第二十七章 身代わり者
溺死霊――それはこの世とあの世の狭間をさまよう怨霊の一種だ。
天にも昇れず、地にも還れぬ、まさに中途半端で厄介な存在。
主に村の川や町の急流に姿を現し、もし誰かがそこで溺れて命を落とせば、そのまま溺死霊の仲間入りを果たすことになる。
最初の溺死霊たちは事故や不運、もしくは自然現象で命を落としたが、後の溺死霊たちは“穢れ”が関係していることが多い。
一度でも溺死霊になってしまえば、転生は叶わず、ひたすら冷たい川の水に浸かり続けるしかない。飯も食えず、酒も飲めず――もう地獄以外の何ものでもない。
転生したければどうすればいいか?
簡単な話、「代わり」を一人見つければいいのだ。自分の代わりに死んでくれる人間さえいれば、ようやく輪廻の輪に戻れるというわけ。
ここで疑問を抱いた読者もいるかもしれない。
「川にいるなら魚とか食えるんじゃね? 喉が渇いたら水も飲めるっしょ?」って。
違うんだな、それが。
溺死霊に成り果てた瞬間、体は“断食モード”に突入する。
腹は減る。でも食えない。口に入れたものはすぐに吐き出してしまうし、満腹感どころか、食えば食うほど飢えが増してくる始末だ。
水も同じ。
飲んだそばから毛穴という毛穴から排出される。いわば、人間の形をしたザルだな。
ちなみに、溺死霊にまつわる逸話ってのは結構多くて、漁師と溺死霊の有名な話なんかは皆も聞いたことあると思う。
だから今回は、あまり知られていない話を一つ披露しよう。
昔々、あるところに、一人きりの老人がいた。
家族も友達もおらず、夜になると世界中から見捨てられたような気分に陥る。
語り合う相手もいなけりゃ、気にかけてくれる人もいない。
そんな老人の唯一の楽しみは酒だった。
ある日、いつものように酒を煽っていた彼は、ふと――「もう人生いいかな」と思い始めた。
そうなると、次に考えるのは「どうやって死ぬか」ってことだ。
リストカット?
無理。痛すぎる!
飛び降り?
論外。死体がグチャグチャになるのが恥ずかしい。
首吊り?
それこそダメだ!苦しみながら死ぬとか勘弁してくれ。
そんなとき、夏の心地よい風が彼の頬をなでた。
「ふぅ〜……この暑さの中、冷たい川に浸かってそのまま死ぬって、わりと悪くないんじゃね?」
そう思った彼は、酒の入ったひょうたんを片手に、ふらふらと川辺に向かった。
いざ飛び込もうと深呼吸をしたその時――
視界の隅に、なぜか川岸にぽつんと座る男の姿が。
「……あれ?もしかして、俺と同じく死にに来たやつか?」
だったらせめて、死ぬ前に一人でも救ってやれば、ちょっとは成仏の足しになるんじゃないか?
そんなことを考えながら近づいてみると、そいつは全身びしょ濡れで、骨と皮ばかりのガリガリ。
それでも話しかけてみた。
すると、そいつは驚いた顔でこう言ったんだ。
「……お前、俺のことが見えるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、老人はハッと目を覚ました。目の前の相手が人間ではなく、霊であることに気づいたのだ。しかも、その体つきからして、どうやら伝説の「溺死霊」に違いない。
昔だったら、こんな場面に遭遇すれば震え上がって逃げ出していたかもしれない。だが、今となっては自分ももうすぐそちら側の存在になる身だ。恐れる理由もない。
そう思った老人は、溺死霊と語らいを始めた。そして自分の酒のひょうたんを手渡し、一人と一霊で酒を酌み交わしながら、夜通し語り合った。
ふと老人は疑問に思った。巷の話では、溺死霊になれば“辟穀状態”となり、飲み食いができなくなるはずだ。それなのに、この溺死霊はなぜ酒を飲めるのだろう?
「おやじさん、それには訳があるんだよ。俺はこの川で四十年以上もこうして浮かんでる。その間、何度も輪廻に入るために身代わりを探してきた。でも、どうしても手を下せなかった。だって、溺死霊ってのは、本当に……地獄より辛いんだ」
この溺死霊、生前から心優しい性格だったらしく、死後もそのまま善良さを失わなかった。だからこそ、誰かを道連れにすることができずにいたのだ。
それを見かねた冥界の冥吏が、特例として「食事可」の許可を出し、夜には川から上がって一息つくことも許されたという。老人はようやく、霊がなぜ酒を飲めたのかを理解した。
溺死霊は自らの苦しみを語り続けた。その話に心を打たれた老人は、自死する気を失った。たとえ孤独でも、生きている方がまだマシだ――そう思えたのだった。
それからというもの、夜になると老人はいつも酒と肴を携え、川辺に現れるようになった。溺死霊と杯を交わし、語らい、静かな日々を過ごした。
だが、平穏な時間は長くは続かなかった。
ある日、溺死霊が言った。
「おやじさん、今夜が最後の酒だ。これでお別れだよ」
理由を問いただす老人に、溺死霊は正直にすべてを話した。
「明日の午後二時半頃、一人の子供が、頭に大きな黒鍋を乗せてこの川を泳いで通る。その子の八字は俺とピッタリ合っていて、俺の身代わりになれる。もしこのチャンスを逃したら、俺はもう輪廻に入れない。永遠にこの川に閉じ込められるんだ……」
そう、溺死霊にも転生の期限があるのだ。期日を過ぎてしまえば、もう誰とも入れ替わることはできず、一生水中で彷徨うことになる。
明日がその最後の期限――溺死霊は悩んだ末、自分のために一人の命を選ぶ決心をした。
帰宅した老人は、どうにも腑に落ちなかった。
「黒鍋を頭に乗せて川を泳ぐ子供?そんなヤツいるか?道を歩けばいいのに、なぜ川なんか……おかしいだろう?」
不思議に思った老人は、翌日川辺に行って、その目で確かめることにした。
翌日正午、老人は川岸に現れた。溺死霊に見つからないように、近くの鬱蒼とした木陰に身を隠す。
この時、気温はすでに40度近く――まるで人間が焼けそうな暑さだった。
午後二時半、案の定、背中に大きな黒い鍋を背負った少年が現れた。強烈な陽射しに肌を焼かれ、彼の全身はヒリヒリと火傷のように痛んでいた。
少年は背中の鍋を外し、それを頭にかぶせて日差しを避ける。すべての準備を終えると、橋を渡って川を越えようとした。だが、橋脚に足をかけたその瞬間、背後から「ゴゴゴゴ……」と不気味な音が響き、橋が崩れ落ちてしまった。
少年は焦った。今日はどうしても川を越えなければならない――家に重要な用事があったのだ。仕方なく、少年は決断する。「泳いで渡るしかない!」
地元の子供は皆、水泳に慣れている。この程度の川なら、泳ぐのも造作もない。少年は頭に黒鍋を載せたまま、川へと入った。
水中の溺死霊は時機が来たと見て、少年に向かって泳ぎ出した。
岸辺からその様子を見ていた老人の胸には、やり切れない思いが込み上げてきた。あの子はまだ十四にも満たない若さだ。そんな少年が命を落とし、溺死霊の身代わりになるなんて――どうしても許せなかった。
彼は決心し、林の陰から飛び出して、川に向かって叫んだ。
「坊や、すぐに岸に戻れ! 川には溺死霊がいるぞ! 死んじまうぞ!」
水面に浮かび上がった溺死霊は、老人を睨みつけた。その目には裏切られた怒りが宿っていた。「俺はお前を友だと思っていた。なのに、お前は……!」
だが老人には、もう迷っている暇はなかった。どうしても、あの子を救わなければならない!
若さゆえに血気盛んな少年は、老人の言葉に鼻で笑い、「何をバカな」とばかりにそのまま対岸を目指して泳ぎ続けた。
こりゃダメだ――老人は覚悟を決め、川に飛び込んだ。たとえこの命を賭けても、あの子だけは助けなければ!
怒り心頭の溺死霊は、老人に狙いを定めた。
「そんなにあの子を助けたいなら、いっそお前を身代わりにしてやる!」
実は、最初から老人こそが溺死霊にとって“天命の人”だったのだ。あの日、老人が川で自殺しようとしていたとき、溺死霊は岸辺に現れ、じっと老人を見ていた。本来なら、あのとき老人を連れていくつもりだった。だが、いざ目の前にしたら、気が引けてしまった。
それに老人は、酒とつまみを持ってきて、溺死霊と酒を酌み交わした。人と霊の垣根を越えた“親友”になったのだ。
だから溺死霊は「誰か他の者を身代わりにしよう」と――決意した。
だが、運命は皮肉なもの。今日がその最後の期限だというのに、こんな事態になってしまった。やはり、天が決めた通り、老人こそが最適な身代わりだったのかもしれない。
そのまま老人は、川に呑まれ、命を落とした。溺死霊はようやく輪廻の機会を得て、成仏することができたのだった。
それから何年も経った今でも、村の人々の間では、こんな話が囁かれている。
――あの川辺に、年老いた男が座って、口ずさんでいるのを見たと。
「なんも借りとらんだよ…………」
風は東に巡り、龍の気が動くとき——このページにたどり着いたのも、きっと「縁」の導きに違いありません。
筆者・蘭亭造は、大陸・龍虎山にて古術を学び、風水・命理・陰陽五行を長年研鑽してまいりました。
干支、八字、五行方位、九星気学など、古より伝わる術数を用い、多くの方の人生に光を灯すお手伝いをしてきました。
本作はフィクションの体裁をとっていますが、登場する風水理論や相術の多くは、実際に伝わる術理をもとに構成されています。
一部は、筆者自身の体験に基づいた内容でもあります。
もし、この物語の中に、あなたの人生に役立つ「何か」があったとしたら——
それもまた、偶然ではなく必然。
このご縁に、心より感謝いたします。