プロローグ
レンが七歳の時、故郷の村が豚鬼の群れに襲われた。
村の男たちは鍬や鋤を武器に迎え撃ったが、まるで歯が立たず、降伏を余儀なくされた。
若い娘たちは一人残らず村の中央広場に集められ、そこで戦勝に滾るオークどもの、荒々しい獣欲のはけ口にされ乱暴された。十歳前後の、まだ幼い娘たちでさえ、容赦なく組み敷かれた。
それどころか、幼い少年たちまでもが、オークどもの慰み者にされていた。連中の異常な性欲は本当に見境がなく、底もなかった。
娘や幼な子たちにとっては、まさに地獄だ。
二十匹ほどのオークどもが手当たり次第に乱暴して回る様や、抵抗を諦めた娘たちが生気を失った瞳で為すがままにされている様――それら陰惨な光景を目の当たりにさせられ、いずれは自分の順番が来るのだと、ただただ怯えて待つしかない。
無力な者たち同士で身を寄せ合い、村を襲った災厄を恨み、めそめそと嘆き続ける。
七歳の少年にすぎないレンもまたその中にいた。
従姉のサリアと一緒に抱き合い、啜り泣いていた。
「大丈夫だよ。レンは私が守るから」
震えが止まらない自分に、サリアが悲壮な声で言う。
かくいう彼女こそ震えているのに。レンのことをぎゅっと抱きしめてくれている腕も、レンが顔をうずめた豊かな胸も、しがみついた華奢な体も、全部、全部、憐れなほど震えているのに。
自分から見ればずっと年上だといっても、サリアはまだ十五歳の少女だ。
近隣一の器量良しとはいえ、ただの村娘だ。
レンを励ますため、気丈に振る舞ってはいるが、村を突如襲ったこの恐怖に、耐えられるわけがない。
そして当然、戦う術だって持っていない。
「私が守るから」
この、レンの耳元で繰り返される励ましの言葉も、ただの気休めでしかない。
ただし、覚悟のある気休めだ。
もしオークどもの獣欲にまみれた視線が、ついに自分たちに留まったその時、きっとサリアは己が貞操を犠牲にして、レンを庇ってくれるだろうから。
その決意が、痛いほど伝わってくるから。
(ダメだよ、お姉ちゃん。そんなの絶対ダメだ……)
たわわな乳房の間に顔をうずめたまま、レンは激しく首を左右にした。
泣きじゃくった。
サリア。
美しくて優しい、自慢の従姉。
ちょっとおませなレンの、初恋の人。
犠牲になんてできるわけがない。
愛しい彼女がオークどもの毒牙にかけられる様を、想像しただけで涙がまたあふれてくる。
レンはサリアにぎゅっとしがみついたまま、天に向かって祈り続ける。
(助けて、神様……。お願いですから、村を救ってください。お姉ちゃんを救ってください)
啜り泣きながら、一心不乱に祈り続ける。
だが――おませなレンは薄々気づいていた。
御伽噺と違って、神様は人を救ってくれたりなんかしない。
どころか、実在するのかも知れたものではない。
そして――幼いレンはまだ理解できていなかった。
人を救ってくれるのは、いつだって人自身だ。
英雄と呼ばれる者たちだ。
だから、レンの祈りは天には届かなかったけれど――
救いの手は、確かに差しのべられた。
「〈ファストブレード〉!」
裂帛の気勢が、村の広場に轟く。
レンはぎょっとなって、声がした方を向く。
壮年の剣士がいた。
外套を棚引かせながら、次々と剣を振るい、次々とオークを屠っていく。
組み敷かれていた娘や幼子たちを、次々と救っていく。
恐ろしく速い太刀筋だった。
目にも留まらぬ早業だった。
剣閃が走るごとにオークどもの首を一つ、確実に刎ねていくのに、その曇りなき刀身には返り血の一滴すら付着しない。
「だ、だ、誰!?」
レンは反射的に訊ねてしまう。
次の獲物を求めて、すぐ近くを駆けていったその壮年の剣士は、
「ジェイク」
と律儀に、愛敬たっぷりにウインクしながら教えてくれた。
それだけの余裕が、この凄腕の剣士にはあった。
否――彼のレベルは凄腕なんて次元ではなかった。
そのことを、レンはすぐに知ることになる。
「出てこいよ、トロール! 群れを率いてるのは先刻承知だぜ!?」
ジェイクが、またオークを一匹仕留めながら、声を大にして叫んだ。
「フンッ。私の飼い豚――すなわち私の家財を、よくも台無しにしてくれたな」
村の奥から人影が現れた。
オークどもの群れを率いていたボスだ。
見た目は、ほとんど人間と変わらない。
ただし異様に背丈が高い。三メタ近くあるだろう。
そして、気味が悪いほど整った美貌を持ち、流暢な共通語を操った。
辺鄙な村で生まれ育ったレンは知らなかったが、トロールという強力な魔人である。
本来は“不死界”の奥底に住み、ごくまれに発生する〈境界の裂け目〉を通り、レンたち定命の者たちが住む“生界”に出現することがある。
【我が終生の友よ! その名は業火なり!】
トロールが呪文を唱えた。
たちまち魔人の周囲六か所、地面から黒い炎が噴き出すと、まるで自ら意思を持つ六匹の蛇の如く、鎌首をもたげてジェイクに襲いかかる。
これもレンが初めて目の当たりにする、邪悪なる魔法の恐るべき迫力、おどろおどろしさに、サリアと一緒になって震え上がり、ますます強く抱き合う。
だが、ジェイクは全く怯まなかった。
それどころか迫り来る六匹の炎蛇を、果敢に迎え撃った。
「〈ファストブレード〉!」
再び裂帛の気勢とともに放たれた剣閃が、迫る炎の大蛇を尽く斬り払う。
そう、実体を持たぬ炎を、剣を以って断ったのだ!
そのままトロールへと突撃するジェイク。
だが、魔人も然る者。黒炎の大蛇を次々と地面から生み出し、けしかけ、ジェイクの接近を阻む。
剣と炎が躍り、凄惨なる死闘を繰り広げる……!
(僕はこの光景を多分、一生忘れない)
レンは呆然と、陶然と、ジェイクの素晴らしい戦いぶりに見入った。
否、魅入られた。
「〈ファストブレード〉!」
三たび、ジェイクの裂帛の気勢。
そしてついに、トロールのそっ首を斬り飛ばす。
邪悪な魔法を操る、強力な魔人を討ち果たす。
レンの目にはそう映ったのだが――
「許さぬ……! 許さぬぞ、定命の下等生物の分際でえぇぇぇ……!」
刎ねられたトロールの首は、放物線を描いて落下しながら、なお呪詛を叫んだ。
かと思えば、生首の状態でいきなり自由飛行を始め、ジェイクへと一直線に襲いかかった。
「呪われよ! 我に仇為した報い、後悔するがよいッ!!」
「チィッ」
さしものジェイクも咄嗟のことに、前転を加えた大きな回避動作で、間一髪避ける。
一方、トロールの生首は勢い余って、そのまま真っ直ぐ宙を突き進んだ。
その軌道の先に、抱き合うレンとサリアがいた。
「危ないッ!」
レンもまた咄嗟の行為で、従姉を衝き飛ばして守る。
そう、彼はただの泣き虫ではなかったのだ。
いざとなれば、我が身を犠牲に大事な人を庇うことのできる、そんな泣き虫だったのだ。
トロールの生首が顎門を開き、牙を剥いて襲い来る。
レンはせめて己の右手を盾に、急所だけは守ろうとする。
その右手にトロールの生首が牙を立て、レンは激痛に悲鳴を上げる。
「少年!!」
駆けつけたジェイクが剣を振るい、生首を縦に両断した。
今度こそトロールは絶命し、ぼとりと地面に落ちた。
「右手は無事か!?」
「な、なんとか……」
レンは強がり半分に答える。
怪我も痛みもひどいものだったが、骨も無事だし、「これなら治る」とジェイクも保証してくれた。
◇◆◇◆◇
そして、村には一応の平和が戻った。
ジェイクは英雄として迎えられた。
村人が彼に向ける、感謝の眼差しは厚かった。
それ以上に村娘たちが彼に向ける、思慕の眼差しは熱かった。
サリアもまた彼に恋する娘になってしまった。
村一の器量良しである彼女を、ジェイクが妻に迎えるまで、さほどの時間はかからなかった。
レンの初恋は終わった。こっそり泣いた。
でも、仕方のないことだった。
それくらいジェイクの英雄的行為は凄かったし、レン自身が誰より認めるところだった。
(僕も英雄になりたい)
泣きながらも、憧れずにいられなかった。
(僕が英雄になりたい)
涙を拭いながら、夢想せずにいられなかった。
(僕は英雄になりたい)
決意を抱き、胸に秘めた。