第9話 『Former Rain To Meet 』
僕は何も持たずさくらの席へ歩いていく。教室内なのになぜか遠い感じがする。今までの過去を辿るように。しかし、歩いても歩いても離れていく、そんな感じする。でもここで立ち止まったら過去へ引きずりこまれていく気がする。なんとしても未来へたどり着かなければならない。必死な思いで一歩づつ深い沼の中を懸命に進んでいく。
そして未来へたどり着いた。
さくらとの距離は一メートルほど。さくらは不思議そうに僕の方を見ている。「何か言わなければ……」かなり焦っていた。言葉が出てこない。息が続かない。身体がガチガチだ。額に汗が滲む。その時、
「…り……座る……?」
「えっ……?」よく聞こえなかった。かろうじて「座る?」という言葉は聞き取れた。座る? どこに? なんでさくらから声が聞こえた? さらに僕の緊張は高まる。
「隣、座っていいよ」
今度は確実に聞こえた。「隣に座ってもいいよ」と。さくらは隣の椅子、山門の椅子を自らの方へ移動した。気がついた時には僕は座っていた。周囲のクラスメイトは食事を取りに外へ出ている。教室の中はほとんど僕とさくらの二人だけだった。
結局僕からは何も声を掛けていなかった。
「どうしたの? 正午が来てくれるなんて」
まるで僕が来るのをずっと待っていたかのような口調だった。僕はようやくここで一言目を発した。
「久しぶりだねっ。こうやって話するの」
僕はいかにも冷静な口調のように発したが緊張しているのがバレバレだった。
「そうだね……いつだっけ? 最後にまともに話したの」
いつだろうか、僕は覚えてない。でたらめを並べるよりは正直に答えた方がいい。
「僕も曖昧だけど……いつだっけ? 半年くらい前?」
「違うよ……。私が傘に隠れた日……」
「えっ……?」
よく意味が分からなかった。傘に隠れた? 何かの比喩だろうか?
「ううん……なんでもない。ところでどうしたの?」
「えっ、あっ、うん……その……」
動揺を隠し切れない。口は動くものの喉の奥から空気が出てこない。言葉を発するのにこんなに苦労するのは始めてだった。
「落ち着いて、正午」
なぜか、凄く落ち着いた言葉だった。昔聞いたことがあるようなそんな感じがした。これで本題を持ち出すことができる。僕はようやく落ち着いた口調でさくらに話した。
「さくらはまだピアノやってるんだよね?」
「うん、やってるよ。今は、グリーグの「自作の歌曲によるピアノ曲第三番」を練習してるよ」
「グリーグかー。聞いたことはあるけど弾いたことはないな。どんな曲?」
「テンポを取るのが少し難しいかな?Andante とAllegretto Moderatoを上手く使いこなせば弾けるようになるかな?」
「そっか。でもさくらにとってはAndanteとかAllegrettoを使いこなすのは普通のことじゃない?」
いつのまにか昔みたいな普通の会話になっていた。今ならピアノの事だってなんだって話せる。さくらは続ける。
「私が求めるのは楽譜通りの曲じゃなく自分自身だけの音楽を演奏したいの……昔、正午に……」
楽譜通りじゃなくか……これで「乙女の祈り」の謎は解けた。さくらはわざとテンポを変え自分自身の曲を弾いてたんだ。
「そっか。さくららしいね」
「えっ……?」
一瞬さくらが驚いたように絶句した。どうしたのだろう?
「どうしたの?」
「…………なんでもない……よ……」
どうしたのだろう、でもこのままじゃ会話が続かない。本題に会話を移行することにした。なぜ指が動かなくなったのか?
「僕もね、さくらに追いつけ、追い越せみたいにピアノやってるんだ」
「知ってるよ。自己紹介の時に正午は言ってなかったけど私、正午のピアノコンクールの時見にいったんだよ」
緊張しすぎてまったく指が動かなくなった時だ。僕がコンクールに出たのは一度だけだ。
「見に来てたんだ。恥ずかしいな……でも全然指がいうこと聞かなくて……」
「でも、初めは誰だってそうだよ。私は何回も練習させられて本番が練習みたいな感じだったから……」
「でも、そのときも賞取ったんだよね、すごいよ。さくらは」
さくらは初めてのコンクール(小学校二年生の時)僕との遊びを禁じられてピアノ一色の生活を送っていた時があった。その時弾いていた曲は確か「モーツァルト再来」だったかな? No.はよくわからない。
「でも全然賞を取った感じがしなくて……賞を取って当たり前みたいに言われてたから……」
「その分プレッシャーだったんだよね。よく分かるよ。でも僕は全部独学だから絶対的なプレッシャーはなかったけど、その中で弾いて賞を取ったさくらはすごいと思うよ」
僕は正直に話した。その時にはもう、悟られていたのだろう。
「それで、指が動かなくなったんだ」
今の事も過去の事も含まれてそう言われた気がした。
「よく分かったね。昨日までは普通だったんだけど……今朝は動かなくなったんだ。あの時みたいに」
フランツ・リストの「超絶技巧練習曲」全十二曲をまるで自分が作ったかのように弾けるさくらはどんなアドバイスをしてくれるのだろか? 少しわくわくする。
「昨日変なもの食べた?」
「へっ?」
拍子抜けした声が誰もいなくなった教室に響く。
「正午のことだもん、どうせ面倒くさいからカップラーメンでも食べたんでしょ?」
くすっ、とさくらがからかうような口調で笑う。でもその声は優しかった。
「コホン。……確かに昨日はカップラーメンだったけど……ピアノって食べ物で変化するものなの? その前になんでカップラーメンってわかったの?」
「ピアノに食べ物はほとんど関係ないよ。なんでカップラーメンかわかった理由? 教えなーい」
「なんだよそれ! 教えろよー!」
「あと半年したら教えてあげるー」
意味がわからん。でも、こうやってさくらと会話できていた事を凄く嬉しく思う。さっきまで一歩踏み出すのに必死に努力したのがまるで嘘のようだ。結局さくらは指が動くようになるアドバイスはしてくれなかった。
僕らは結局、昼休みクラスメイトが戻ってくるギリギリまでさくらと会話した。昼食は結局取れなかったが昼食より大きな収穫だった。そして、
「また話に来ていいかな?」
「いつでもどうぞ」
そう言ってくれたのがとっても嬉しかった。