七
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翌日、十月十一日。この日は土曜日だったが、神田たち刑事は休日を返上して業務にあたっていた。そのほとんどは、今回の『八雲・“名無し”殺し』のことだった。
「だめですね。土曜日なので、県警交通部の運転免許課がやってません」
雛内が電話の受話器を置いて、溜め息をついた。
書類をめくっていた弥生が、雛内の言葉を聞いて怒鳴った。
「そんなもの、担当者を叩き起こしてでも対応させろ。交通部の連中も俺たちと同じ警察官なんだ、俺達は休日返上で働いてるんだぞ」
神田はパソコンで住民基本台帳を照会していた。氏名をパソコンに打ち込むと、間もなく本人の情報が表示される。
『氏名:宇津木 尋 住所:兵庫県N市XX番地 生年月日:二〇〇一年X月X日 性別:男 発行元:兵庫県N市』
「出た。これと運転免許証の内容が合致していれば、間違いなく本人だろう。警視、捜査許可を出してください」
パソコンのモニターを見て、雛内が頷いた。警視と呼ばれた弥生は不機嫌そうな顔でしばらく神田を見つめ、書類を乱雑に投げて寄越した。
神田と雛内はパトカーに乗り、宇津木が住んでいると思われるアパートを目指していた。アパートに居るかどうかわからないが、とにかく行ってみるしかない。
アパートは、兵庫県N市のやや西南部の郊外にあった。辺りには二、三階建てのアパートや一軒家が多い。市中心部に比べれば地価が安いので、庶民でも家を建てやすいのだろう。神田もN市郊外に建てられたアパートを借りている。
宇津木が借りている部屋は一階にあるようだった。二人はアパートの駐車場でパトカーを降りて、玄関扉の前に立ち、神田がインターホンを押した。
無音。誰も出てこない。
もう一度インターホンを押したが、人の気配は全くなかった。
「居ないな。午後にまた来よう」
神田がそう言った時、背後で物音がした。
振り返ると、黒髪のマッシュの若い男が、自転車に乗ってこちらを見ていた。
「あの……、誰すか?」
神田と雛内はスーツを着ていたので、警察官だとはわからなかったらしい。
「宇津木 尋さんですか。私たちは兵庫県警です。少しお話を伺いたい出来事が起こりましたので、K市にある兵庫県警本部に同行していただけませんか」
雛内が警察手帳を取り出して見せ、落ち着いた口調で言った。神田も警察手帳を見せる。
「え、警察……? え?」
男はかなり戸惑っている様子だった。
「自転車をとめて、パトカーの後部座席に乗ってください。K市まで向かいます」
雛内が言い、パトカーの助手席側の後部座席のドアを開けた。
*
神田は、男と県警本部の一室に入った。少し遅れて、雛内がノートパソコンと書類を持ってきた。
男はうつむいていたが、顔が青白くなっているのが見てとれた。
「まず、お名前を確認します。あなたは宇津木 尋さんで間違いないですね」
神田は話し始めた。
「はい……、宇津木 尋です」
男はうつむいたまま答えた。
「あなたは十月八日水曜日の午後、K市内のレンタカー屋で車を借りましたね。間違いありませんか」
「えっ……、はい、借りましたが、それが何か……?」
予想外の質問だったのか、宇津木は顔を上げて答えた。
「単刀直入にお聞きします。あなたが借りたレンタカーの車内で、男性が銃で撃たれて亡くなっているのが発見されました。あなたには、心当たりがありますか」
宇津木は目を見開いた。
「銃? いいえ、何も知りません。僕はただ、車を貸しただけで……」
「車を貸した? どういうことですか」
「SNSで、自分の代わりにK市内でレンタカーを借りて、指定の場所で引き渡して欲しいというバイト募集を見たんです。その人とDMで少しやり取りをして、僕はレンタカーを借りて、その人に引き渡しました。その時に三万円をバイト代として貰いました」
「それはいつのことですか」
「えっと、最初にDMをしたのは、十月五日日曜日です」
「あなたがDMをしたアカウントを見せてください」
宇津木はバッグからスマートフォンを取り出し、少し操作して神田に見せた。
アカウントは初期アイコンで、ユーザー名は『yamauchi』となっている。投稿は一つもない。フォロー・フォロワーはゼロだ。雛内がスマホ画面を写真に撮った。
「その人について詳しく教えてください。何と名乗っていたのですか」
「山内と名乗っていました。男性です。四十代前半くらいに見えました」
神田と雛内は顔を見合わせた。もしかしたらこの男は、今回の殺人に直接的には関わっていないのかもしれない──そのような考えが頭に浮かんだ。雛内は神田に書類を渡した。神田は書類を受け取り、数枚めくってカラーの写真が貼り付けられたページを出した。
「わかりました。これからあなたに、いくつかの人の写真を見せます。思い当たる面立ちがあれば、教えてください」
宇津木はうなずいた。
「これは?」
神田は最初に八雲 淳の顔写真を指さした。八雲が刑務所に収監された時に撮影された写真だ。宇津木は首を横に振った。
「では、これは?」
次に、神田は今回の事件で殺された“名無し”の顔写真を指さした。まだ身元がわからないので、生きている時の写真は見つけられなかった。よって、鑑識によって撮影された血まみれの顔を見せるしかない。宇津木はそのグロテスクさに顔をゆがめつつ、首を横に振った。
「あなたはどのような仕事をしていらっしゃるのか、話していただいてもいいですか?」
「まあ、色々です。高校を卒業して一人暮らしを始めて、今はウーバーやったり、夜中の飲食チェーン店で働いたりしてます」
「わかりました。これで終わりです。ご協力ありがとうございました。またご連絡を差し上げることがあるかもしれないので、連絡がつくようにしておいてください」
宇津木は軽くうなずいた。
神田と雛内はパトカーで宇津木をN市のアパートまで送り届けた。宇津木はパトカーを降りて、玄関扉の鍵を開け、後ろ手で閉めた。
「宇津木が犯人でしょうか」
パトカーの運転席でハンドルを握りながら、雛内が言った。
「さあ、どうだろうな……、違うんじゃないか。もし宇津木が“名無し”を殺したのなら、レンタカーの情報をもとに、自分に捜査の手が及ぶことぐらいわかっていたはずだ。
犯人は──八雲と“名無し”を殺したのが、同じ奴であればの話だが──きっと何か、目的がある。通り魔的な犯行ではなく、周到に準備されている。
八雲と“名無し”には、なにか共通点がある。復讐なのかトラブルなのか、口封じなのかわからないが、犯人には二人を殺すことに意味があるんだ」
そして、殺人事件はこれだけでは終わらないかもしれない──そんな考えが神田の頭に浮かんだが、口には出さなかった。
走っていくパトカーのフロントガラスに、ぽつぽつと雨粒がつき始めた。しかし雨雲はなく、秋の空は高く澄んでいる。
「天泣ですね……」
ハンドルを握る雛内がつぶやいた。神田は助手席から空を見上げる。万能なはずの天が、何を悲しんで泣くのだろう。神田にはその雨が、早世した母の無念の涙に思えた。
雨に打たれながら、しかし秋の優しい光を浴びながら、パトカーは走っていった。