければ、爺さんの魂魄は陽気に焼かれて、傷をつけられ、最悪、輪廻に入ることすらできなくなる!
「爺さん、どうかここでお静かにお休みください。すぐ戻ります!」
俺はそう言い残して、戸を開け、一目散にあの新しい墓へと走り出した。
――まさかその時、爺さんの目から一筋の涙が流れていたことには、気づいていなかった。
頑固一徹で通したこのお爺さん、一度も子どもたちの世話になったことはなかった。だが、まさか自分の死後、長男の陰謀にかかり、挙句の果てにこの騒動。
生前は報われず、死後も安らげない——爺さんが今も生きていたら、間違いなく長男と次男にビンタを食らわせていただろう!
俺は村はずれの墓地へと走りながら、心の中で願い続けた。
頼む、あの新しい墓が爺さんのものであってくれ!
5分後、村はずれの墓地にたどり着くと、見覚えのある人影が、巨大な鉄槌をぶん回して何かを叩きまくっていた。
雇い主だ!
俺は慌てて駆け寄り、鉄槌を取り上げようとした。だが――
軽く振り払われたその一撃で、10メートル近く吹き飛ばされた!
——こいつ、どうしてこんな怪力を!?
そうか、だからこそ、あの馬鹿でかい杭を、棺に強引に打ち込めたんだな……!
俺は泥だらけになりながら立ち上がり、再び彼の背後に回ると、そこに見慣れたものが貼られているのを見つけた。
傀儡符――!
傀儡符――その名の通り、人を操る符だ。元々は木偶人形を指す言葉だったが、今では『操り人形』の象徴みたいなもの。詳しい仕組みはさておき、つまりは他人の意志で動かされていたってわけだ。
俺はその符をビリッと剥がした。
すると彼は力が抜けたように崩れ落ちた。
「お、俺……今まで何してたんだ?」
雇い主は我に返った。そして、目の前の光景を見て絶句する。
「うそだろ……誰だよ、うちの親父の墓をこんなふうにした奴! マジで人間じゃねぇ!」
俺は何も言わなかった。
「犯人、お前だよ」なんて、とても言えない。
黙って、彼の手のひらを指さした。
雇い主は自分の手を見た。そこには、血まみれで肉の剥がれた、痛々しい掌があった。
傀儡符に操られていた時、彼には痛みも疲れもなかった。だが現実には、巨大な鉄槌を振るうたびに、肉体にはとんでもないダメージが蓄積されていたのだ。
鉄と木杭の衝突——その衝撃がどれほど凄まじいか、言うまでもない。人間の肉体が受け止められるわけがない。
「俺……何してたんだ……? なんで親父の墓なんか……。くそっ、親父、ごめん、俺は親不孝な息子だ……!」
雇い主は、自分に何が起きていたのか完全には分かっていなかった。しかし、自分の手で父親の墓を壊し、棺から遺体を放り出し、赤い杭を打ち込んだことだけは確信していた。
「お前のせいじゃねぇ、まだ間に合う、挽回できる!」
俺は雇い主を励ました。夜明けまでに親父の遺体を元に戻せば、魂魄は戻れる!
雇い主も「まだ間に合う」とわかったら、すぐに動き出した。
今やるべきは、まずあの棺にぶち込まれた杭を抜くこと。
だが、どれだけ力を込めても、杭はビクともしねぇ! くそっ、何なんだよこれ……!
「くそ……どうすりゃいいんだよ……!」
携帯を見ると、もう午前四時。夜明けまで、残り二時間を切っている。雇い主はまるで火がついたアリのように、焦って動き回った。
「落ち着け。ひとつだけ、試せる方法がある。ただ、お前の身体がもつかどうか……」
「構わない! 親父を安らかに眠らせられるなら、命だって惜しくねえ!」
その言葉を聞いて、俺はふと閃いた。
そうか……あの悪党が使ったのは「傀儡符」(かいらいふ)。
ならば、俺が同じ符を描けばいい。
ただし、その代償は大きい。場合によっては、雇い主の命にも関わる。
杭を打つ時には鉄槌という“道具”があったが、抜くには己の腕力だけが頼りだ。
彼の肉体で、それに耐えられるか……?
「迷うな、先生! 早くやってくれ!」
雇い主の覚悟を受け取り、俺は黄色い符紙を取り出した。
食指を噛み切り、血で一筆一筆書き上げた傀儡符。それを、迷わず彼の背中に叩きつけた!
すると——雇い主の身体に力が漲る!
彼は凛々しく棺の前に立ち、全身の筋肉を震わせながら、杭を抜く体勢に入った——!
風は東に巡り、龍の気が動くとき——このページにたどり着いたのも、きっと「縁」の導きに違いありません。
筆者・蘭亭造は、大陸・龍虎山にて古術を学び、風水・命理・陰陽五行を長年研鑽してまいりました。
干支、八字、五行方位、九星気学など、古より伝わる術数を用い、多くの方の人生に光を灯すお手伝いをしてきました。
本作はフィクションの体裁をとっていますが、登場する風水理論や相術の多くは、実際に伝わる術理をもとに構成されています。
一部は、筆者自身の体験に基づいた内容でもあります。
もし、この物語の中に、あなたの人生に役立つ「何か」があったとしたら——
それもまた、偶然ではなく必然。
このご縁に、心より感謝いたします。