02 知らなければならないと
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
世界には三つの大陸が存在した。
北東にラスカルト、北西にリル・ウェン、南にファランシアというのがそれぞれの名である。
ラスカルトの東には無限の砂漠が、リル・ウェンの北には霧立ちこめる大森林が、ファランシアの南には天頂の見えぬ山脈が、それぞれ人間の行く手を阻み、大陸の間を占める海の向こうもまた、どこまでも続いてその果てを見せない。
その神秘を追おうとする冒険家や魔術師もいたが、それはごくごく稀な存在だった。
世界にどんな不思議が隠されていようと、人々が生きるのは日常。
仕事をし、金を稼ぎ、飯を食って、眠る。恋をし、家族を愛し、友と語り合って、生きる。
吟遊詩人であれば旅をし、歌を歌って生きる。
それがクラーナの生活だった。
ファランシア大陸の東は大砂漠と言われる不毛の地だが、西を占めるビナレス地方だけでも十二分に広く、生涯を歩き続けても飽きることはないだろう。詩人はそうして生きていくつもりだった。
彼は詩人だった父親の才能を受け継いで、物心ついたときから可愛らしい声で歌を歌っては母親を喜ばせた。
親は親であるから、我が子はひょっとして天才かもしれない、などと思ったかもしれないが、世間の目は厳しいものだ。
クラーナが本当に優れた歌い手であると周囲が認めたのは、久しぶりに帰ってきた父の弦楽器に合わせて町の酒場で歌声を披露した十二歳の頃であった。
父は喜んで息子に自分が知る限りの歌と、使い古した彼の弦楽器を与え、しばらくは流浪の生活も忘れて家族水入らずの時間を過ごした。
そうなれば、いずれ少年が父とともに旅に出て歌う生活をしたいと思うのは自然な成り行きとも言えた。しかし父は、自分が好き勝手に放浪をしている以上、妻から息子を奪うことはできないと考えたようで、決して息子を旅路に伴うことはしなかった。
その代わり少年は、親との旅ではなく、ひとりの吟遊詩人として各地を巡ることを真剣に考え出した。母は夫の考えとは裏腹に、息子の独立を後押しした。
母は、クラーナに告げた。
自分が愛したのはひとつところに落ち着いたりしない父さんで、お前はその息子なのだから、いつか出て行くことは判っていたと。そして、父さんは各地を歩いていても妻と子供のことを愛してくれているから、その息子もきっと母を忘れたりしないと、判っているからと。
そのときのクラーナには、母の深い愛情はあまり理解できなかった。ただ、反対をされなかったので単純に喜び、手紙を送る約束をして、目的もなく故郷をあとにした。
それは五年近く前だろうか。
はじめの頃は、いくら歌が得手であっても「旅の吟遊詩人」の稼ぎ方を知らず、いろいろと苦労をした。街角の客でも酒場の客でも、聞かせて喜ばれる歌、受ける歌の選び方が判らず、喉が痛くなるほど歌ったのに申し訳程度の銀貨しかもらえなかった日もあった。
自信を失いかけたこともあったけれど、一度当たり籤を引き当てたときはぐんと実入りがよくなり、次第にコツを掴んでいった。
歌ったあとに見知らぬご婦人が寄ってきて彼を一晩買おうとしたときは、最初は仰天したものだ。だが彼は決して潔癖ではなかったし、何にも増して若かった。役得とばかりにその「仕事」をも楽しむようになり、選り好みさえするようになるまで、大して時間はかからない。
こうして、何でもできる若い時期に望むことをしながら人生の春を謳歌していた彼は、実に幸運だったと言えるだろう。
彼は毎日、笑っていた。楽しかった。充実していた。
それはまるで〈名なき運命の女神〉が、その後の苦労と相殺をしてやろうとでも考えていたかのように。
リ・ガン。
六十年に一度、守りの石たる翡翠を目覚めさせて大陸に淀む穢れを払い、また眠らせる役割を持つ、人ならぬ存在。
初めてその言葉が頭に浮かんだ朝は、別の詩人の歌でも聞いたのだったろうかと思った。
そんな伝承は彼の知識にはなく、詳細を思い出そうとすると、何だかむずむずした。何も思い出せない。その前夜にはそんなに酒を飲んだつもりでもなかったが、記憶がはっきりしなかった。
だが知りたいと思った。いや、知らなければならないと、そんなふうに。
その思いは強迫的なまでに彼を押しつぶしたが、特に不思議なことだとは思わなかった。珍しい話を詳しく知りたいと思う、詩人であればごく自然で、当然のことだ。
だから彼が困ったのは、昨夜の酒場を再訪して尋ねてみたところで、前日にいた詩人は彼ひとりであったことを言われ、そんな歌は誰も聞いていないと知らされたときである。
そう、それは〈変異〉の年がはじまる半年近く前のことであった。
リ・ガン。
〈鍵〉。
――翡翠の宮殿。
夢だったのだろうかとも考えた。眠りの神が芸神と飲み交わした夜には、創り手たちの夢にその黄金の酒がこぼれてくることがあるとされている。クラーナも、見た夢から創り出した歌曲のひとつふたつを持っていた。
だがずいぶんと具体的だった、と彼は思った。
それが夢であれば、まるで黄金酒の一滴ではなく杯ごと、いや、瓶ごと与えられたかのような。
似た印象の夢を繰り返し見るようになって、はじめは少し、心配もした。「夢見がち」だというのは詩人の特性だが、夢想ばかりでは生きていけないのである。夢に真実味を覚え出すようになったら、それは芸神エレートではなく、むしろ狂精霊ヨールに憑かれたのだと判断すべきだ。
何かおかしな魔法に触れてしまったのではないかと疑い、魔術師協会の門を叩きもした。
しかし青年には何ら魔術的問題はないらしく、彼に魔力が発現したのだということにもならなかった。
翡翠色をした不思議な夢は、次第に間隔を短くして彼を訪れるようになる。
西のアーレイドにひとつ。
南のカーディルにひとつ。
そして、何処とも知れぬ場所にある、もうひとつ。
〈鍵〉を得ることでリ・ガンは力を発揮し、翡翠を目覚めさせることができる。
〈変異〉の年がきたれば、リ・ガンは〈鍵〉と三つの翡翠、それらを求めねばならない。それは六十年ごとに巡る、定めの輪。
物語が夢の内に完成された頃、彼は知る。
それがほかでもない、彼に与えられた役割なのだと。