第二十話 僕は英雄になりたい
常夜の森を、レンは走っていた。
村を背にして、ニーナを――何もかもを置き去りに、ひた走っていた。
泣きながら走っていた。
『この村の異常さ……気にならないわけがないですよね?』
直前に、ニーナの母親が打ち明けてくれた話が、耳にこびりついて離れない。
『そもそもこの村にいる全員は、元は別の場所で暮らしていたんです。レンさんは聞いたこともないでしょうけど、カイリスという小国のそのまた辺境にある寒村です。そして代替わりしたご領主様に、年々なんだかんだと新しい税を課されて、私たちもついに耐えあぐねて、村ごと皆で逃げることにしたんです』
それは村ぐるみの立派な犯罪行為であり、ゆえに彼女は心苦しそうに告白した。
もちろん、レンにとっては同情して余りある話でしかなく、責める気持ちは微塵も起こらなかった。
『ですが、途中でご領主様の兵に見つかって、追い立てられて……。私たちは命からがら逃げて逃げて……。無我夢中で大きな穴――レンさんの仰った〈境界の裂け目〉に飛び込みました。着いた先が、この村のある場所でした。〈裂け目〉もすぐに塞がって、来た道も戻ることができなくなって、戸惑い、立ち往生する私たちの前に……化物が現れたのです』
その化物は、頭は大猿、胴は獅子、手足が虎で、尻尾の代わりに二本の蛇が生えているという。
そして、翼もないのに空を翔ける。
つまりはレンが目撃し、追いかけた結果、ニーナと出会えた要因ともなった、あの謎の深層種だ。
『その化物は、私たち全員に向かって言ったんです。ここは魔物の徘徊する異界だと。人の住むことのできる場所ではないと。だけど契約をすれば、その化物が私たちをあらゆる危険から守ってくれると。私たちが食べることのできる木の実も教えてくれるし、無事に生活を営めるよう協力を惜しまないと』
見知らぬ異界に迷い込み、途方に暮れているところにそんな提案をされて、突っぱねることのできる豪胆な人間が、果たしてどれだけいるだろうか?
自然、村人たちはその化物の言いなりに契約した。
『そして年に一人――若い娘を生贄として捧げることになったのです』
ニーナの母親は、とうとう涙ながらに懺悔した。
『日も昇らないこの異界で、本当に一年が経っているのかどうか、誰にもわかりません。それでも私たちは化物の言いなりに、既に二人を犠牲に差し出しました。そして、もうすぐ三人目を差し出す準備をしろと化物に言われております』
次々と打ち明けられる、衝撃の事実。
聞かされたレンは打ちのめされ、体は震え、頭は痺れたようにさせられた。
それでも、一つの悪い予感を覚えて、レンは確認せずにいられなかった。
その三人目とは、もしやニーナのことではないのか、と。
そして果たして、母親は無言でうなずいた。
『レンさんが訪ねてきてくださって、ニーナは本当に久しぶりに明るい顔をしていました。ぜひ泊まっていっていただこうと、主人とうなずき合いました。……ですが、あまり長くなると今度は、ニーナに未練ができてしまいます。村のために犠牲になる決心が鈍ってしまいます。ですからレンさん、どうか……どうかっ……ニーナが寝ているうちに、村を去ってくださいませ。勝手なことばかり言っているのは承知の上で、どうか……なにとぞ……っ』
涙ながらに、震える声で彼女は訴えた。深々と頭を下げた。
レンはにわかに返答できなかった。
そして、現在に至る。
常夜の森を、レンは走り続ける。
村を背にして、ニーナを――何もかもを置き去りに、ひた走り続ける。
泣きながら走り続ける。
言えなかった。
その化物は僕が倒すと。ニーナを助けてみせると。
安請け合いは、決して決してできなかった。
無論、理由はある。
次々と明かされた、衝撃の事実の中の一つだ。
あの化物は、村人に契約を持ちかけてきたという。
すなわち、人の言語をしゃべったということ。
すなわち、ただの魔物ではなかったということ。
深層種などという括りでは、括ることのできない正真の怪物。
多種多様なる魔物といえども、人の言語を解する存在はわずか三種だけ。
一つ目。トロール等、不死界の住人たる魔人たち。
二つ目。その魔人たちが神の如く崇拝するという、百柱の悪魔。
そして三つ目。悪魔が他種族に産ませた怪物――すなわち妖魔である。
そう。
レンが目撃したあの謎のキマイラは、妖魔だったのだ。
生と不死の境界の奥も奥、恐らくは最深部からやってきたであろう魔物の中の魔物。
駆け出しライナーが到底勝てる相手ではない!
ゆえにレンは逃げた。
ニーナの母親の言われるままにするしかなかった。
(僕は英雄になりたい……)
悔しかった。
涙が止まらなかった。
(僕は英雄になりたい……っ)
子どもの時と一緒だ。
初恋の従姉に逆に守られ、ジェイクが戦う様を指をくわえて眺めるしかなかった、あの時と一緒。
何も成長できていない!
(僕はっ、英雄にっ、なりたいっ)
疼く。
右手の古傷が、七つ首の竜の形をした痣が、疼いて仕方ない。
「僕は英雄になりたいんだああああああああああ!!」
叫ぶ。
悔しさ。苛立ち。そして、怒り。
そんなドロドロの感情をグツグツに煮詰めて、煮詰めて、煮詰めて、思いの丈を腹の底から叫ぶ。
全てを右手に込めて、行く手を遮る大木を殴りつける。
木端微塵だ。
ライナーの呼吸法も使っていないのに、衝撃で大木が爆砕し、粉塵と化してしまう。
異様なまでの膂力だった。
しかし、英雄になりたいと一途に想うレンは、その事実に気づかない。気づく余裕がない。
ただ右手の竜の痣が、彼の怒りに呼応するかのように赤熱するのみ。
否――それもレンが無意識に、目元をこすって涙を拭うと、スッと冷却されていく。
ニーナの言葉が、頭の中で繰り返される。
『ねえ、レン。いつか、いいアイデアが思いついたら、村のみんなを助けてくれる?』
そう、ニーナは言わなかった!
自分を助けてくれとは一言も!
諦め、ただ「村のみんな」の救済を願った!
自分と変わらぬ年端の少女がだ!
レンは右手で目元をこすり続ける。
拭っても拭っても止まらぬ涙を拭い続ける。
そして、顔を上げた。
「僕は英雄になる」
声に出して誓った。
ただ逃げ帰りはしないと。
絶対に、すぐにでも、どんな手段を使ってでも、ニーナを助けてみせると。
その想いを胸中で静かに燃やし続け、クアザルマへ帰還した――




