第五十四話 ジュノ編 ~狼、再び~
気が付くと、リューザは岸に上半身を寝かせて下半身を水中に着けるような形で俯せに倒れていた。起き上がろうとした瞬間、突然胸が痛みだし流されている間に飲み込んだ汚水でリューザは激しくせき込む。
しかし、なんとか残った体力でリューザは立ち上がるのだった。吹き付ける風が冷え切ったリューザの身体を刃物で切るかのように痛めつける。
今自分が、どちら側の岸にいるのか判然とせずにいたが、目の前に広がる濃く禍々しい木々の様子を見てリューザは直ぐに対岸に自分がいるのだということを確信した。どうやら、運よく辿り着くことができたようだ。
森の中は木々が折り重なっているせいか、ブレダと雨を凌いでいたような大木が無数に繁茂しており、そこを上手く伝っていけばなんとか雨に濡れずに進んでいくことができる。
白いシャツにしみ込んだ水分を絞りながら奥の方へと歩いていく。
「ナハトさん! クレル! イールドさん! 誰かいますか!」
リューザは必死で討伐隊の覚えのある者の名前を森の中に呼びかける。
しかし、一向に反応はない。当然と言えば当然だろう、この広い密林でいくらリューザが大声を出そうともそう簡単にその声は届かない。しかも、その声はすぐにこの騒がしい雨音によってかき消されてしまうのだ。
頭上から聞こえる雨音は本来聞こえてくるはずの音の情報を容赦なく遮る。
そして、もう一度彼らの名前を呼んだ時、ふとリューザの後方から地面に落ちた湿気た木の皮を踏み鳴らす音が聞こえた。
「誰っ!?」
リューザは声を挙げながら振り返る。リューザの声を聞きつけて討伐隊の誰かが近くにまで来ているのだろうか。
しかし、目の前に現れたその影にリューザの期待は大きく裏切られることとなったのだ。黒い狼……あの姿を見るのは何度目になるだろうか。
流石のリューザも、もう狼との遭遇に驚くことはない。
目の前にいる一匹の狼を軽く睨みつける。穏和な性格を持つリューザにとって、こんな表情を作るのは慣れずぎこちのないものになってしまう。しかし、ただでさえ背丈が低いせいで侮られやすいリューザは、こうでもしないと覇気だけで根負けしてしまいそうになる。
リューザは大きく深呼吸をすると意を決して狼に向かって声を上げる。
「どうか話を聞いて下さい!」
これがリューザの決めたやり方だ。相手が言葉を介せるのにも拘らず、命を張る必要がどこにあるのだろうか。殺し合いよりも話し合い、打ち付けるものは命ではなく言葉だ。命がかけがえないのは人間だけではない狼にだって同じことが言えるのだ。リューザはこれまで生きてきた十六年間でそのような価値観が育まれていたのだ。
どんな相手であろうと真摯な態度をとれば分かり合える。
「ボクはあなたの敵ではありません! どうか、ボクに機会をください! 人間と狼、双方がこれ以上争わず犠牲を出さないで済む方法を――」
リューザが言い終わる前に狼が吠える。
「人間風情が何を言うかと思えば! 愚か者目! 死をもって後悔するがいい!」
狼は憤怒の表情を含めた声で唸り声をあげたのだ。
どうやら言葉の説得は難しそうだ。それならばと、リューザは背負った剣の柄に手をやる。村長ガストルに許されて貰い受けたはいいものの、その時はまた抜剣することになろうとは全く思いもしなかった。
すると、いつの間にやってきたのか森の奥から狼が二匹、三匹と次々に現れる。どうやら、群がって一気に片を付ける気らしい。
これでは分が悪い。今すぐ逃げるのが最善かもしれないが、リューザの足ではすぐに追いつかれてしまうのが落ちだろう。
その時、ふとリューザはあることを思い出す。
"魔術"
ニファより授けられたこの力、ここで使わずしていつ使うのだろうか。
『召喚獣の名を呼び祈ることで顕現する。その名は召喚者であるあんた自身が決めなさい』
ニファがリューザに言った言葉を思い出す。そして、リューザは再び大きく深呼吸をする。森の湿った草木や土壌の香りを纏った空気が肺の中に充満する。
天は相変わらず靉靉としており、森を薄暗くさせていて、それも相俟ってかリューザを憂鬱な気分にさせる。
狼たちが身を引いて飛び掛かる構えをとる。その瞬間。
「ボクの召喚獣アリオス、現れて!」
リューザは声高らかに叫んだ。すると、あまりにも唐突なことに驚いたのか狼たちは飛び掛かるタイミングを逃して大勢を崩す。
ついにリューザは自身で"魔術"を使用したのだ。
しかし、何かがおかしい。召喚獣が現れるどころか"魔術"が発動した気配すらないのだ。リューザは辺りを見回すも、それらしきものは全く見当たらない。
「そんなっ……!」
何が足りなかったのか、何か忘れていたのか。リューザは必死に思い出そうとするも、混乱してそれどころではなくなっている。
「はん! 驚かせおって! それでハッタリのつもりか、片腹痛い!」
そう言って狼はリューザを囲むように逃げ場をふさぎながら、ぎらぎらと目を光らせる。このままでは八方ふさがりだ。なんとか、打開策を見つけようにも頼みの綱である"魔術"が効果を発揮しなかった以上、万策尽きてしまったのだ。
絶体絶命かと思われたその時……。
「リューザ!」
突然リューザの名前が呼ばれた直後、黒い巨体が狼たちを蹴散らすようにして現れる。その巨体の正体は黒馬だ。筋骨隆々としており、起伏の激しさもお構いなしに圧倒的な機動力で逞しく地を蹴り上げて、一直線にリューザのもとへと向かってくる。
そして、そんな黒馬の背に乗っているのは橙色の髪を後ろに逆立てながら勇敢に狼の群れへと突っ込んでくる人物。
「ナハトさん!!」
リューザはその姿に驚きの声を上げる。
銀鎧を纏い、赤い羽織を向かい風にはためかせ、奔馬に騎乗して縦横無尽に駆け巡るその姿はまるで勇騎士のようだ。
思わず見とれるリューザに対してナハトは少し離れた位置から大声を上げる。
「リューザ! 俺の手を取れ!」
その声にリューザはハッとする。気が付けばナハトはリューザのすぐ目の前にまで迫っている。黒い駿馬を走らせたままナハトが手を伸ばす。
リューザも彼が伸ばしたその腕に、自身も手を伸ばし返す。あともう少しで触れるというところで、ナハトが横に上体を倒すようにしてリューザの上腕を捉える。そして、リューザの腕を片手で力一杯引き上げるので、リューザはなんとかナハトの後ろに着くようにして黒馬に跨る。
そのまま、黒馬は狼に付け入る隙を見せない神速で木々の根を飛び越えて、泥濘んだ土を踏みしめて隼の如く森を駆け抜けていく。景色が目まぐるしく変わっていくので、リューザは軽くめまいがしてくるが、振り落とされないように必死で前に跨るナハトの武装にへばりつく。
後ろを見ると死に物狂いで追いかけてくる狼たちが凶暴な顔を見せながら猛スピードで四肢を動かしている。一方の黒馬は全速力で走っているにも拘らずその顔は涼しげだ。
気が付けば、狼は遥か彼方へと消え去っているのだった。




