4
●浩樹 日記
あかねちゃん、よくやった。彼女から電話で報告を受けた時、本当に感激してしまった。まさかここまでやってくれるとは。
ともあれ瑠奈の無事が確認できたことを今は素直に喜びたい。とはいえ、事態が好転していないことに変わりはなく、瑠奈は部屋に閉じ込められたまま、全く自由が許されれない、いまだそんな状態にあるのだ。
聞けば、瑠奈からの手紙、そして僕の送った手紙も、途中で処分されていたらしく、どうりで双方に届かないはずだ。いったいどういうつもりなのだろう。朱雀家の連中は狂っているとしか思えない
一方で僕の方からも、離婚した憲二の元妻、石上あいこさんに電話で取材した内容を、あかねちゃんに報告しておいた。赤ん坊が欲しいがために、結婚を繰り返しているのではないか、という推測を伝えると、さすがにおどろいていた。
女性を子供を産む機械のようにあつかい、できた赤ん坊を取り上げて、母親の方は切り捨ててしまう。こんな人権を無視した、ひどいことが本当に行われているとしたら、黙って見過ごすわけにはいかない。いざとなれば法に訴え出ることも考えている。僕がそう怪気炎をあげると、あかねちゃんは、しっかりとした証拠を得るまでは、変に動かない方がいいと言う。
その通りかもしれない。ここで激情のまま行動したら、財も権力もある朱雀家によってまるめこまれてしまうのがオチだ。ここは冷静に対処するべきだろう。
頼もしいことに、あかねちゃんは、今後もさらに屋敷内を調べてくれると約束してくれた。彼女の活躍に期待したい。
ともあれ今晩は、瑠奈が無事だったことに、一人祝杯をあげよう。
●洋子著 「籠の中の乙女」より
洋子の妊娠が判明してからというもの、屋敷の中の雰囲気は一転して明るく活気づいた。
夫とその両親はもちろん、常に気難しく厳格を絵に描いたような祖父までもがひどく喜びをあらわにして、不自由な足をおし、わざわざ電動車椅子に乗って、洋子の部屋にまでお祝いに来たほどだ。
だから妊婦の洋子は、これまで以上に、周囲から大切な宝物のように扱われることになった。
栄養バランスの考えられた、添加物のふくまれていない、厳選食材をつかった料理。十分な睡眠をとるための最高級寝具。専門のインストラクターに付き添われての適度な運動。そして毎日、かかりつけの医者から診察を受けた。妊婦としてはまさに、これ以上ないという環境だ。
何も難しい事は考えなくていい。ただ健康で元気な赤ん坊を産む。それだけを念頭においておけばいいのだ。洋子は自らにそう言い聞かせ、心の片隅に残る、ある事を無視しようとつとめた。けれど、ふとした瞬間に、どうしても、そのある事は頭に去来して占拠してしまう。
ばかばかしいと思う。けれど、身ごもった子の、本当の父親は、あのモンスターではないか、その考えをぬぐい切れないのだ。……もちろん、普通に考えてあり得ない。だってあれは夢の中の出来事なのだから。
けれど、その一方で、夫の子供である、とも言い切れない気がする。それは理屈ではなかった。女の直感だ。
こんな時こそ、夫の愛情を確かめたくなる。力強く抱きしめられて、俺の子供だ! とはっきり宣言してくれたなら、それだけで十分なのに。しかし夫はそんなことをしないタイプだ。どこか態度はよそよそしく、近頃では避けているようにさえ感じられる。
優しく親密に接してくれたのは、結局妊娠が発覚した、ほんの数日の間だけだった。彼の愛を信じたい、けれど……。
……目が覚めた。妊娠が判明したその晩から、不思議と全く、例の夢は見なくなった。そう、狼男に襲われる夢だ。
代わりに、途中目覚めることもないほど、朝まで熟睡するようになった。真夜中に目を覚ますのは、だからひさしぶりのことだ。
ベッド脇のサイド・テーブルに、水の入ったコップと飲み忘れた薬が置かれている。精神を安定させる薬。熟睡の理由は、これを就寝前に服用しているからなのだ。でも今回、これを飲み忘れてしまった。
寝室に一人きり。隣に夫の姿はない。ダブルベッドがことのほか広く感じられる。今晩もまた、職場に泊まり込みだそうだ。
静かな夜だ。窓辺に寄り、一枚のガラスをへだてた外を見る。三日月の弱々しい光に浮かび上がる、幻想的な、かすみかかった庭の眺め。それは、あの夜のことを洋子に思い出させた。
庭をさまよい歩いていた、狼男のシルエット。そう、あれが全ての始まりだった。
……洋子はふいに、高まる感情に胸をつかれ、両の瞳に熱いものが浮かぶのに気づいた。
わたし、どうしたんだろう? 彼が、あの狼男のことが愛おしてくてたまらない。
獣じみた体臭、全身をおおう剛毛、とがった牙、赤いルビーのような瞳。荒々しく、時に優しく繊細に。あれほど情熱的に愛してくれた相手は、夢の中にあらわれた、あの狼男だけだ。
それに比べて、現実の夫ときたら、その情交は児戯、まるでままごと遊びのようだ。そこには燃えさかる恋情など、どこにもない。
ドアを開けると、洋子は誘われるように庭へ出て、彼の姿をさがしていた。これは、夢の中? だとしたら、また会えるかもしれない。
声がした。気のせいじゃない。耳をすますと、洋子の耳に、遠吠えのような声が聞こえたのだ。
声のする方向へ歩いていく。いつしか森の中へ入っていた。折り重なる木々の枝に、月の光がさえぎられ、一寸先も見えないほどの暗闇に周囲はつつまれてしまう。
しかし洋子は少しも怖くなかった。その声がするかぎり、何をおびえる必要があるだろう。彼がいるのだ、この森の先に。
黒い巨大な影、そびえたつ建物が、木々の切れ目の先にあらわれた。二階建ての小ぶりな洋館は、ひっそりとまるで身を隠すようにしてそこにたたずんでいた。
今まで知らなかった。同じ塀の内側、その敷地内に、こんな別邸が存在していたなんて。
また声がした。それは確かに、この館の中から聞こえてくる。心がざわめいた。その獣ような唸り声は、やはり。
キイ……。
押すと、観音開きの白い扉は、静かにゆっくりと、奥へ向かって開いていった。
館の中は意外にも清潔で、整理整頓されていた。ゴミもなく、汚れてもいない。壁も床も真新しく、傷一つない。というか、あつらえた家具、調度品はどれも高級そうで、贅沢な貴賓室のようなおもむきさえある。そこには人の暮らしている息吹が感じられた。
通路の先に、わずかに開いた扉、その室内に人影が立っていた。アーチ型の窓から射しこむ月の光りを浴びて、薄闇に浮かび上がる半身。茶褐色の剛毛におおわれた巨大な体躯。かすかにただよってくる独特の体臭。それはまさしく、あの狼男に違いなかった。
そしてまた、向こうも入ってきた洋子に気づいたようだ。ハッとして、顔を上げる。
燃えるような赤い瞳ににらまれても、洋子は少しもひるまなかった。むしろ、湧き上がる喜びに心は躍っていた。
一方の狼男の瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。しかし次第に、それは優しげな、いつくしむような色へと変わっていくのを、洋子は知った。
ゆっくりと近づいてくる狼男。そしておずおずと、その毛むくじゃらの手を伸ばし、愛おしそうに、丸くなった洋子のお腹をさする。
洋子は確信した。自分の体内に宿るこの幼い命は、この狼男によって、もたらされたものだ、と。
そっと抱きしめられても、洋子は嫌悪を感じなかった。むしろすすんで、その広い胸に身を任せていた。目を閉じる。大きく強いものに守られている、その安堵感。それは決して、夫に抱かれていた時には、感じられなかったものだった。
洋子は悟った。わたしは、この狼男を心の底から愛しているのだ、と。
大いなる愛情に包まれたまま、安らかな眠りについた洋子が、次に目覚めた時、その体は、いつもの寝室、ベッドの上にあった。
白い朝の光りが差し込む室内から、窓の外、森の方向へ目をやる。あれは、夢だったのだろうか。
いや、夢じゃない。洋子は見つけた。ベッドの下にひとふさ落ちた、茶褐色の体毛を。
●あかね ブログ
今日、お屋敷で来週の食事のメニューを考えている時、奥様に別室に来るように呼び出された。そりゃあもう、あせったわ。瑠奈ちゃんの所へ忍びこんで行ったことが、ばれてしまったと思ったの。
でも違った。恐る恐る奥様の待つ、応接間へ入ったら言われたの。
「瑠奈さんは近頃、退屈で、おしゃべりのできる同年代の友達が欲しいらしいの。偶然、食堂にいるあなたを見かけて、気に入ったみたい。これから会って話してきて。それで気が合いそうだったら、瑠奈さんと毎日、数十分、話し相手になってあげて欲しいの。もちろん、仕事の一つとしてあなたには、特別手当を出します」
「ええ、よろこんで」
というわけで、今度は堂々と、瑠奈ちゃんの部屋へ入って行ったってわけ。
「やったわね、瑠奈ちゃん」
「あかねちゃん!」
待っていた瑠奈ちゃんは、してやったりという笑顔でピースサインをしてみせた。
話し相手が欲しいと、駄々をこねたら、奥様は仕方なく聞き入れてくれたらしい。
これで毎日、公然とあたし達は会って、話すことができるのだ。
●浩樹 手紙
瑠奈、元気かい。あかねちゃんの話を聞いて、お互いの手紙が途絶えていた訳がわかったよ。全く、朱雀家の人達は何を考えているのだろう。理解できない。
ともあれ、今回の手紙はじかに、あかねちゃんに渡してもらうから、しっかり瑠奈のもとに届いていると思う。
今回の手紙の件でもわかる通り、朱雀家が一族そろって、何か企んでいるのは確実だ。他にも、調べてみると怪しげな事柄が次から次へと出てくる。そんな朱雀家に囚われている瑠奈が心配で僕はついに休職して、本格的に調査を始めたよ。そんな中で、気になったのが、薫の二人の兄のことだ。
長男の充は三回。次男の憲二は二回。二人ともまだ若いのに、すでに結婚、離婚を繰り返している。しかも双方、今現在、結婚を前提に付き合ってる女性がいるらしい。
おかしいだろ? これじゃあまるで、最初から離婚するために、結婚してるみたいだ。しかもいずれの場合も、子供が産まれた後に、即離婚している。そして子供の親権は父親の方、つまり朱雀家が強引に奪い取ってしまう。つまり、子供を手に入れるために、朱雀家の息子達は、結婚を繰り返してると思われるんだ。
瑠奈、気をつけてくれ。安易に薫の子供を産んじゃいけない。でないと一族に奪い取られてしまうぞ。
僕としてはすぐにでも薫と離婚して、こちらに帰ってほしいけど、あかねちゃんによれば、瑠奈はまだ薫を愛しているようだね。
でももう一度、よく考えてほしい。本当に薫はお前のことを想ってくれているのか? 冷静にやつを見て、判断してくれと願うばかりだ。
ともあれ、身の危険を感じるようなことがあったら、どうにかして僕に連絡をくれ。すぐに駆けつけて、お前を連れて帰るから。
兄より。 九月十五日
●瑠奈 手紙
拝啓、浩樹さん。ひさしぶりにお手紙をいただいて、うれしくて何度も読み返しています。やはりわたしの事を誰よりも心配してくれるのは、浩樹さんしかいないとの思いを強くしています。ありがとう。
でも、まさか、今まで書いて、投函したつもりの手紙が、途中で処分されていたなんて、信じられない。本当だとしたら、それを指示したのは、お義母さまという事になるのでしょうか? どうしてそんなことを? わたしをここに閉じ込めておくために?
わからない。そしてそれ以上に、浩樹さんの報告の内容、お義兄さま方の子供達、そのゆくえが気になります。彼らはどこへ消えたのでしょう? このお屋敷に来てから、ただの一度もそうした子供の姿など、見かけことはありません。だとすると?
考えだすと怖くなってきます。ここで何が起こっているのか。誰を信じればいいのでしょう。
ここで唯一信じられるのは……薫さん。彼しかいません。いっそ思い切って、このことを相談してみていいかしら? 薫さんなら、よい解決策を見つけてくれると思うの。大丈夫、薫さんはこの一件には関わっていない。無関係だと信じています。浩樹さんの意見を聞かせてください。
瑠奈より 九月十八日
●浩樹 手紙
瑠奈からの手紙、読ませてもらったよ。まず言っておく。薫はおまえが愛して、結婚まで決めた男だ。だからその相手を信じたい気持ちはよくわかる。けれど、くれぐれも注意するように。
僕からみれば、薫というやつは、とらえどころのない、信用できない男だ。やつもまた朱雀家の裏で行われている事柄に関係していると思えてならない。
だから、義兄の離婚の事や、その子供の事など、相談するのは絶対にやめてくれ。
変に勘ぐられでもしたら、おまえの身に危険がおよぶ事になるかもしれない。これは冗談なんかじゃない、僕からの本気の忠告だ。
兄より 九月二十日
●瑠奈 手紙
浩樹さんも心配性ね。平気よ、大丈夫。薫さんは、わたしが何を言っても、怒ったりしないし、ましてや傷つけるような真似をするはずない。そのことだけは確かよ。
実はこの前の日曜日。薫さんとデートしてきた。久しぶりに仕事から解放されて、その日は朝から、薫さんは家にいた。たまには外へ連れ出してよ、とわたしがねだると、快く応じてくれたというわけ。
結婚する以前に、よく行っていた、高原のレストランまで、ドライブしながらデートをしたわ。
思えば、夫婦二人きりになるなんて、最近ないことだった。お屋敷では常に誰かがそばいにいるし、薫さんの仕事が忙しいために、今は寝室も別にしているから。
だから、最初は何を話そうか、少し困っていた。でも心配することなんてなかったの。
だって薫さんは相変わらず、気づかいができるっていうのか、わたしの話をちゃんと聞いてくれ、それを受けて話を広げてくれる。テンポよく会話は弾んで、気詰まりになるようなことは一度もなかった。
こういうところが、薫さんを好きになった、理由の一つだったんだって、改めて思ったわ。その日も結局、ずっと笑いっぱなしで、楽しい時間を過ごすことができた。
でも、少し考えてしまったの。それはあまりに、薫さんがやさしすぎるっていうか、どうして、結婚をして夫婦になった今でも、こんなに気をつかってくれるんだろう、ってこと。
何人か結婚した友達がいるけど、彼女達は皆、口をそろえて言ってたわ。夫婦になった途端に、男の人は冷たく、無関心になるって。
でもそれは普通だと思う。結婚し、籍を入れれば、もう他人じゃない、家族だもの。変に気をつかうことも、無駄にやさしくすることもない。それは愛情がなくなったからじゃなく、そんなことする必要もないほど、近い存在になったから。互いに信頼し合ってるからこそ、喧嘩もするし、本音を言い合うことができる。
でもわたしと薫さんはそうじゃない。彼はただただ、やさしいだけだ。そしていつまでも、不自然なほどに気をつかってくれる。それって本当の夫婦と言えるのかしら?
……そもそも、薫さんはわたしのことを愛しているのだろうか? もし、浩樹さんが邪推しているように、ただ子供だけが欲しくて、わたしと結婚したのだとしたら……。
怖い。そんな風に考えだすと、怖くてたまらなくなる。わからないの。薫さんを信じていいのか、わたしの中の彼への信頼が揺らぎ始めている。
九月二十五日
●薫 リポート
九月二十六日
昨日の日曜日、私は仕事が一段楽した、という名目で、朝から屋敷内に滞在していた。
ここのところ、瑠奈とコミュニケーションがとれていないのではないか。きちんと彼女の内情を把握しておくべきではないか、上層部からそう通達を受けて、会話をする時間を捻出することになったのだ。
どう言って二人きりの時間を作ろうか、と考えていると都合のいいことに、瑠奈の方からデートの誘いを受けた。
そしてドライブをかねて、高原のレストランに行くことになったのだ。車中での雰囲気は良好だった。私の話術を駆使したおかげで、会話は盛り上がり、彼女には多いに喋らせ、そして笑わせてやった。
これで溜まっていた私への不満もあらかた解消されたのではないだろうか。再び、夫婦仲は持ち直したと思う。
その他の点では、食欲も旺盛で、肌つやもよく、健康、精神、いずれも状態は安定していると思える。子を産む母体として、最適な状態ではないだろうか。個人的見解では、一週間後にひかえた、儀式を実行することに、何の支障もないと判断した。
追伸。上層部が気にしていた、柏木あかねの件だが、心配するような点は特に見当たらない。たずねてみると、その会話の内容も、ファッションや料理、芸能人のうわさなど、他愛もないものばかりだ。
瑠奈のストレス発散のためにも、これまで通り、一日数十分ほど、一緒に過ごさせても、何の問題もないと思う。
●あかね ブログ
九月二十七日
瑠奈ちゃんとはあれから、毎日のように合って、話をしてる。最初のうちこそ、あたしという新しい話し相手ができて、興奮気味だった瑠奈ちゃんだけど、近頃はふさぎがちで、その表情は暗く、口ぶりは重くなっていくばかりだ。
その原因は夫の薫さんにあるようだ。どうやら、彼のことが信じられなくなりつつあるらしい。
不可解なことだらけのこのお屋敷で、唯一、心の拠り所となっている、薫さんに裏切られたら、瑠奈ちゃんの心は小枝のようにポキっと折れてしまうだろう。
それというのも全ては、このお屋敷の秘密主義。はっきりとしないのが原因だ。余計なことを考えて疑心暗鬼になってしまってるの。真相をあばいて、すっきりしなきゃ。
そんな風に言ったら瑠奈ちゃんも同調してくれた。とにかく、今まず、するべきことってなんだろう?
二人で相談した結果、例の行方知れずの子供達をまず見つけ出そうってことになった。本当に存在するのかどうか、それがわからないことには事態は進行しない。
でも、どこにいるんだろう? この朱雀家の広大な敷地のどこかに、隠れていると思うんだけど。
充さん、憲二さんの結婚は、いずれも最近のことで、そこで産まれた子供達は、まだ幼いはず、おそらく一歳から八歳くらいの年齢になっていると思う。もっとも元気な年頃だ。なのに、声一つ聞こえない。とすれば、この本邸、お屋敷内には、いないってこと。だとすれば?
瑠奈ちゃんと考えた結果、庭の森、その奥に建つ離れの別邸、二階建ての洋館があやしいってことになった。森の中を走り回る小さな子供の影を見たって噂も聞いたことがあるし。
だとすると、そこに子供達はまとめて閉じ込められているんじゃないだろうか? 行って、確かめたい。けど庭には常に、監視してるらしき誰かがいて、瑠奈ちゃんすら、森の中へ入るのは禁止されているそうだから、あたしが勝手に入るなんて、もちろんできない。
でもどうしても行ってみたい。ここまできたらもう引き返せないわ。
●瑠奈 日記
九月二十日
あかねちゃんがどうしても、森の奥にある洋館を探ってみたいと言ってきかない。かくいうわたしも、以前から気にはなっていた。
薫さんによれば、それは古色蒼然たる雰囲気の、まるでホラー映画にでも出てきそうな洋館だという。
実は何度か薫さんに見てみたい、とお願いしたことがある。でもダメだった。たいていの事は聞き入れてくれるのに。
「単なる物置になってる古い建物だよ。見たってつまらないから、やめときなよ」
そう言って。
でも単なる物置なら、見せてくれたっていいはず。なのにかたくなに拒むところをみると、真相は、別の何かに使われているとしか思えない。例えば、子供達をそこに閉じ込めている、とか。
ばかばかしい妄想かもしれない。けれど、もしそれが当たっていたとしたら……こんな怖ろしいことはない。人目につかない森の奥、洋館の中に閉じ込められ、逃げられない子供達。完全にホラー映画の世界だ。そんな妄想を打ち消すためにも、一度この目で確かめなければ。
しかし、なかなかそのチャンスはおとずれなかった。庭には常に誰かしらがいて、森の入り口を、それとなく見張っている。
そう、改めて気づいたの。広い庭には一定の間隔をあけて、監視するように人が配置されているってことに。つくづくこのお屋敷が気味悪く感じられてくる。
●瑠奈 日記
十月一日
今日、ついにあかねちゃんがやってくれた。
午後のことだった。わたしとあかねちゃんはお喋りしながら、庭を散歩していた。森の入り口辺りには、相変わらず、芝刈りをしながら、こちらを監視してる風の庭師が、チラチラと目を向けて、注意しているのが丸わかりだ。嫌な感じ。
この調子じゃ、森の中へ入るチャンスは、今回もなさそうね。わたし達はそうささやきあっていた。
その時だ。辺り一帯が、急に暗くなったのだ。見上げてみて、おどろいた。いつの間にか空一面が、真っ黒な不穏な雲におおわれていたの。
すぐに今度はバケツをひっくり返したみたいな雨が落ちてきた。逃げる暇もなく、全身はずぶ濡れになってしまった。そう、ゲリラ豪雨というやつだ。
「大変。早く部屋に帰りましょう」
あかねちゃんに呼びかけると、彼女は意外なことを言った。
「森の中へ入るには今しかない」
確かにそうだった。激しい雨のせいで、視界は効かず、わずか数メートル先も見えない。監視の目をすり抜けるには絶好のチャンスなのだ。
「でも危険だから、あたし一人で行く。瑠奈ちゃんは部屋に戻って、待っていて」
あかねちゃんはそう言い残し、森の方向へ走り去っていった。
後についていこうかと、一瞬迷ったけれど、思いとどまった。わたしは運動神経が鈍いし、足手まといになるだけだ。ここはあかねちゃんの言う通り、おとなしく待っていた方がいい。
でも部屋に戻っても、落ち着かなかった。ここにもし、お義母さまがやってきて、あかねちゃんのことを聞かれたらどうしよう。どんな言い訳すればいいのか。
せわしなく部屋を歩き回りながら、どのくらい待ったかしら。幸いにも部屋には誰もこなかった。
激しい雨がおさまって、真っ黒な雲が二つに割れると、間から光りがさしてきた。と同時に、窓の向こうに人影があらわれた。
あかねちゃん! すぐ室内に招き入れ、濡れた体をタオルでふいてあげながら、顔を見ると、ひどく青ざめて、その瞳は動揺のためか、大きく見開かれたままだ。怖ろしい体験をしたかのように。
「何があったの?」
「あたし、あたし、見たの!」
「えっ?」
「森の奥の洋館、そこに怪物がいたの!」
●あかね ブログ
十月二日
昨夜から熱を出して寝込んでしまい、翌日になっても体調はよくならないので、今日は仕事をお休みさせてもらった。あたしがお屋敷に来ていないと知って、瑠奈ちゃんも心配してるんじゃないかな。
何しろ昨日は、森の奥の別邸で何を見たのか、ちゃんと説明もしていないし。気になっているでしょうね。でも仕方ない。パニック状態になっていて、あの時は、言葉が全く出てこなかったのだ。
でもこうして一日たって、ベッドで安静にしているうちに、冷静に考えられるようになってきた。頭の中を整理するためにも、体験したことを、文章にしておこうと思う。
瑠奈ちゃんと散歩中、突然におそってきた豪雨。滝のような雨におどろきながら、あたしは例の監視していた庭師が、あわてて屋敷の方へ避難するのを、目の端にとらえていた。
その時、とっさにひらめいた。森の中へ入るのは今しかないって。瑠奈ちゃんも一緒に、と思ったけれど、この豪雨の中、森を走るのは危険だ。転んでケガでもしたら大変なことになる。そう考えて、一人で飛び込んでいったのだ。
茂みを越えて、木々の間を進んで行った。個人宅の庭にあるとは思えない、広くて深い森だった。そしてこの悪天候で周囲は真っ暗。けれど、興奮状態にあったせいか、恐怖は感じなかった。ただこの先にあるものを見届けたいっていう好奇心でいっぱいだった。
それに一応、草むらの間には、けもの道らしきものがあったから、そこを進んでいけば、迷うことはないって思ったの。
どのくらい走ったかしら。突然、ほんとに突然って感じで目の前に建物の影があらわれた。
ちょうどその時、稲光りが走って、その建物を照らし出した。ヨーロッパの田舎町にありそうな二階建ての洋館。くすんだ青色の切妻屋根、アーチ型の窓、白いレンガの壁、その表面を血管のようにつる草がおおっている。
うわさしていた、洋館をついに見つけた!
高揚した気分のまま、玄関に向かって進んで行った。途中、ハッとして思わず立ち止まってしまったのは、視線を感じたから。並んでいる幾つかの窓、そのどれかから、誰かが見下ろしている。そんな気がしたの。やっぱり何者かがここに住んでいる? それは例の消えた子供達かしら?
玄関前に立ち、ドアをノックする。中から返事はない。思い切ってノブをひねると、鍵はかかっていなかった。両開きのドアは奥に向かって静かに開いていく。
洋館の中は意外にも、清潔な印象で、定期的にしっかりと掃除されていることがうかがえた。廊下を進んだ先には応接間があって、そこに置かれた家具の類いも高価そうなものばかり。テーブル上の花びんに活けてあるコスモスが甘い香りをはなっていた。
さらにその奥の台所には、キャビネットにしゃれたお皿やおわんが並び、ここで生活している人がいるのは明らかだ。
ギシッ……。頭上で、木の床を踏みしめる音がした。ここの住人は今、二階にいるのだ。階段を見つけ二階にあがる。一段一段、昇るごとに、胸の鼓動が早くなるのがわかった。
「ねえ、誰かいるの? いたら返事して」
もしここにいるのが、小さな子供達だとしたら、不審な来訪者であるあたしを怖がっているかもしれない。おどろかせないよう、やさしく声をかけた。
階段を上りきったところで、あたしは、廊下の先をサッと横切る人影を見た。背の低い、五、六歳と思われる、その影。それは……。子供? やっぱり、ここに子供がいたんだわ。
「ちょっと待って」
後を追って、子供が入っていった部屋の中へと足を踏み入れた。すると、部屋の奥に別の誰か、一人の女性が立っているのに気づいたの。
どんな顔をしているのか、影の中にいて、よくわからない。けど、そのシルエットから、二、三十代らしき年齢の女性のようだ。そのかたわらには先ほどの子供が寄りそっている。
女性から敵意は感じなかった。それよりも突然の乱入者である、あたしにたいする困惑が伝わってくる。
「はじめまして。あたし、あかねって言います」
とにかく危害を加えるつもりはない、ってことを示すため、自己紹介した。しかし女性はまだおどろいているのか、口をつぐんだままだ。
すると逆の方向、廊下の端に別のものの気配をおぼえたの。ハッとして振り向くと、またそこに、別の誰かが立っていた。
人? 人のシルエットのように思えた。けど何かが違う。なぜなら、その人物は全身がゴワゴワとした剛毛でおおわれていたからだ。
そして、こちらに向けられた瞳が、ルビーのように赤く燃えているのがわかったの。次にそれは、カッと口を開けた。そこには鋭く尖った歯が、鈍い光りをはなって並んでいた。人じゃない。その姿を見た瞬間に、そう確信した。
あたし、悲鳴をあげていたみたい。というか、受けたショックがあまり大きかったせいかしら、その間の記憶が途切れている。
気がつくと、森の中、ぬかるんだ地面を、転びそうになりながら全力疾走していた。早く、あの洋館から逃げなきゃ、頭にあるのはそれだけだった。
森をぬけて、お屋敷が目の前に見えてきた時は、だから心底ホッとしたわ。現実に戻ってきたんだ、そう思って。そう、あれは夢。悪夢を見ていたんだわ。だって、現実にいるはずない。狼男っていう怪物が!