11.かわいい子には旅も無理もさせるな①
いつものレッスンが終わったリリアンは、呼ばれるまま王妃の元へ向かった。こっちへいらっしゃい、と手招きされたので椅子に腰掛ける。
「お茶はいる?」
「さきほど頂いたばかりですので」
リリアンがそう言えば、王妃は「それもそうね」と肩を竦めた。さっきまでお茶会に参加していたので、リリアンのお腹はたぽたぽだ。
聞けば、王妃シエラは公務の合間の休憩中なのだそうだ。お気に入りの場所でお茶をする彼女は、リリアンのレッスンが丁度終わったから声を掛けたと言うが、心なしか顔色が悪く見える。どんなに公務が忙しくとも疲れを表に出さない人のはずだが。
「シエラ様、どうかなさいました? なんだか、ずいぶんお疲れのようですが……」
リリアンはそう言って眉を下げる。シエラは、慌てたように視線を逸らした。
「ああ、いえ、ちょっとね。なんでもないのよ」
「ですが」
あまりに心配そうにするリリアンにシエラは観念して向き直った。
「実はね、ティーメル牛があんまりにも美味しいものだから、連日ちょっと……食べすぎてしまって」
「まあ……」
リリアンは眉を下げた。
「確かに、あれはとっても美味しかったですから」
そうなのよ、とシエラは拳を握る。
「希少種、あれはすごいわね。赤身なのに柔らかくて、味が濃いのに脂が甘い。その後通常種も頂いたけれど、全くの別物だったわ」
「お兄様が言っていました。グレンリヒト様もマクスウェル様も、とても喜んで召し上がったのだと」
「ええ、そうなの。もう全員が夢中でがっついちゃって」
シエラは、その時の様子を思い返した。うまいうまい、と言ってすぐに出されたステーキ一枚を平げた夫と息子に笑って、一口自分も切り取った肉を頬張った。途端、くわっと目を見開く。草原の風のような爽やかな風味が駆け抜けたかと思うと、次に感じたのは重厚な肉の旨味。それを感じている間に、皿の上は空になっていた。年齢を重ねたこともあって、ステーキを食べる量が年々減っていたというのに、あれほど分厚かった肉の塊は忽然と姿を消していた。
だが、確かに口内にはその片鱗が残っている。呆然としてそれを感じているシエラの鼻を、香ばしい匂いが刺激した。その匂いの元を探ると、発生源は新たに運ばれてきた夫と息子の追加のステーキだった。
それを確認したシエラの喉がごくりと鳴った。弾力がありながらも、歯切れの良いあつあつのそれを、一口含む。するとすぐに顔を綻ばせる夫の姿が、羨ましくて仕方がない。それでシエラは従者に追加のステーキを焼くよう言いつけたのだった。
結局その日シエラは、ステーキばかり三枚ほど食べて、それで満腹になってしまった。だが、それでもまだ口の中はその味を求めてやまない。それで食べすぎて、苦しそうに腹をさする息子を笑えなかった。その気持ちは痛いほど良く理解できたからだ。
その味を、香りを自然と思い出して、口の中が潤むのが分かった。それではっと意識を取り戻して、お茶を一口含む。そうしないとあの味を求めそうになるから。
シエラはそれを悟られないよう、涼しい顔を装った。
「それでね、とても美味しく頂いたのだけれど、コルセットがきつくって」
そのシエラの告白に、リリアンはまあ、と溢した。
「……実は、わたくしもなのです」
えっ、とシエラはリリアンに向く。
「まあ、リリアンも?」
「ええ。恥ずかしながら。お父様が嬉しそうにしていたので、つい……」
なるほど、とシエラは思った。あれは本当に美味しかったから、美食に慣れたリリアンも笑顔で頬張ったに違いない。そういうリリアンの姿こそが何よりの好物であるあの男は、なんならそれを肴に肉を食らったことだろう。そんなアルベルトの笑顔がなんだか苦手なシエラはすぐにそれを打ち消して、可愛い姪の姿だけを思い浮かべた。
だが、そのリリアンの姿にふと笑んで、力が抜けた時だった。お腹の力も抜けて、ぎゅっと締めたコルセットがシエラを締め付ける。う、と出そうになる声を堪えて、それを表情に出すのも抑えて、シエラは視線を落とした。気を紛らわせる為にお茶を飲もうかと思ったけれど、その一口すら含みたくないほど、正直お腹が苦しい。
シエラはそっと鳩尾辺りに手を添えた。
「無い方が絶対良いわよねぇ。でもこれがないと綺麗なラインが出ないし」
「そうですね。それに、皆さんが着ていますし」
「他人が着ているものを、着ない。……社交界では致命的ね」
リリアンも苦笑して頷いた。
「着ないといけないけれど、苦しくて、しかも暑い。淑女って大変ですのね」
「ふふ。そうねぇ」
滅多にない、リリアンのちょっとした冗談を笑って、シエラは結局お茶を一口含んだ。そうして飲み込んで、ちょっぴり後悔した。
視線を姪に向ければ、彼女もシエラと同じようにお茶を飲んだところだった。飲んで、それで眉をほんの少し寄せた。それに思わず笑みが溢れる。シエラの笑い声に気が付いたリリアンがこちらを見て、はにかんだ。一連の動作を見られており、シエラにそれを見られ笑われたと分かったのだろう。
頰を染めて恥ずかしそうにするリリアンに、シエラは再び笑い声を上げた。
……というのを、定期報告でシルヴィアから聞かされたアルベルトは衝撃を受けていた。
「そ、そんな……」
ぶるぶるとアルベルトの指が震える。
「冗談を言って笑うリリアン! 見たかった!!」
「言いたい事はそれだけですか」
「それだけなはずがないだろう!?」
冷たいシルヴィアの言葉にすぐさま返して、アルベルトは愕然とした表情で言い募る。
「リリアンが苦しがっているのに、コルセットは必要なのか?」
シルヴィアは珍しく困惑を隠さなかった。表情にそれが出るのは珍しい。蔑みの表情なんかは、頻繁に出るが。
「ですが、世の中のドレスは、それが前提となった作りです」
「なら、その前提を無くせばいい」
「無くす?」
「コルセットが必要な世の中が間違っているという事だろう?」
だろう、と言われても。シルヴィアは言葉に詰まった。
確かに無ければいいかもしれないが、そもそも今の世の中にあるドレスは、コルセットを着用することを前提とした作りになっている。どんなに美しいボディラインを持った女性でも、コルセットは不可欠だ。ウエストが入ればドレスは着られるだろうが、胸はそうはいかない。コルセットという支えが必要なのだ。
「それは、そう……かもしれませんが。コルセットで締めなければ、ウエストが引き締まりません。それに胸も下から支えることによって美しく見えるのです。それを無くす、というのは、とても……」
少なくとも、シルヴィアには考えられない事だった。どうやってそれを無くして、成立させるのか。まったく想像できない。
だがやはり、それでアルベルトは納得しなかった。
「だがそれでリリアンが苦しむのは看過できん」
「普段はさほど苦しまれてはいませんよ。ただここ数日、その、食べすぎているようで」
どういう事だと問えば、シルヴィアは「ティーメル牛が美味しかったようです」と答えた。アルベルトは目を見開く。
「なんて事だ……私のせいじゃないか!」
叫んで頭を抱える姿はまるで、追い詰められた犯罪者のようだった。苦しげな表情に血の気の引いた顔。実際苦しげなのはリリアン様の方なのだけれど、とシルヴィアは内心思ったりした。
「それ程お気に召したということでしょう」
「可哀想に。美味しいものをたくさん食べたばっかりに!」
ぐぬぬ、とアルベルトは唸る。
「これはやはり、コルセット無しで着られるドレスが必要だ」
「では、職人を呼び寄せますか」
そう口を挟んだのはベンジャミンだ。書類を片付ける傍らで控えていたのを、手を止めそう言った。アルベルトの思い付きで急な予定変更はいつもの事、だから尚更側から離れられないのだが、この日もそれがあったのだから、時間のある時にできる事を進めておかないと、いつまで経っても仕事が片付かない。それを、片付ける気のないアルベルトの前に差し出したところで無意味だった。せめてアルベルトの気が向いた時に迅速に出せるよう、書類の整理だけはやっていたのだ。
もちろんそんな事どうでもいいアルベルトは、ベンジャミンを一瞥することなく首を横に振る。
「一刻も早く取り掛からねば。待っている時間はない」
「はあ……」
じゃあどうするのだろう、とベンジャミンとシルヴィアは目を合わせる。もしや自分で考案するのだろうかと、そう思っていると、急にがばりとアルベルトが立ち上がった。二人はアルベルトがそうだ、と呟いたのを聞き逃さなかった。
アルベルトはベンジャミンを振り返る。
「出掛けるぞ!」
馬車を出せ、とそう続けるアルベルトはいつにも増して真剣な表情だ。だが、ドレスを新調するという、この程度の事でこんな顔しないで欲しい。無駄にキリッとしていて、決意が表情に表れている。
頼むから落ち着いて欲しいとベンジャミンは訴えた。いつもやるが、まあこれが意味がない。現にアルベルトはもういそいそと扉へ向かっているのだ。だが、場合によっては手順通りでなければ不利益となる場合もある。
「お待ち下さい、せめて先触れを出しませんと」
ベンジャミンはそう言ったが、ドアノブに手を掛けたアルベルトはそのままの姿勢で呟く。
「出しても無駄だ。拒否されるからこのまま行く」
その言葉にろくでもない予感を覚えて、ベンジャミンは眉を寄せた。
「そういうわけにはいきません。一体どちらへ向かわれるのですか」
「シュナイダー君のところだ」
意外な名前が出て硬直するベンジャミンを置き去りに、アルベルトは足早に部屋を出て行った。




