大食漢カルロス1世の胃袋をつかんで、愛妻家な彼の可愛い奥さまをつとめます
いや、マジで。
すげぇ食うなぁ。この皇帝……。
生ガキ、塩漬けガキ、アンチョビ、鰻のパイ、山うずら、オリーブ、辛ソーセージ。
この時代の贅を競った、豪勢そのものな食事をすべてビールやワインで流し込む。
そりゃあ痛風になるに決まってるじゃん。という食事内容である。
そのうえ、皇帝は下アゴが、こうね。
ハプスブルク家らしく、ご立派でいらっしゃるから。
あのですね。かみ合わせがお悪うございまして。
食べるというより、飲み下すというか。
ええ、ものすごぉおおおおおおおおおく、胃に負担のかかっていそうなお食事のされ方です。
さて。
その、目の前でモリモリ食う皇帝とは。
彼こそが、スペイン王カルロス1世そのひとなのである。
祖父母から継いだカスティリヤとアラゴンなどのスペインを統べ。
ナポリ王国を含むイタリア、ネーデルラントの諸国を統べ。
神聖ローマ帝国を統べる世界の覇者。
ハプスブルク家が第3代神聖ローマ皇帝カール5世である。
その他、発見されて間もない新大陸や、フィリピンなども皇帝の支配下にあったというのだから、ものすごい。
ものすごい、というほかにない。
とはいっても。
実のところ、前世では世界史をきちんと勉強していなかったので、カール5世――ややこしいけど、スペイン王としてはカルロス1世――についてよく知らない。
偉大なる皇帝と呼ばれる彼が、何を成し遂げたのか。
どのような生涯を送ったのか。
まったくわからない。
いや、そりゃ名前くらいは知ってるよ。
大航海時代の立役者でしょ。
それくらいなら知ってる。
知ってるけどさ。
選択科目で世界史をなんとなーく選んだだけの、Fラン大学出身の凡日本人だったんですよ。
……前世?
前世だって?
と、眉をひそめてらっしゃる皆様。
ええ、ええ。そうですよね。
あたし、いや、わたくし。ポルトガル王女、イサベル・デ・ポルトガル・イ・アラゴンは。
なんと。
21世紀日本を生きたことのある、ニート女の記憶があったりする。
うん、ニート。
あのね、あのね。
だってしょうがないじゃん?
Fラン大学在学中にさ、過食症になっちゃったの。
なんでって。
そりゃ過激なダイエットがきっかけですよ。
当時おつきあいしていた、顔はめちゃくちゃイケメン、細マッチョのいい体、やたらと女慣れしてしぐさがスマートな先輩に「デブ」って言われちゃって。
つーか、おつきあいしてるって思ってたのは、あたしだけだったという事実もあったりしたんですけど。
あっはっは。
そんな女の敵クズ野郎に惚れてしまったことで、あたしったらバカだから、痩せなくちゃ強迫観念につかまっちゃってさ。
いつのまにか爆食して吐いて、の繰り返し。
まあ、そんなことしてたら当然、心も体も壊すわけですよ。
大学はなんとか卒業したものの、就職なんてできなかった。
ずーっとアパートにこもって、ちょっと元気なときに、はいつくばって外に出て、どうにか病院通って。
あっ。
生活費ですか?
その点は、今世も前世もめぐまれていまして。
両親がせっせと送金してくれていました。
前世のおとうさん、おかあさん、親不孝な娘でごめんなさい。
そんなわけで。
欧州一の美貌とほめたたえられた、カルロスさまのご尊父フィリップ美公――自称カスティリヤ王としてはフェリペ1世。
精神が正常であったころは、神秘的な美しさでフィリップ美公を夢中にさせたこともあった、カルロスさまのご母堂フアナさま――ちなみに今世のあたしの伯母さまである。
うるわしきご両親の、どちらの美しさも引き継がれなかったカルロスさまだけれど。
でも美しさなら、あたしが持ってるし、いいかなって。
えへ。
イケメンごみカス男には、前世でさんざん懲りたしね。
むしろカルロスさまが、ご尊父フィリップ美公みたいじゃなくて、マジでよかった。
「カルロスさま、カルロスさま」
ちょうど目の前で生ガキをつるん、と飲み込んだ夫の名を呼ぶと、カルロスさまはきょとん、とつぶらな目を丸くしてこちらを見た。
「先日、貿易船がなにやら、新たな香辛料を持ち込んだとうかがいました」
「うむ」
カルロスさまは口のはしから垂れた、カキの汁を手でぬぐう。
それからちっちゃい男の子みたいな、愛らしいしぐさで首をかしげた。
「きみの御父上、ポルトガル先王のマヌエル殿がインド総督としたヴァスコ・ダ・ガマだったか? 彼がポルトガルに胡椒を大量にもたらしたろう。であるからして、我がスペインも負けてはいられぬな、と」
カルロスさまのふくふくとした手が、新たな生ガキへとのびる。
これはまずい。
「はい。わたくし達のお祖母さま、カスティリヤ先王イザベルさまがジェノヴァ人の船乗り、コロンブスを取り立て。そしてその彼が、我らがスペインのため、新たな航路を発見しましたでしょ」
カルロスさまの瞳を見つめながら、手をそっと取る。
するとカルロスさまは、あたしの手を情熱的な手つきで、スリスリなで返してくれた。
やだー、あたしったら、愛されてる!
もうカルロスさま、大好きっ!
「ですから、父マヌエルもまた、我らがスペインに負けじとガマに航路を開拓させたのだそうですわ」
あたしの生まれる前年に、ガマがインド航路航海に出たって、今世のおとうさまが生前、言ってたなぁ。
「そうだったな」
カルロスさまはあたしの手をにぎにぎしながら、こんどは反対側へと首をかしげた。
「彼のおかげで、我が領港アントウェルペンが香辛料貿易で栄えることができた」
カルロスさまの、ご機嫌そうなニッコニコ顔。
そらそうよね。
香辛料という莫大な利益をあげる貿易。
それをこれまでずっと、ヴェネツィアが独占していたのが、ポルトガルのリスボアを経由するとはいえ、カルロスさまの領地へうつったのだもの。
スペインとポルトガル、ウッハウハよね。
……大国の栄光の影に隠れて、アステカ帝国やインカ帝国の征服、インディオの大虐殺とかアフリカの黒人奴隷問題とか、あったような気がするけど。
カトリック両王の先王治世でもそうだったけど。
カルロスさまのご威光は、遠く離れた新天地で君主ヅラする総督には届かないのよね……。
カルロスさまご自身は、もんのすごくストイックで敬虔な、慈悲深いカトリック教徒でいらっしゃるのに。
政治ってむずかしーわー。
Fラン大学をようやく卒業できただけのバカ女には、荷が重いわー。
「しかしイザベル。きみはやはり賢い女だな」
えっ。
あたし、むしろバカなんですけど?
「美しく、賢く。ローマ皇妃かつスペイン王妃として、きみほどふさわしい女はおるまい」
いやいやいやいや。
それはないぞ!
マジでないぞ!
まあ、美しいってのは合ってるけどね?
今世のおとうさまとおかあさまに感謝だけどね?
「もったいなきお言葉にございます」
「謙遜するな。きみであればこそ、私の不在時にスペインを任せられるというものだ。宰相のガッティナラによく相談するとよい」
どっしぇええええええー!
無理ー!
マジで無理ー!
いや、この時代に女が政治を任せてもらえるのって、めっちゃくちゃ名誉なことはわかってるよ?
わかってるけどさぁ。
「まぁ。カルロスさまったら、買い被りすぎですわ」
おそろしくなって、あたしはカルロスさまの手をぎゅっとにぎりしめた。
「それに、わたくし、カルロスさまといっときでも離れるだなんて、とてもとても……」
よよよ、と泣き真似をしてみせると、カルロスさまはあわてて立ち上がった。
「おお! イザベル!」
カルロスさまに抱きしめられ、ぷよぷよと肉感的であたたかなカルロスさまのおっぱいに、あたしの顔が埋まる。
あー、カルロスさまのおっぱい、やわらかいー。
気持ちいいー。
「私もきみと離れるのは、とてもつらい」
あたしの頭の上に、カルロスさまの、ちょっと舌ったらずな声が降り注ぐ。
「しかし、マドリードに捕えたフランス王フランソワを送り出して間もない。彼には祖母マリーの地、ブルゴーニュを我がハプスブルク家へと返してもらわねば」
ああ、フランソワ1世ね。
なんかこう、むかーし、勉強したような。
レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンになった王さまじゃなかったっけ?
ていうか、マドリードでのフランス王の捕虜生活……マドリード、マドリード……なんかあった気がするけど。
あー!
わっかんないなー!
前世の学生時代に、ぜんっぜん勉強してこなかったことだったり、記憶力の悪さをうらめしく思いながら、カルロスさまのあったかい背中に手を回す。
「私もきみと睦み合っていたいのだが」
カルロスさまがあたしを抱きしめる腕に力をこめた。
ていうか、む、睦み合ってって。
やだぁー!
カルロスさまったら積極的!
大好きっ!
「フランス王フランソワだけでなく、対フランスのための同盟を結んだイングランド王ヘンリーもまた、信頼のおけぬ男であり。キリスト教においては、ルターによるプロテスタント布教が、まさしく憂慮すべきことだ。
そのため私はローマ皇帝として、どうしても各地を旅して回らねばならぬのだ」
イングランド王ヘンリー8世!
うわー。
無理やり離婚したくせ、そのあとに迎えたアン・ブーリンを冤罪で処刑しやがったりした、最低最悪の好色残虐王じゃんか。
いやもう、敬虔なカトリック信者で。
彼岸のローマ教皇に対し、此岸のローマ皇帝としてキリスト教の護り手を自認するカルロスさま。
そらもう、ヘンリー8世とは、めっちゃくちゃ相性悪いよね。
ああ、そっか。
今世のカタリナ叔母さまって、そういえばヘンリー8世の1番目の奥さんだった。
まだ離縁されていないけど。
うわー。
そっか、そっか……。
カルロスさまったら、ホントのホントに、大変な時代を生きて、大国の君主として、大変なおつとめをなさっているんだ。
そんなの、ストレスたまるに決まってるよね。
暴飲暴食にもなるよね。
わかるよ、わかる。
だって前世のあたしだって、食については、ぜんぜんエラそうなこと言えない。
たぶん、前世で死んだのだって、暴飲暴食で心身弱りきっていたからなんじゃないかと思う。
でもね。
だからこそ。
「カルロスさまをひとり占めしたいなどと、とんでもないワガママを申し訳ございません。カルロスさまがあまりに愛しいからといって、度が過ぎました」
真摯にあやまり、カルロスさまの大きな体にぎゅっと抱き着く。
「おお、イザベル……」
カルロスさまはあたしの肩に手を置き、そっと身を離すと、うるんだ瞳であたしを見つめた。
「天にまします我らの神が、カルロスさまへ尊きお役目を任されたこと。存じております」
「ああ。教皇とともに、私は民を導いてゆかねばならぬ」
うんうん、そうだよね。
そういう時代だもん。
「ですから、その尊きお役目を担うカルロスさまには、世のため、民のため。今後も長く健やかであってくださらなくては」
「健やかに……」
カルロスさまは、あたしの言葉にちょっとだけ顔をしかめた。
暴飲暴食が体にあんまりよくないんじゃないかって、カルロスさまだって本当はわかっているのだ。
「カルロスさまのお側にいられるあいだは、わたくしがカルロスさまのお食事について、料理人に指示するご許可をいただけませんか?」
しりごみするカルロスさまに、ずいっと詰め寄る。
弟フェルナンドさまの禁欲的な食事と比べられたりして、不摂生を指摘されることを嫌うカルロスさま。
でもでも、あたしがカルロスさまに摂生してほしい理由は、フェルナンドさまを持ち上げてカルロスさまを揶揄するような、そんな厭らしいスペイン宮廷人と同じじゃない。
「先日届いたという香辛料をたっぷり使わせましょう」
にっこりと笑って、カルロスさまの手を取った。
「そうすれば、脂も塩も少量でおいしい食事になります。カルロスさまのお好みの味を、きっとわたくしが考案いたします」
26歳という若さで、すでに痛風の気があるカルロスさま。
おねがいだから、体を大事にしてほしい。
「これからもカルロスさまには、偉大なる君主として、ご活躍いただかなくては、民が困ります」
カルロスさまは難色を示したままだ。
「わたくしも」
あたしは、カルロスさまの手を包み込んだまま、どくどくと脈打つ心臓へと導いた。
「愛しい夫のあなたが、いつまでも側にいてくださらなくては――」
そのさきの言葉は、言わなくてよかったみたい。
カルロスさまは、あたしに情熱的なキスをくれて。
それからあたし達夫婦は、王と王妃としてのつとめを果たしました、とさ。
あたし、いや、わたくし。ポルトガル王女、イサベル・デ・ポルトガル・イ・アラゴンは。
大食漢カルロス1世の胃袋をつかんで、愛妻家な彼の可愛い奥さまをつとめ、夫婦そろって幸せになることをここに宣誓します!
神さま。
カルロスさまとわたくしを、どうか見守ってください。
夫婦ふたりで、がんばるので!
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなれば。
◇主な参考文献
「カール五世 : 中世ヨーロッパ最後の栄光」:江村洋 著、東京書籍
固有名詞にさまざまな言語(のカタカナ読み)が混じり、言語の統一性がないことなど、史実に忠実でないことをお許しください。
◇ ◇ ◇ ◇
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
後日談に、同企画での投稿作品「旦那さまが大好きでたまらない奥さま方は、食べすぎる夫(兄)と食べなさすぎる夫(弟)に悩んでいるらしい(https://ncode.syosetu.com/n0500il/)」があります。
あわせてご覧いただけますと、幸いです。