一
お読みいただきありがとうございます!
稚拙な文章ですが、少しでも面白いと思っていただけたらうれしいです。
一
銃声が聞こえる。警官による発砲なのか、あるいは組員が最後の抵抗として発砲しているのかはわからなかった。
今夜、一つの組織が、警察の手によって瓦解されようとしていた。
明治時代に結成された、百年以上の歴史をもつ日本最古の指定暴力団『壁城組』。
一時期は組員が三百人を超え、日本最大の規模を誇っていた。日本のみならず海外にも複数の拠点を持ち、裏社会を恣に操っていた。
しかし組同士の抗争で徐々に力を失い、現在所属している組員は三十人程度だろう、と警察は踏んでいた。
壁城組の長い歴史が、とうとう今日終わりを告げた。
精鋭の警察官による一斉突入で場は混乱を極め、銃声が絶えることはなかった。
『壁城組組長、壁城 信治逮捕!』
胸ポケットの無線がそう告げた。
コンクリートの壁に背中をつけ、神田は大きく息をついた。組長が無事逮捕されたなら、ひとまずの目的は達成されたといえるだろう。
着込んでいる防弾チョッキは重く、汗が溜まって不快だった。あたりに照明はなく真っ暗で、神田は手探りで胸ポケットから無線を取り出した。
左手で懐中電灯をかざしながら、右手で無線のボタンを一つ一つ押す。発信ボタンを押すと、十秒ほどで相手につながった。
「雛内、お前、いま、どこにいる」
神田は尋ねた。若い男の声が無線で答えた。
『さっき組長が見つかって、三班の連中が逮捕しました。私は敷地内に潜んでいる残党がいないか確認し終えたので、これから署に戻って、朝までマスコミ対応です』
雛内は神田の部下だった。
「そうか。俺は念の為、もう一度、敷地内全体をよく確認してから、一旦家に帰る。朝からの仕事は交代する」
了解です、と雛内は言った。神田は無線を切り、胸ポケットに戻すと、壁につけていた背中を起こした。
神田 裕杜は四十二歳。兵庫県警捜査一課所属の警部補であり、刑事歴は十九年になる。未だ妻帯していない。独身を貫き、規律を固く守って忍耐強く捜査に取り組む姿から「警察官職務執行法を嫁にしている」という冗談をよく言われていた。
懐中電灯を右手で持ち、神田はゆっくりと歩き始めた。辺りには発砲したあとの煙の匂いがかすかに漂っている。数時間前まで鳴り響いていた銃声もサイレンも、今は全く聞こえない。
静かだった。
いくつかの部屋を見終え、神田は次の部屋へと足を踏み入れた。トイレや風呂場、寝室などがある。この建物の内装は、組の事務所というより家のように見えた。壁城組の組長が暮らしていたのだろう。
(組長に、子供は居たんだろうか?)
事前に住民基本台帳を確認した際には、壁城組の組長である壁城 信治に子供はいなかった。しかし、戸籍のない隠し子がいる可能性もゼロではない。
部屋の照明のスイッチを見つけ、押し、見えてきた光景に神田は思わず立ち止まった。
八畳ほどの部屋で、シングルサイズのベッドの上には、ピンク色の羽毛布団がかけられている。枕のそばには、猫やウサギのぬいぐるみがいくつも、所狭しと並べられていた。
まるで、幼い少女が使っているような部屋だった。
(これは……壁城 信治の部屋じゃない)
部屋の様子を見るに、客室でもないだろう。妻か、娘か。やはり組長には血縁の家族がいたのだ。
壁にクローゼットがあることに気付き、神田はクローゼットを引き開けた。
下の段は引き出しになっており、ハンカチや小さめの靴下、女性用の下着が入っていた。上の段にはハンガーがあり、ワンピースやスカートがかけられている。数歩後ろに下がり、クローゼットの全体が映るようにして、神田はデジタルカメラのシャッターを切った。
そのとき、尻がベッドの柵にぶつかって、尻ポケットに入れていたボールペンが床に落ちた。さらに、後ろに下がるとき靴のかかとでボールペンを後ろに蹴ってしまい、ボールペンはベッドの下に転がり込んでいった。
神田はため息を吐いて床に膝をつき、ベッドの下を覗き込んで右腕をボールペンに伸ばした。
ボールペンをつかんだ右手が……、そのとき、何かに触れた。
金属の冷たく固い手触りで、細長く、指がかけられるように中央がくぼんでいる。
(引手だ……!)
確かに、床に引手がつけられている。この下に空間がある……!
神田はボールペンを落とさないよう防弾チョッキの内ポケットにしまうと、立ち上がり、ベッドに手をかけた。そのままずるずるとベッドを引きずると、フローリングの床に、引手が一つつけられた正方形のハッチが現れた。
よくできている、と神田は考えた。隠し扉の上にベッドを置けば隠し扉を隠せるし、引手も凹んでいるから、床は平面にしか見えない。ベッドの下を覗き込んだだけでは隠し扉の存在に気付かないだろう。
引手に触れる。引き開けると、人一人がやっと通れるほどのスペースができた。下へと降りるための梯子が見えた。
神田は唾を飲み、写真を撮ると、梯子を掴んだ。
降っていった先は、神田の頭が天井にぎりぎり触れるほどの狭い空間だった。天井には照明がついていて明るい。小さなソファがあり、そこに人が座っていた。
人が顔を上げた。その面立ちを見て、神田は人が少女であることに気がついた。艶やかな黒髪をツインテールにして、白いリボンがあしらわれた黒い長袖のワンピースを着ている。目が大きく、少しきつめの顔立ちをした、華やかな雰囲気の少女だった。
「おじさん、警察官?」
少女は尋ねてきた。小鳥のような声だった。
「君は……、誰だ?」
少女に向かって、神田は喉から声を絞り出した。
少女は目にかかった前髪を払って言った。
「壁城 玲華。壁城組総長、壁城 信治の一人娘」
*
神田は白色の自家用車の後部座席に玲華を乗せ、家に向かって暗い路地を走っていた。バックミラーを確認すると、玲華は窓の外の景色を見ている。
神田は、なぜ自分がこんなことをしているのか、全く理解が及ばなかった。手汗をかいていて、ステアリングに汗がついた。
神田は考えた。
(誘拐か……)
しかも、壁城組の組長の一人娘を。この少女は、壁城組の家督を継ぐ、いわゆる総領娘なのだろう。
(これから、どうする?)
神田は自問した。親元に返そうにも、肝心の父親は先ほど逮捕されたばかりだ。しかし児童相談所に相談するのも気が引けた。
悩みながら、神田は運転を続けた。
車がアパートの駐車場に駐まったのは、午前一時を過ぎた頃だった。二階建てで、各階に三室、全部で六室ある小さなアパートの、二階の真ん中の部屋に神田は住んでいた。
「ついたよ」
声をかけると、玲華は車のドアを開け、神田についてきた。
神田はバッグの中から部屋の鍵を見つけ、錠に差し込み、扉を引き開けた。
「ここがおじさんの家?」
玲華が尋ねてきた。『おじさん』とは多分、自分のことを言っているのだろう。そう考え、神田は頷いた。
神田は靴を二足しか持っていない。扉を開けてすぐ右手にある質素な靴箱には、新たに玲華の靴を入れるだけの充分なスペースがあった。
玲華は神田に洗面所の場所を聞き、手を洗うと、家中を探索して歩いた。神田の家は1Kで、右手にはキッチン、左手には浴室、洗面所、トイレがあり、まっすぐ進むと奥に、寝室にしている部屋が一つある。もともと一人で住むことを想定して作られているので、決して広くはない。
玲華は寝室に入り、辺りを見まわし、テレビ横からクッションを持ってきて尻の下に敷いて、膝を抱え込んで座った。
「ベッドがなくて、悪い。毛布は予備があるから、今日は床に毛布を敷いて、その上に寝てくれ。明日買いに行こう」
神田が言うと、玲華は頷いた。押し入れから毛布を二枚引っ張り出してきて、一枚を床に敷き、もう一枚をその上に乗せた。それから、バスタオルをくるくると巻いて枕がわりにすると、ふわぁっとあくびをして、二枚の毛布の間に挟まるようにして横になった。
誰かと同じ部屋で寝るなんて、いつ以来だろうと神田は思った。自分と同じく警察官をしていた父や、歳の離れた二人の姉と一緒に寝たことはない。警察学校にいた半年間は寮で暮らしていたから、それがおそらく唯一他人と同じ部屋で寝ていた期間だろう。
四歳で母を失ってから、三十八年……。
もはや母の面影はおぼろになり、写真の中で笑う母を見ても、その声を思い出すことはできない。
母はさぞかし無念だったろう。幼い子供たちが大人になる姿を見届けられず、思い描いていた未来を病に奪われて息を引き取るのは。
母が死んだ時、神田は泣いた。母の死そのものを悲しんだのではない。母が突然自分の前から消え、何度呼んでも現れなくなったとき、その恐ろしさのあまり泣いたのだ。
皆、自分では思いもよらないような環境に生を享けて、ひとつふたつは人生に未練を残して死んでいく。
神田は既に寝息を立てている玲華の、小さな背中を見た。
それからため息を吐いて、目を閉じた。身体は疲れきっていたが、眠りはなかなか訪れてくれなかった。
*
スマートフォンのアラームで神田は目を覚ました。午前五時。身をベッドから起こすのと同時に、数時間前のさまざまな出来事が記憶として頭の中に流れ込んできた。玲華はまだ寝ている。これまで一人で暮らしていた頃は、朝食は食べたり食べなかったりだったが、今は玲華がいるから、朝食を食べさせなくてはならない。そう思って、神田は立ち上がった。
冷凍庫に食パンを冷凍しておいたものがあったので、二枚取り出し、オーブントースターに乗せた。やかんに水を入れて火にかけ、棚からインスタントコーヒーの缶を取り、粉を二匙ずつカップに入れた。冷蔵庫から無塩バターを見つけた。少し古かったが、気にせずに温まった食パンに塗り、さらに砂糖をまぶした。その頃になってやかんの湯が沸く。玲華がコーヒーを飲めるのか神田は知らなかったが、とりあえず二つのカップに湯を注いだ。
(今夜は、食料を買ってこないとな)
近くのスーパーに行って、とりあえず冷蔵庫の中を満たすだけの食品を買い込む。それから、布団も買いに行かないといけない。
自慢ではないが、神田は料理が得意だった。料理だけではなく、家事ならば一通り何でもできる。家のことには全く無頓着だった父に代わって、二人の姉たちは家事をしてくれたが、神田が中学生の時に二人とも家を出て、それ以降、神田は一人で食事を作り、洗濯や掃除をするようになったからだ。
しかし、料理はできるが、日々の仕事に追われて、家でゆっくり食事を作って食べることなど、ここ何年も無かった。
でも、どこか嬉しかった。人に食事を作って、振舞えるということが。玲華という存在がいきなり手の中に飛び込んできたことで、歯車が噛み合い、自分の生活が動き出したようだった。
玲華が起きてきた。
「おはよう」
神田から声をかけた。玲華は驚いたような表情で机の上の朝食に目を落とし、それから神田を見上げた。くしゃっとした笑顔を浮かべて、玲華は言った。
「おはよう」
小さなテーブルを囲んで、二人は食事をとった。焼きたての食パンの匂い、コーヒーの薫り。それに釣られるように、世界が今日も目を醒ましていく。
「俺は今日、午後六時まで仕事だ。その後一緒に、必要なものを買いに行こう」
玲華は頷いた。
「それまで、待ってるね」
朝食を食べ終えた神田は、立ち上がり食器を流しに置くと、歯をみがいて鞄を用意した。
「行ってきます」
そう言うと、玲華は微笑んで応えた。
「いってらっしゃい」
刑事とヤクザの総領娘の奇妙な同棲生活は、こうして始まったのである。