三 執事
三 執事
壁城組瓦解の日から、二週間が過ぎた。テレビや新聞で壁城組の話題は次第に取り上げられなくなり、人々は日々の繁忙のうちに今回のことを忘れていったようだった。
玲華は神田が仕事に行っている間、ほとんど毎日出かけていた。特に図書館が好きなようで、貸出カードは作らずに、館内で本を読んでいた。神田が朝出かけた後、図書館が開館する午前九時頃にアパートを出て、午後五時頃にアパートに帰ってきて、神田が渡した合鍵で鍵を開ける。その後神田が午後六時頃に帰ってくるのだ。
玲華は十四歳で、本来なら中学校に通っている年齢だったが、玲華はそもそも学校というものに行ったことがないようだった。
「図書館って、本当にすごいよ。一生かかっても読みきれないくらい、沢山の本があるんだもん」
ある日、夕食を食べながら玲華は言った。
「学校には行ったことがないんだよね。どこで勉強していたの?」
神田が玲華に訊ねると、玲華は透明なコップに入った牛乳を飲み干して、答えた。
「そう、壁城組にいた時は、ほとんど外に出ることはなかったな。パパは仕事で忙しかったし。勉強とかご飯の準備はね、私の……」
その時、インターフォンが鳴った。神田は立ち上がり、玄関へと歩く。玄関扉のドアスコープを覗くと、スーツ姿の若い男が立っていた。訪問販売だろうか……?
静かに錠を回して扉を開けたその瞬間、男が外から強い力で扉を開け、神田の額に何かを突きつけた。
神田は動くことも、声を出すことすら敵わなかった。──男が神田の額に突きつけていたのは、拳銃だったのだ。
「お嬢様! 私です!」
男はそう叫んだ。
玲華が部屋から出てきて言った。
「ハシヅメ! 生きていたの……、拳銃を下ろして」
「この者は?」
男は神田の額に拳銃を突きつけたまま言った。
「あなたがいなくなった後、私はこの人に保護してもらっていたの。敵じゃない。だから、拳銃を下ろしなさい」
玲華がそう言うと、男は拳銃を下ろした。
「では、あなたがお嬢様を保護してくださっていたんですね。
私はあの日、お嬢様を隠し部屋に入れて、見つからないようにベッドを上に置いて隠しました。その後、組長逮捕の一報を受けてすぐお嬢様の部屋に向かいましたが、ベッドの下の隠し部屋はすでにもぬけの殻でした。あの隠し部屋は、ベッドの下にありますから、ベッドがどかせる外側からしか開けられません。
私は二週間、ずっとお嬢様の行方を探していました。しかし、昨晩、コンビニの駐車場で偶然お嬢様とあなたを見かけて、後を追ったのです」
男はそう言うと、銀色のフレームの眼鏡の真ん中を中指で押して直した。
確かに昨日の夜、神田と玲華はコンビニに行った。その時に男に見つかったのだろう。
「あなたは…… ?」
神田は男に訊ねた。すると、男は神田に視線を移し、左手を胸に当てて優雅にお辞儀して言った。
「申し遅れました。私は壁城組組員で、お嬢様専属の執事を務めております、橋爪 康太と申します」
「橋爪は、私が生まれる前は私のママに仕えていたの」
玲華が補足した。橋爪の顔に柔らかい笑みが浮かんだ。
「奥様はお嬢様を産んですぐに組を離れられましたからね。お嬢様は奥様のことを覚えていらっしゃらないでしょう。奥様が組をお離れになる時に、ご自分の代わりになってお嬢様を支えるようにと私を遣わしたのです。私が十九歳の時にお嬢様が生まれ、それ以降、ずっとおそばにつかせていただいています」
橋爪は背が高かった。神田の部下の雛内よりも更に高い。百九十センチ近くあるのではないだろうか。髪をジェルで固め、臙脂色のネクタイを締め黒いスーツを着こなしている。
「お嬢様に、お届け物がございます。一つは、スマートフォン。隠し部屋に置きっぱなしになっておりました」
橋爪はそう言い、玲華にビニール袋を渡した。ピンク色の手帳カバーがかけられたスマートフォンと、充電コードが入っている。
「それから、もう一つ。こちらは組長からの贈り物です」
橋爪はそう言うと、小さなアルミ製のトランクケースを玲華に渡した。
「お開けください」
玲華はトランクケースのロックを外し、開けた。
「これ……」
玲華が中から取り出した物は、ピンクゴールドのハンドガン(オートマチックピストル)だった。照明を受けて美しく輝いている。玲華の手には少し大きかったが、手によく馴染みそうな形をしていた。
「本当は組長が直接お渡ししたかったそうですが、今回このような事になってしまったので、私が代わりにお渡しするよう、申しつかりました」
玲華の目から涙が溢れた。ハンドガンを両手で持って、玲華は俯いた。涙がテーブルにぽたぽたと落ちた。
「あなたは警察官ですね。隠し部屋からお嬢様を見つけたのは、あなたですか?」
射抜くような鋭い瞳で神田を見て、橋爪は言った。きっと今朝、神田が県警本部に出勤した時に後を追ったのだろう。神田は頷き、今までの経緯を簡単に伝えた。
話すうちに橋爪の目から敵意が消えていき、納得した色が浮かんだ。
「なるほど、わかりました。今まで大変お世話になりました。──お嬢様、参りましょう。安全な隠れ家をご用意しています」
ここで玲華とは別れるのか──神田はそう思い、手元に目を落とした。それと同時に、これまで玲華と暮らした二週間が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
「あのね、橋爪、そのことなんだけど……私は、これからもおじさんと暮らしたいの」
神田は弾かれたように顔を上げた。まだ少し泣き腫らした目をしている玲華と目があった。
「あ、もちろん、おじさんが嫌じゃなければだけど……」
神田は微笑んで言った。
「もちろん、いいよ。──橋爪さんさえ良ければ、これからも一緒に暮らそうか」
二人のやりとりを黙って聞いていた橋爪は、ひとつため息をつくと、眼鏡越しの鋭い視線を神田に向けた。
「わかりました。お二人で暮らしていただいてかまいません。──しかし、本来ならばお嬢様を警察官の手に引き渡すなど、言語道断です。お嬢様の存在を他の誰にも話さないと約束してください」
神田は頷いた。