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迷宮の花嫁  作者: おたふく
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●リポート

 十月三日。

 困った情報が入ってきた。フォレスト・ハウスに忍び込んだ人間がいたというのだ。それは二日前、集中豪雨がこの周辺をおそった時間帯のことだ。

 若い女性。小柄なやせた体型、頭上で二つ団子状にまとめたヘア・スタイル。目鼻立ちの特徴、服装。証言を聞くかぎり、それはここのところ、瑠奈の話し相手をしている、栄養士として朱雀家で働く、柏木あかねに違いない。

 どうした理由からか、森の中に入り、洋館フォレスト・ハウスにたどり着き、中へ無断ではいった挙句、彼と会ってしまったのだ。

 彼と対面した柏木あかねは、大変おどろき、悲鳴をあげながら、そこから逃げ出したという。そして翌日は仕事を休んでいる。受けたショックがことのほか、大きかったのだろう。

 彼女はそのことを、瑠奈に話しただろうか? したと考えたほうがいい。そして瑠奈はそれを信じるか? 微妙なところだ。

 ところで問題は、柏木あかねがフォレスト・ハウスへ行った理由だ。集中豪雨の際をねらって、監視人の目がはなれた隙をついての行動だとすれば、偶然ではなく、最初からそこへ行くことが目的だったことになる。つまり柏木あかねは、洋館の存在を、そしてそこに秘密が隠されていることを、知っていたのだ。

 となると、その考えを吹き込んだのは誰だろう? 瑠奈か。確かに瑠奈は、フォレスト・ハウスの存在を知っていた。興味がある旨の発言も過去にしている。

 ひょっとして、瑠奈は感づいているのだろうか? 我々の計画を。いいや、感づいてはいない、と私は思う。

 おそらく瑠奈と柏木あかねは、その年頃の女性にありがちな、怪談話をおもしろがるように、森の奥の洋館に興味を持ったに過ぎないと思う。その延長であかねは実際にそこへ行ってしまった、というところだろう。

 くれぐれも楽観視はできないが、幸いなのは、それを見たのが柏木あかね、ただ一人だけということだ。彼女の見間違いということにして、事態を収拾するしかないだろう。それでも騒ぎ立てるようであれば、彼女を処分するしかない。できればそうはしたくないが。

 そんなことになれば、瑠奈に不信感をあたえてしまうからだ。そう、大切なのはこれ以上、瑠奈に変な疑念を抱かせないことなのだから。


●洋子著 「籠の中の乙女」より

 出産予定日が刻一刻と近づくなか、一時は不安定な状態にあった洋子の心は、今、安定し、もはや何ものにも動じることはなくなっていた。

 そう、何も恐れることなどない。例えば生まれてくる子供が、どんな姿であろうとも。全てを受け入れる覚悟はできている。

 全身が剛毛におおわれ、口に鋭い牙が生え、その瞳がルビーのように赤くても、大丈夫、その赤ん坊を愛情をこめて、この腕に抱くだろう。

 周囲の家族はやさしい。夫の充はいたわりの言葉をかけてくれる。けれど、それが見せかけのものに過ぎないことを洋子は承知していた。そこに本当の愛情は存在しない。

 洋子の心はすでに夫のもとにはなかった。それでもこの屋敷に居続けるのは、彼がいるからに他ならない。

 彼、すなわち狼男。洋子にとって、狼男は、もはや夢の産物などではなく、現実に確固として存在しているものだった。

 あの幻想的な夜の再会以降、会ってはいない。けれど、感じるのだ。たとえば夜、浅い眠りのなか、寝返りをうつ瞬間、窓の向こうからこちらを見守る、彼のやさしいまなざしを。守られている。その安堵感は何よりも洋子とって心の支えとなっていた。

 月日はまたたくまに過ぎ、お腹の子供は順調に育っていった。しだいにはっきりと感じられてくる、小さい、けれど確かな命の胎動。それは神秘的な体験だった。


 ある朝、突然、陣痛に見舞われた。予定とされていた日よりも、一週間ほど早かった。最初は動転し、パニックにおそわれたけれど、すぐに落ち着きを取り戻す。あわてる必要はないのだ。こうした場合に対処するべき行動は、すでに習得済みだ。

 洋子は一つ、大きく深呼吸をすると、サイド・テーブルのベルを押し、人を呼んで、陣痛が始まったことを伝えた。すぐに産婦人科医がとんできた。一ヶ月ほど前から、洋子だけを診るために、屋敷内に滞在している、朱雀家専属の医者である。

 診察を受け、そのまま医務室へと運ばれた。屋敷内の一室が、機材をそろえた、分娩のための空間に作り変えられているのだ。朱雀家の嫁は、皆ここで、病院に収容されることなく、赤ん坊を産むことになっていた。

 それから数十分後、室内に赤ん坊の泣き声が響きわたった。安産だった。特に何の問題もなく、赤ん坊は洋子の胎内より、外へ産まれ出たのだ。

 しかし、洋子は、我が子の姿を確かめることができなかった。

「奥様、心拍数が早まって、危険な状態になっています。落ち着いて、息を吸ってください」

 看護婦の一人にそう言われ、吸入マスクを口にあてがわれた。

 特に苦しいということもなく、おかしいと思いながらも、言われた通り、酸素を吸い込む。その途端、意識が遠くなるのがわかった。何? 何を吸ったの? 後からわかったところによると、それには神経を麻痺させるガスが混入されていたのだ。

 意識が途絶える寸前、洋子はもう一度、赤ん坊の泣き声を確かに聞いた。


 目を覚ました瞬間、洋子は嫌な予感に胸がの辺りが重くなった。ここはどこ? わたし、どうなったの? 見回すと、そこはいつもの寝室だ。身を起こすと、お腹がひっこんでいるのに気づく。

 赤ちゃん! わたしの赤ちゃんはどこにいるの?

「気がつかれましたか」

 するとタイミングを見計らっていたように、医師があらわれた。その顔は取ってつけたように、神妙で、どこかしら胡散くささがただよっている。

「赤ちゃんは? 赤ちゃんに会わせて!」

「奥様、大変申し上げにくいことなんですが」

「……」

「お子様は、出産後すぐに亡くなられてしまいました」

「!」

「死因は……」

「嘘よ、嘘。だってわたしは聞いたもの。力一杯泣いていた。赤ん坊の声を聞いたのよ。この耳で!」

「その後すぐのことでした。急に力をうしない、ぐったりとして。どうやら早産過ぎたようです……」

 それ以上、そんなたわ言に耳を貸すつもりはなかった。洋子は立ち上がると制止する声も無視して、医務室へ確かめに行こうと部屋を出た。しかし廊下で看護師らにとり抑えられてしまう。近寄ってきた医師が、手に持った注射器の針を洋子の上腕部に刺した。

「落ち着いて。どうか落ち着いてください」

 その声が遠くなる。再び洋子は意識を失ってしまった。


 産まれてすぐに死んでしまった、我が子に起きた、あまりに突然な不幸。洋子はその事実を、どうしても受け入れることができなかった。

 あんなに力強く泣いていた子が、あっけなく死んでしまうと思えない。理屈ではない。母としての直観が、まだ生きている、と告げているのだった。

 そして屋敷中を探しまわろうとしては、何度も捕まり、暴れて手がつけられない状態にになって、精神安定剤を注射され、といったことを繰り返した。しばらくすると、今度は、あらたな薬を飲まされて、痴呆のように無気力状態にされてしまった。

 その時だ、夫である充から、離婚の話が切り出された。とうとうと述べられる別れの理由。しかしそんなものは、洋子の耳にはまるで届かない。先方は相応の慰謝料を払うという。提示された額は予想をはるかに超える、文字通り桁違いのものだった。その代わりに、今後いっさい、朱雀家と関わりを絶ってほしいと要求してきた。

 洋子はその申し出を拒んだ。もちろん夫に未練があったわけではない。とっくに愛情は失われている。けれど、ここで別れたら、ここに隠されているはずの子供と、永遠に会えなくなってしまう。見つけるまで絶対に、ここから離れることはできない。そう考えてのことだった。

 しかし、そうしてごねる洋子を、向こうもただ、手をこまねいて放っておくわけもなかった。精神科の先生(これも朱雀家の息がかかった、御用達の医者だろう)を呼び、洋子を重度な統合失調症であるとし、入院治療が必要だとの診断をくだしたのだ。

 そう、強制的に、この屋敷から退去させ、うやむやのまま離婚にもっていくという計略なのだ。

 しょせんは、か弱い女の身、どうあがいてもたかが知れていた。もはやこれまでと絶望の果てに、あきらめかけた洋子は、最後の最後に抵抗を試みた。

 ついに精神病院に送られるというその日の早朝、夜明け前の最も看護人らの監視の目が薄くなる時をねらって、逃亡をはかったのだ。部屋を出て、行く先は決まっている。森の奥にある、あの洋館だ。あの赤ん坊が、わたしと狼男との間にできた子だとすれば、狼男が隠れ住むそこに赤ん坊もいるはずだ。

 まだ日の昇らぬ、暗い森の中を、はだしのまま疾走し、洋館にたどり着く。 玄関ドアの前に立ち、ドアをたたき、呼びかけた。

「わたしよ。洋子よ。お願い、ここを開けて。赤ちゃんがそこにいるんでしょう? 声を聞かせて」

 声が枯れるまで何度も呼びかけ、手がいたくなるほど叩いても、洋館の中は沈黙したままドアは開かない。

 力なくしゃがみ込む。その背中に近づいてくる乱暴な足音。洋子はなすすべもなく、追ってきた看護人らに取り押さえられてしまった。

 もはや抵抗する気力もなく、連れ去れていく洋子は、しかし最後にもう一度、洋館の中にいるはずであろう彼に向かって、身をよじり、呼びかけずにいられなかった。朝焼けに染まる空のもとに、その凛とした声がひびきわたる。

「わたしは、本気であなたを愛したわ。そしてその結果できた子供も。どうかわたしの分まで愛情を注いであげて。それが最後のわたしからの願い」

 瞬間、世界が静止したように洋子は感じられた。目の前のドアがゆっくりと開いていく! 

 その場にいる誰もが、息を呑んで注目する中、ドアの向こうから、彼が、その毛むくじゃらの大きな体をあらわした。

 洋子は認めた。彼の瞳に浮かぶ愛情深いまなざしを。そして彼の肩越し、館の奥から、届くその声を聞いた。奇跡が起こった。それは夢にまでみた、天使の泣き声だった。


●浩樹 日記

 十月三日

 あかねちゃんから電話があって、興奮した調子で報告されたその一連の内容を、僕は未だに信じられずにいる。

 朱雀家の庭にあるという別邸、その洋館で何と、狼男を見たと言うのだ。他にもそこには子供と、その母親らしき女性がいたという。

 どうにも信じがたい話で、僕には取り乱したあかねちゃんが、何かを見間違えたとしか思えなかった。まあ、現実的に考えると、それはおそらく、狼男のマスク、着ぐるみをかぶった、何者かだった、というところだろう。

 その洋館には他人に知られたくない、何か、が存在していて、それを探りに来た者(今回の場合はあかねちゃんだ)をおどろかせ、追い返すために、そうした姿に化けていたと、真相はそういうことではないだろうか。

 いずれにしても怪しいことに変わりはなく、できれば僕も、その洋館の内部を探ってみたいところだが。というか、そこだけに限らない、朱雀家の邸内の全てを調査して回りたい気持ちでいっぱいだ。

 というわけで、あれから何度となく、薫にも連絡を入れて招待してくれるよう頼んでいるのだが、いつもはぐらかされたまま。

 しかし、そこに妹の瑠奈がいる限り、あきらめることはできない。どうにかして潜入してみるつもりだ。

 ところで、あかねちゃんは大丈夫なのだろうか? その着ぐるみをかぶった人物に見つかったということが、朱雀家内の彼女の立場を危うくしないか、心配だ。

 

●瑠奈 手紙

 拝啓、浩樹さん、ごきげんよう。

 あかねちゃんから、例の狼男を見たっていう話を聞いたのですね。わたしもその話、信じられません。浩樹さんの推察通り、着ぐるみをかぶった誰かだったって説が真相のような気がする。だって狼男だなんて、そんな想像上の怪物が現実にいるわけないもの。

 浩樹さんの手紙を見せて、そして何度もわたしが、あり得ないとせめるものだから、あれは絶対に本物だったと言い張っていたあかねちゃんも、自信がなくなってきたみたい。近頃では着ぐるみ説を受けいれつつあります。

 そうよ、あんな状況で、しかも薄暗い洋館の中での出来事らしいから、見間違えていたんだと思う。

 ところでやっぱり、そんなあかねちゃんの行動は、朱雀家の人達にばれてしまったみたい。というのもここのところ、さらに監視の目がきびしくなったような気がするの。

 例えば日に一度、あかねちゃんと部屋でおしゃべりしてる時も、人の視線を感じる。廊下や玄関に監視カメラが設置されているのは知っていたけど、まさかわたしの部屋の中にも仕掛けられているんじゃないかしら?

 ためしに部屋の中を隅から隅まで、探してみた。幸いそれらしい物は見つからなかったけど、今では信じられないくらい小さなカメラがあるっていうし、見逃しているだけかもしれない。

 加えて、不思議なのは、わたしの体のこと。近頃、頭がぼうっとして、すぐに眠くなってしまうの。もう十月、残暑も落ち着いて、過ごしやすい気温のせいかもしれないけど、朝から晩まで、常に眠くて、楽しみにしている、あかねちゃんとの時間さえも、面倒に感じる時がある。たっぷり昼寝しても、夜も早いうちから眠ってしまうし。これって異常じゃないかしら?

 実際、この手紙も、何度も睡魔におそわれて中断しながら、ようやく書きおえたのです。これを封に入れたら、即、ベッドに直行するつもり。

 おやすみなさい。瑠奈より。

 十月五日


●あかね ブログ

 十月十日

 瑠奈ちゃんとも、そのことについて、話していたんだけど。やっぱり、この頃、監視の目がきびしくなってる。あたし、完全にマークされてるわ。とくに、たまに会う奥様の、こっちを見る視線が、とっても険しくて、怖くなるほど。

 例の行動、洋館に忍び込んだことは完全にばれていると思ったほうがいいかもしれない。

 今でも、あの時の光景が頭からはなれないの。あれは何だったんだろう? お兄ちゃんも、瑠奈ちゃんも、狼男のかぶりものをした中身は普通の人間だ、と主張してる。でも二人は、実際に見ていないから、そんなこと言えるのよ。

 あの赤く燃えるような瞳の色や、口からのぞく鋭い牙。全身をおおう剛毛。あれが作り物だなんて、やっぱり思えない。怖いけど、もう一度あそこへ行って、確かめてみたい気がする。


●あかね ブログ

 十月十一日

 今日は瑠奈ちゃんと会うことができなかった。体調が悪いんだそうだ。でも昨日は顔色もよくてそんな風に見えなかったけど。

 でも、目がトロンとして、動作が緩慢で、ひどく眠そうではあった。そのせいかもしれない。あたしと話すのが面倒なほどの強い眠けにおそわれているんだろう。

 実際、瑠奈ちゃんもそのことを気にしていた。

「ここのところ、毎日、眠くて仕方がないの。十分に睡眠はとっているはずなのに」

 そう言って、不思議そうに首をひねっては、やたらと、ポットにはいったお茶を飲んでいた。

「最近よく飲んでるのね、そのお茶」

「ええ。お義母さまにすすめられて。朱雀家に代々伝わる、特製のお茶らしいの。ちょっと苦い味がして、おいしいものではないけど。でも体はとてもいいそうよ。特に妊娠をする前の母体には」

 独特なツンとする香りがこちらにまで届いてくる。

「これを飲むとリラックスして、不安や悩みもすっかり消えてしまうの。とってもいい気分よ」

「眠くなるのは、ひょっとして、そのお茶のせい?」

「……かもしれない」

「本当に体にいいお茶なのかな?」

「当然よ。悪いものをお義母さまが、すすめるわけないじゃない」

「ところで瑠奈ちゃん、あなた、子供を産むつもりなの?」

「えっ?」

「そのお茶、母体にいいっていうんでしょ?」

「そうね、うん。欲しいわ。だって、愛する夫との間に子供を欲しがるのは、自然なことでしょう?」

「でも忘れたの? ここで産まれた赤ちゃんは、朱雀家に奪い取られて、母親の方はお払い箱にされてしまうのよ。その疑惑について、お兄ちゃんとあたし達は調べてるんじゃない」

「うん……ああ……でも、その後考えてみたんだけど、やっぱりあり得ないわ、そんな話。浩樹さんは、勘違いしてるんじゃないかな。だって、お義母さまやお義父さまはいつでもやさしいし。何よりあの薫さんが、わたしにそんなひどいことするなんて、考えられないもの」

「でも前に、薫さんが信じらなくなってきたって、言ってなかった?」

「そう、だったかしら? でも、それは単なる思い違いだったのよ。今では薫さんのこと信じているわ」

 とまあそんな感じで、何だか様子がおかしかった。まるで洗脳されているような、催眠術をかけられたような、そんな口ぶりで。心配になってくる。

 お茶。やっぱりあのお茶があやしい。あの中に何か変な薬が入っている?

 明日、瑠奈ちゃんに会ったら、注意してあげなきゃ。お茶に気をつけるようにって。

 そして、その日の帰り際、奥様に呼び止められたあたしは、突然、解雇通知を受けたのだ。


●浩樹 日記

 十月十二日

 あかねちゃんが、朱雀家から解雇を通告されたそうだ。労働基準法に基づいて、今日からちょうど二週間後に辞めるよう、正式に書面まで突きつけられて、反論する隙もあたえられずに。

 洋館に忍び込んだことが原因よ、ばれたちゃったのね。とあかねちゃんは言っていたけれど。それが理由だとするとやはり、朱雀家には外部の者に知られてはいけない秘密が存在するということだ。

 しかもあかねちゃんよれば、瑠奈の様子がおかしいという。一日中、ひどい眠けにおそわれているというのだ。それは以前もらった瑠奈からの手紙にも書かれていたことだった。

 特製のお茶。その中に何か、変な薬が。というあかねちゃんの推測を聞いて、ゾッとした。カルピナル錠、あの薬をまた飲まされているのだ。瑠奈の意識を混濁させて、やつらが何をしようとしているか、考えだすと怖くなる。

 もうのんびりしてる暇はなかった。一刻も早く、あの屋敷に潜入し、瑠奈を助けださなければ。


●リポート

 十月十五日

 柏木あかねを、解雇することが正式に決まったそうだ。

 しかし私見を述べさせてもらえるなら、その必要はないと思う。むしろ、今瑠奈から柏木あかねという、格好の話し相手を引き離してしまうことで、瑠奈の情緒が不安定になってしまうことのほうが心配だ。

 しかし上層部は柏木あかねを屋敷から追い出すことが、最良の解決策と判断したらしい。

 仮に柏木あかねが、朱雀家の内情を調査としているとしても、まさかその裏に国家警察が絡んでいるとも思えない。せいぜいが、瑠奈の身内に頼まれたとか、その程度のことだろう。

 だとすれば、柏木あかねはここへ留めておいて、瑠奈の話し相手をさせておいた方が、はるかに有用ではないだろうか。上層部にはぜひとも再考を願いたいところだ。


●薫 日記

 十月十六日

 もうすぐあの日がやってくる。あの儀式の日が。

 しかし、その日を前にして、私は悩んでいる。こんな気持ちになるなんて、自分でもおどろきをかくせない。そう、儀式をどうにかして、取りやめることができないかと、そればかりを考えているのだ。

 彼女を、儀式の贄として捧げたくない。それが正直な今の気持ちだった。

 わかっている、そんな個人の意思で、長いこと続く計画を台無しにすることが許されないということは。百も承知だ。けれど、だからといって、彼女の意思と関係なく、その人生を破滅させるかもしれない、そんな行為がゆるされるものだろうか?

 一族の中の一員としての私と、個人としての私、その二つの相反する感情の間に、今私は引き裂かれそうになっている。どちらを選べばいいのだろう? ああ、教えてほしい。偉大なる、我が父よ。私の進むべき道を指し示してほしい。


●瑠奈 手記

 毎日が眠く、頭の中は白いもやがかかっているみたいだった。でもそうした状態は決して不快ではなかった。いや、むしろフワフワと夢の中をただよっているようで心地よいとさえいえた。

 ただ問題があるとすれば、すべてが面倒くさく感じられて、何のやる気も起きないことだった。

 こんなことでいいのかしら? 何か大事なことを忘れているような気がする。不安になる。けれど、数分もすれば、それさえも忘れてしまう。

 夜になった。昼間にあれほど眠っていたのに、外が暗くなるとすぐにまた、眠けにおそわれる。早々にベッドに横になり、目をとじる。そして夢を見た。

 そこでわたしは、獣の唸り声のような、異様な物音に目を覚ます。身を起こし見回すと、そこは真っ暗な寝室。一人きり。

 二間続きとなっている、隣の部屋へ通じるドアは今、閉じられて、その隙間から隣の部屋の灯りがもれていた。

 誰かと誰かが話をしている。その声がする。けれど、その内容までは聞き取ることはできない。一人は、夫。薫さんのようだ。昨日から泊まり込みで、会社で働いているはずなのに。だとすると、やはりこれは夢の中の出来事なのだろう。

 そしてもう一人は、誰だろう? というか人間なのか? 犬の唸り声のような、くぐもった荒々しい声。喉を痛めているのかもしれない。

 いつしか二人の会話は、激しい調子になって、口論が始まっていた。とくに薫さんの方が、激昂して、声を荒らげている。何をそんなに怒っているのだろう? 普段は冷静で、決して感情をあらわにするような人ではないのに。

 いつまでその口論は続いていたのだろうか、再び睡魔にのまれて眠ってしまい、その結末はわからない。


 その翌日の晩もまた、同じような夢を見た。わたしが眠る隣の部屋で、ここにいないはずの薫さんと、唸るような声の主が話している。時折また、口論になりかけながら、会話は続き、そしてやんだ。

 そして、寝室のドアが音もなく開かれたのだ。隣の部屋から射し込む灯りが、ベッドの端にまでのびてくる。去ることのない眠けの中、ぼんやりとまなざしをそちらに向ける。と、半分ほど開いたドアのところに立ち、こちらを見つめている人影が。

 薫さん、ではない。彼よりもはるかに大きく恰幅のある体。とするとそれは会話相手の方だろう。

 その姿はどこか異様だった。こちらからでは逆光になるために、影となって顔や服装などはわからない。けれど、その全身を毛のようなものがおおっているのだ。真冬でもあるまいし、毛皮のコートでも着ているのだろうか。そして、顔の目のあたりが、赤く燃えるように光っている! そして同時に低い、唸り声が。

 狼男? 脳裏に浮かんだのはその単語だった。驚きのあまり、声をあげそうになった。けれど、全身はショックのあまり凍りついて、身動きができず、口をひらくこともままならない。

 そんなわたしの気配に向こうは気づいたのか、謎の人物は一瞬、動揺したかのようにピクリ、と身を震わせるとドアを閉め、姿を消してしまった。


 翌朝、目を覚ましたわたしは、このことをあかねちゃんに話さなきゃとまず考えた。例の狼男、それと関係があると思ったからだ。

 けれど近頃、あかねちゃんと会っていない。というのも、わたしの方が、ちょうど午後のその時刻、ひどい眠けにおそわれて、会話するのが面倒になり、会うのを断っていたからだ。

 けれど今日はどうあっても相談にのってもらわなきゃ。誰かに話さないと不安でたまらない。

 待っていることができなかった。いつもより早い時刻だけど、部屋を出て、あかねちゃんのいる調理室へ向かうと、強引に連れてきてしまった。こちらを見ているであろう監視カメラなんて無視して。

 そして数日振りに話をして、さらにまたおどろいた。何と、あかねちゃん、お屋敷から解雇通知を受けて、一週間後にはもうここを辞めなければならないというのだ。ちょっと会わないうちに、そんなことになっていたなんて。

「困るわ。そんなの、あかねちゃんがいなくなったら、心細くてたまらない。浩樹さんと連絡もとれなくなるし」

「あたしも瑠奈ちゃんのことが心配よ。でもお屋敷を探っているのが、ばれてしまったようなの」

「そんな……」

「きっとあの狼男から連絡がいったのね」

「狼男!」

「どうしたの?」

「そうよ、そのことなの。あかねちゃん聞いて。わたし、昨晩、夢の中でその狼男を見たの」

 わたしは夢の内容を、くわしく話して聞かせた。特に狼男の姿。全身をおおっていた剛毛の感じ、赤く光る目の印象、そして低い唸り声などを。

「あたしが見た姿と、そっくりな気がする」

 あかねちゃんは深刻な顔でつぶやいた。

「同一人物ということかしら?」

「だと思う」

「そんな……、じゃあ、あれは夢じゃなかったってこと?」

「そう、やっぱり狼男はここに存在してるのよ」

「なぜ? わたしの部屋にやって来て、何をしようとしているの?」

「わからない。けど、嫌な予感がする」

「怖いわ。あかねちゃん、わたし怖い」

 思わず、あかねちゃんの腕にすがりついてた。

「大丈夫よ、瑠奈ちゃん。安心して、あなたを見捨てたりしないから」

 その時ほど、あかねちゃんを頼もしく思ったことはない。


●口述記録 あかね

 うん。瑠奈ちゃんから狼男を見たという話を聞いて、それって、あの洋館に忍び込んだ時に見た、狼男だと同一人物だって思った。だってそれ以外考えようがないでしょ? そんなに、ここに同じような姿の人がいると思えないし。

 瑠奈ちゃんはひどくおびえていた。あたしは落ち着かせるために、大丈夫、見捨てたりしない、って確かそう言ったおぼえがある。

 けど、実際はどうしたらいいのか、まるでわからなかったの。でも大丈夫。お兄ちゃんがいるもの。なんとかしてくれる。あたしはそう信じてた。


●手記 浩樹

 僕はその日、あかねちゃんに会って、話し合った。それによると瑠奈が大変なことになっているという。狼男を見たというのだ。

 以前聞いた時は、誰かがかぶりものをしているに過ぎないと、そう思っていたけれど、あかねちゃんに続いて瑠奈もその姿を見たとなれば、信じないわけにはいかない。

 しかも、その狼男とやらは瑠奈が眠っている部屋に忍び込み、じっと様子をうかがっていたというから、只ごとではない。

 懸念していた、何かが起ころうとしている。もう一刻の猶予もない、瑠奈をたすけにいくことにした。

 そのための作戦はすでに立ててあり、準備や手配もすでに終わっている。すぐに決行することが可能だ。はっきり言って、それは犯罪といっていいやり方だった。けれど、そんなことを気にしている場合ではない。

 瑠奈は部屋に幽閉され、得体の知れない相手に、勝手に自室に侵入されている。だとすれば、それを身内がたすけに行って、何の不都合があるだろう。たとえ警察に突き出されたとしても、正当防衛と主張すればいいだけの話だ。

 とにかくこれから、もう一度、あかねちゃんに電話して、細かい打ち合わせをしておこう。

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