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迷宮の花嫁  作者: おたふく
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●瑠奈 手紙

 拝啓、浩樹お兄さん。どうしているかしら? こちらからいくら手紙を出しても、返事がないので、とても心配しています。

 薫さんとの結婚式で会ったきり、もう四ヶ月も何の連絡もないなんて。せめて電話の一つでもくれたらと思わざるをえません。このままでは浩樹さんの顔すら忘れてしまいそう。それと気になるのはお父さんのこと。腰の調子はどうなのかしら。悪くなっていなければいいけれど。

 わたしの方はといえば相変わらず、何事も起こらない、退屈な毎日を送っています。すべての事はお付きの人がやってくれる。そんなお姫さまのような生活なのだから、文句を言ったら罰があたるかもしれないけれど。

 そのせいでしょうか、つい先日などは朝からみょうな眠けにおそわれて、ずっと夢の中をただよっているような日がありました。ふわふわとした気分で、わたしはそこで、白昼夢というのかしら、浩樹さんと話しているのでした。

 わざわざ浩樹さんが、お屋敷まで訪ねて来てくれたのです。そこで色々と会話をしていたような気がするのだけど、その内容はといえば、全くおぼえていません。ただ、ひどく心配そうに、こちらを見つめている、やさしい瞳が印象に残っているだけ。

 そして気がつくと、ベッドの上にいたのでした。だからやはりあれは夢だったんでしょう。

 こんな夢なんかじゃなく、本当に浩樹さんに会えればいいのだけれど。

 八月九日 瑠奈より


●あかね ブログ

 八月十八日

 北川浩樹、あれはお兄ちゃんだ、間違いない。朱雀家の裏口から外へ出て、帰宅する時だった。お兄ちゃんの姿を見かけたのは。

 何をしてるんだろう? 朱雀家の塀の前でお屋敷の方を見上げ、行ったり来たり、うろついて。その様子はまるで不審者そのもの。そこでお兄ちゃんだと気づかなければ、怪しい人がうろついているって、通報してたかもしれない。

「お兄ちゃん」

 あたしは、ためらうこともなく、呼びかけていた。あまりにも懐かしくて、嬉しくて。人違いかもしれない、なんてことをつゆほども思わずに。

 あっ、まずは断っておいた方がいいかもしれない。浩樹お兄ちゃんっていうのは、実際に血がつながっているわけではなくて、幼少の頃、あたしが住んでいたアパートの近所にいた「お兄ちゃん」だった。

 その辺りは下町だったせいかしら、近所の子供達が、年齢に関係なく集まって、よく一緒に遊んでいた。その中で、特にあたしをかわいがり、面倒みてくれたのが、浩樹お兄ちゃんだったのだ。

 やさしくて、頼りがいがあって、かっこよくて。告白してしまうと、お兄ちゃんがあたしの初恋の人だった。

 だから引っ越しが決まって、その町を離れるとわかった時は悲しかった。お兄ちゃんの家に、さよならを言いに行った時のことは、今もはっきりとおぼえている。

 あれから十年近い月日が流れて、あたしも今年で二十二。まさか大人になった今、こんなかたちで、再会する日がくるなんて。

 呼びかけられてもお兄ちゃんは、最初あたしのことがわからなかったみたい。無理もない。あの頃はしょせん、鼻水たらした小娘にすぎなかったんだから。でも名前を告げたら、すぐに思い出してくれた。やっぱり印象には残っていたようだ。

 立ち話も何だから、というので、それから喫茶店に誘ってくれた。そこであたしが朱雀家に雇われて、食事の栄養士と働いていると言ったら、ひどくおどろいていたわ。

 その一方で、お兄ちゃん、朱雀家のお屋敷の前で、うろうろと何をしていたのかと尋ねたら、妹のことが気になって様子をうかがっていたっていうの。

 妹? そうなのよ。お兄ちゃんの妹、瑠奈ちゃんは、朱雀家の三男、薫さんのお嫁さんだっていうの!


●浩樹 日記

 八月十九日

 あれから毎日のように、薫に電話をしているのだが、着信拒否にでもしているのだろうか、一向に通じない。朱雀家の固定電話にかけても同じことだ。

 一族をあげて、瑠奈とのつながりを裂こうとしているとしか考えられず、疑念は強まるばかりだ。

 カルピナル錠。

 僕の推測が正しくて、瑠奈がそれを飲まされているとしたら……。そう考えると、もういても立ってもいられない。頭がおかしくなりそうだ。

 そもそも、なぜに瑠奈がそんな目にあわされているのか、理由がわからないことが不気味だ。だからとにかく、もう一度、瑠奈に直に会って、しっかりと話をしなければ。

 というわけで、毎日のように、朱雀家へおもむいているのだが、やんわりと拒否されて、追い返されてしまう。仕方なくどこかに隙はないものか、と塀のまわりをうろうろとするしかなかった。

 この塀を越えた先には瑠奈がいるのだ。それなのに、顔を見ることもできないなんて、あまりに理不尽だ。

 どうしたらいいんだろう? 瑠奈のことが心配で、頭がおかしくなりそうだ。

 そのせいで、近頃では介護施設の事務管理の仕事も休みがちになっていて、同僚達に迷惑をかけている。社会人としてあるまじき行為だと自覚はあるのだが、仕方がない。こうなると、もう完全に病気だ。しかしあきらめるつもりはない。瑠奈の身に危険が迫っているという直感を無視することはできない。

 そんな風に、その日も塀の前をうろうろしていると、女の子に呼びかけられた。二十歳前後だろうか、見たことのない娘だ。

 しかし、話してみておどろいた。彼女の名は松原あかね。そう、子供の頃、近所に住んでいて、よく一緒に遊んであげていた女の子、あかねちゃんだったのだ。

 どこへ行くにも、お兄ちゃん、お兄ちゃんと僕の後ろについてきた、あのかわいい娘。別の町へ引っ越していったきり、連絡が途絶えていた彼女との、予期せぬ再会だった。

 その後、近所にある喫茶店に場を変えて、積もる話をしていたところ、おどろくべき事実を知った。

 何と、あかねちゃんは今、朱雀家で、栄養士として働いているというではないか。栄養バランスを考慮して献立を考えたり、食材を厳選して仕入る手続きをしたり、調理法を伝授したりといったことをしているらしい。

 そう、つまり彼女は自由に、朱雀家に出入りできる身の上なのだ。

 それを知って、僕は小躍りしたい気持ちになった。あかねちゃんに手助けしてもらえば、中にいる瑠奈と連絡がとれるかもしれない。


●洋子著 「籠の中の乙女」より

 洋子は大きな、ふんわりとしたベッドの上で目覚めた。厚いカーテンをすかして、白い陽光が室内を照らしている。

 わたし……どうしたのかしら?

 気持ちのいい朝である。そのはずなのに、奇妙な違和感をおぼえずにいられない。昨夜、何かひどく怖ろしい体験をしたような気がするのだが、頭がぼうっとして、はっきりと思い出すことができない。

 立ち上がり、カーテンを開け、窓の向こうに広がる、緑に輝く庭を眺めた。特におかしな点もない、ありふれた見慣れた光景。楡の木が並び、コスモスの花壇があって、森が見える。

 個人所有と思えないほど、広大な土地をもつ庭。そうだ、自分はこのお屋敷に嫁いできた身なのだ。改めてその現実を噛みしめ、洋子はまた信じられないような気持ちになるのだった。 


 現在の夫、愛する彼と出会ったのは、ほんの半年前のことだった。それから、あれよあれよという間に事態は進み、彼からプロポーズを受けた。洋子に異論があるはずがなかった。

 相手は誰もがうらやむような、頭脳明晰、ハンサムで、上品な雰囲気をもった、何より、莫大な資産家の長男なのだ。結婚相手として申し分ない。

 大勢の人が集まった華やかな結婚式、欧州をめぐるハネムーンを経て、始まった新婚生活。

 といってもそれは生活と呼べるものではなかった。なにしろ何もしなくていいのだから。すべての家事、生活の雑事は数十名いる住み込みの使用人らが、何でもやってくれる。洋子はただ着飾って、あでやかに微笑んでそこにいればいいだけ。

 しかし、それが生活といえるだろうか? そんなお姫様のような毎日が、苦痛以外なにものでもない、ということに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 そしてまた不可解なことは、お屋敷を出て、もとの家族や友達などに、自由に会うことが禁じられていることだった。それがここへ嫁に来たものの決まりだ、とそう言って。これではまるで籠の中の鳥のようだ。

 そんな不自由な一日がまた始まる、そう思い至って、憂鬱になった洋子が、ため息をついて視線をおとした時、気がついた。窓ガラスの下、その地面に足跡がついていることに。

 人間のものというには、あきらかに一回り以上も大きな、不可解な足跡。そして、そのまわりに落ちている、茶褐色のごわごわとした剛毛。犬や猫の毛と違う、もっと野生の獣の毛のような、それは見たことのないものだった。そう……例えれば、狼の毛だろうか。狼?

 自然と浮かんだその単語に、洋子は思わず身を震わせて、一歩退いた。そして朝起きた時におぼえた違和感の原因に思い至る。

 狼男!

 作り話の中だけの存在だと思っていたモンスターが、昨夜、窓の外に立っていたことを今、はっきりと思い出したのだ。わたしという獲物を見つけた喜びに、鋭くとがった歯の並ぶ口を大きく開けて、残忍に笑っているように見えたあの恐ろしい顔。 

 まさか、そんな、あれは、夢ではなかったの? 

 高まる動機をおさえつつ、ゆっくりと窓をはなれて、部屋から出ようとドアに向かう。鍵。そうだ、昨夜、本来、鍵などついていないはずドアが、なぜか固くとざされていたのだ。今、それは、開くだろうか?

 ためらいながらドアノブをつかみ、回す。するとそれはなんなく開いた。廊下に出て外側からドアノブを確かめても、鍵などついていない。だとすると昨夜はなぜ?

「誰か、誰かいないの?」

 声をあげ、たすけを求めずにいられなかった。誰でもいい、人に会いたい。もちろん、一番そばにいてほしいのは、夫だけれど、いつだってこうした時に彼は不在なのだ。

 らせん階段を駆け下りて、廊下の先にある、このお屋敷の中心である大広間に飛び込んだ。その部屋には常に誰かしらが、いるはずなのだ。

 案の定、そこには洋子の義理の母がいた。お気に入りのチェアに座り、趣味のパッチワークにいそしんでいる。

「あら洋子さん、どうしたの? そんなにあわてて」

「お母様、わたし、見たんです」

「まぁ、何を?」

「変なこと言う娘だと思わないでくださいね」

「ええ、わかりましたよ」

「昨夜おそく、目を覚ましてしまったわたしは、窓の外、庭をうろついている狼男を見たんです」

「まあ!」

 義母は目を丸くして、新妻を見つめ、そして笑い出した。

「おほほほほほ。いやだわ。何を言い出すかと思えば。冗談はやめてちょうだい」

「違います。だって窓ガラスの外の地面に、人間のものと思えない大きな足跡がついていたんです。その周りには、狼としか思えない剛毛が落ちていた」

「迷い込んだ野良猫でしょう。ご存知ないの? 近頃ではびっくりするくらい、肥満した猫がいるのよ」

「それだけじゃないんです。怖くて逃げようとしたら、ドアには外から鍵がかかっていて、開けることができなかった。そう、閉じ込められていたんです」

「あら、でも……」

「今朝になったら、もう鍵ははずされていたんです」

「うふふふふっ。夢よ。夢を見たんですよ。洋子さん、まだこの家に、気兼ねしてるんじゃなくって? そのストレスからそんな悪夢を見たんじゃないかしら。いいんですよ。もっと自由にふるまいなさいな。あなたはもう家族の一員、遠慮なんてすることないんですから」

「……」

「さあ、リラックスできるお茶でも出してあげましょう。心を安静にする作用があるのよ。我が家に代々伝わる、特別な製法によるお茶でね……」


●あかね ブログ

 八月二十日

 十年ぶりに再会した浩樹さん、お兄ちゃんから喫茶店で聞かされた話にはおどろかずにいられなかった。だって、お兄ちゃんの妹、瑠奈ちゃんが、朱雀家に嫁いでいたなんて。同じお屋敷内にいて、今まで全然気づかなかった。

 でもそれも無理のない話だと思う。実際、朱雀家の家族に会う機会なんて、これっぽっちもないんだもの。お話したことがあるのは、奥様だけだし、あとは薫さんを一度、見かけたことがあるだけ。ルックスがよくて、品があって、ちょっと見とれてしまった。

 その薫さんと結婚した瑠奈ちゃんはといえば、一日のほとんどを部屋に閉じこもっているというから、もちろん、見かけたことなどない。

 瑠奈ちゃん。それにしても彼女はいつも、わたしにとって、うらやましい存在だ。子供時は浩樹お兄ちゃんから、そして今は薫さんから。わたしがいいなって思う男性から、いつも愛されているなんて。何だかずるい気がする。

 だから幼い時、憎らしく感じていたことを思い出す。でも実際に話してみると、とってもいい子なんだ。その見た目と同じように、性格もかわいくって、きっと男女問わずに好かれるタイプなんだろう。なんだか守ってあげなきゃって気にさせるところがある。そういうところは今も変わっていないんだろうなぁ。

 そうか、そのあかねちゃんが、今は朱雀家のお嫁さん。不思議な巡り合わせだ。運命みたいなものを感じる。

 そんな風に一人で盛り上がっていたところ、お兄ちゃんから電話がはいった。そう、昨日、再会した時に電話番号を交換したのだ。そのすぐ翌日に電話が掛かってきたもんだから、びっくりした。何の用かしら?


●浩樹 日記

 八月二十一日

 無理を言って、またあかねちゃんと会う機会をつくってもらった。彼女は嫌なそぶりも見せず、いつでも喜んで、と答えてくれた。とてもいい娘だ。で、早速会ってきたというわけだ。場所は以前行った喫茶店。

「実はあかねちゃんにお願いしたいことがあって」

 早々に僕は切り出した。

「どうにか瑠奈に近づいて、近況を聞いてきてくれないだろうか」

 その提案にあかねちゃんは、納得いかないように、首をひねった。

「どうしてですか? お兄ちゃんが直接会いに行けば済む話じゃないですか。親戚の間柄になったんだから、そんな遠慮することないでしょ?」

「ところがそういうわけにもいかないんだよ」

 ここに至るまでの経緯を話すと、さすがにあかねちゃんもおどろきをかくせないようだった。

「信じられないです。そんなこと。瑠奈ちゃんが、変な薬を飲まされた挙句に、閉じ込められているなんて」

 あかねちゃんが困惑するのも、もっともだった。

「でも本当なんだよ。会いに行った時、瑠奈の様子は明らかにおかしかった。筋肉が麻痺したような不自然な表情、体の動き。誘導されているような、従順な受け答え。大学で心理学を学んだ経験から、催眠状態にあるとしか思えないんだ。とにかくあの屋敷の中では只ならぬことが進行してる気がする」

 あかねちゃんは僕の話を息をつめて聞いている。そして大きくうなずいた。

「あたし、お兄ちゃんの言うことを信じます。朱雀家で栄養士として働くようになって三ヶ月がたつけど、確かにそう思って振り返ってみると、変だと思うことがたくさんあるの。あのお屋敷には何か大きな秘密かかくされているんだわ」

 そう言って、瑠奈の様子をさぐってくれることを承諾してくれた。

 もちろん、危険をともなうかもしれない行為だ。ただで働いてもらおうとは思っていない。お礼として用意してきた、とりあえずのお金、十万円を渡そうとした。が、あかねちゃんは受け取れないとかたくなに拒むのだった。しばらく押し問答した末に、こう言った。

「それなら今度、あたしとディズニー・シーでデートしてくれませんか。一度行ってみたかったんだ。お礼はそれで十分です」

 かわいい娘だ。僕は了承した。必ず連れていくよ。そう言って、指切りをして別れたのだ。


●あかね ブログ

 八月二十三日

 何だかおかしなことになっちゃった。お兄ちゃんに頼まれて、瑠奈ちゃんに会うために、朱雀家のお屋敷内を探ることになるなんて。

 でも確かに、ここで働くようになってからずっと、監視されてるような息苦しさを感じていたんだ。何が原因なんだろうって、個人的に気になっていたから、ちょっと調べてみるのもいいかもしれない。

 で、その翌日、さっそく屋敷内を観察してみた。すると、あたしが働いている調理室や食堂、裏口の玄関、その間をつなぐ廊下といった、お屋敷のごく一部、限られた範囲内であっても、たくさんの監視カメラとおぼしき小さな物体を、壁や天井に発見することができたのだ。

 これほど厳重に監視されてるなんて。そこまでしないといけないほどの何かがここにあるんだろうか。そう考えだしたら、急に怖くなってきて、それ以降、自然にふるまうのがむずかしくなってしまった。

 これじゃあ、瑠奈ちゃんに会いに、勝手にお屋敷内を歩き回るなんてこともできそうにない。どうしたらいいのかしら。

 だからとりあえず、周りの人に聞き込みをすることにした。もう何年もここで働いている、掃除のおばちゃんや、庭師のおじさんなど、細かいことは気にしなさそうな人をねらって話しかけ、さりげなくお屋敷の内情を探ってみようと思う。

 うまくいくかわからないけど、お兄ちゃんのためにがんばるわ。

 

●瑠奈 手紙

 拝啓、浩樹さん、お元気ですか。以前送った手紙の返事が、まだこないけれど、懲りずにまた、あたらしい便箋に文字をつづっています。

 でも本当に変だわ。わたしのことを何よりも心配してくれている、浩樹さん。それなのにどうして? ひょっとしたら返事を書く暇もないほど、仕事が忙しいのかしら? 

 それならいいのだけど、病気や怪我をしていて、それが原因だったら、なんて考えだすと落ち着きません。まあ、さすがにそんなことになったら、私の方にも連絡がくるだろうから、それはないとは思うけど。

 ひょっとしたら、この手紙、浩樹さんのもとに届いていないんじゃないかしら? いつも書き終えた手紙は封をして、わたしの身の回りの世話をしてくれる女の子。わたしより年下かしら? おとなしい性格なのか、話しかけてもまるで答えてくれない彼女に渡しているのだけど、ポストに投函し忘れているとか? ううん、それはない。几帳面でまじめで、ミスもなく働いている、しっかりした娘さんなんだもの。

 じゃあ、どうして? ああ、どうどう巡りね。考えても仕方がないわ。

 とにかく返事がない、とわかっていても、わたしはこうして手紙を書かずにいられない。だって内面を吐き出すようなことができるのは、こうして文章を書くことしかないんだもの。

 本当に、このままでは心を病んでしまいそう。

 八月二十八日 瑠奈より


●洋子著 「籠の中の乙女」より

 ここのところ、洋子は眠くて仕方がなかった。昼といわず、夜といわず、一日中頭がぼうっとして、気力がわいてこないのだ。何もする気がしない。だから一日の大半を、ベッドに横になって過ごすような、そんな有様だった。

 原因は? わからない。唯一、思い当たることがあるとすれば、義理の母からすすめられて、毎日飲むようになった、一族秘伝のお茶。それを常用するようになってから、こんな風になった気がする

 今日もまた、朝食後、お茶を飲んですぐ、眠けにおそわれて、すこしだけ休むつもりでベッドに横になったら、もう夜になっていた。

 起き出す気にもなれなかった。あれだけ寝たにもかかわらず、体の芯がしびれているようで、意識がはっきりしないのだ。仕方なく暗い部屋の天井をぼんやりと見つめ、ただ時が過ぎるのを待つ。

 どこからか声がした。それは……夫の声。と、もうひとつ別の、それは人のものだろうか? 唸るような、くぐもった声だった。

 犬? でもお屋敷では犬を飼っていない。何だろう、気になった。けれど、確かめようと身を起こすも、体が動かない。まるで金縛りにあったように。

 夫と犬の会話は続いている。そして、よくよく注意して耳をかたむければ、その犬のような唸り声からは、単語が聞き取れた。それは喉を痛めたかして、つぶれてしまった人間の声だったのだ。

 しばらくして会話は済んだのか、辺りは静かになった。そして、洋子の寝る部屋のドアが開く音がした。こちらにじっと向けられた、視線をたしかに、洋子は感じた。

 あいかわらず動かすことのできない体。瞳だけを動かして、そちらを見ると、わずかに開いたドアの前に、廊下から射すライトを受けて、逆光となった黒いシルエットが見えた。

 夫だろうか? だとしたら、どうして入ってこないのだろう。こんなに不安なのに、こんな時こそ、そばに寄りそっていてほしいのに。しかし彼は入ってこない。かわりに耳にとどくのは、奇妙な唸り声。

 それは夫ではなかった。そう、夫と話していた相手、しわがれ声の謎の人物がそこにいるのだ。なぜ? どうして? ここには夫がいるはずなのに、その妻の寝室になぜ見知らぬ人物がいるのか。

 近づいてくる足音、荒い息づかい、そして強い体臭。けれど、逃げることはもちろん、声を出すこともできなかった。

 そいつはついにベッドの横にまできて、寝ている洋子を見下ろした。洋子のかすんだ視界に、その者のシルエットがうつる。

 がっしりとした大きい、筋肉質な体型、そして全身をおおう、ふさふさとした……体毛? その人物は異様なほどに毛深かった。

 グルルルルル……。

 唸り声を聞いて、これは人間ではない、と洋子は直感した。

 それは、狼男! 数日前の晩、庭をうろついてた、あの狼男がついに、お屋敷内、この部屋に侵入してきたのだ。

 夢だ、わたしは夢を見ているのだ。頭の中で繰り返し、自分に言い聞かす。そうしなければ、本当に気が違ってしまいそうだ。いつしかそれが暗示となったのだろうか、冷静さをとりもどしていた。そう、これは夢なのだ。だから怖がることは何もない。

 すると、そばに立つ、狼男から敵意のようなものが感じられないことに気がついた。いや、むしろこちらを気づかい、いたわるような、やさしさが伝わってくるのだ。

 狼男は手を伸ばし、洋子のほおにそっと触れた。毛むくじゃらのゴツゴツとした、その感触、それはまさに獣の手だった。さすがにゾッとした。夢だとしても気味が悪い。

 そして次に、何をしようというのだろう、狼男はベッドにあがってくると、洋子の上におおいかぶさるのだった。

 !

 ゆっくりと脱がされていく、洋子の衣服、ついには狼男の無骨な手により、一糸まとわぬ裸にされてしまった。

 そして……。


 何て夢を見たんだろう。翌朝、けだるい朝の陽を浴びながら、洋子は自己嫌悪におそわれていた。

 全身が剛毛におおわれた狼男。その伝説上の怪物に陵辱される夢を見るなんて。しかも最初こそ、拒んでいたものの、いつしかその荒々しい愛撫に、よろこびの声をあげ、快感に身をもだえさせていたなんて。

 そう、洋子は狼男に抱かれて、絶頂に達してしまったのだった。その鋭く熱い剣に貫かれた洋子の秘部は、今なお鈍い痛みを発している。

 ……もちろん、それは錯覚に過ぎない。あれは全て夢の中の出来事なのだから。しかし洋子は改めて、その内容を反芻し、ほおを赤らめずにいられなかった。

 思えば夫との夜の営みは、いつも淡白なものだった。彼とむかえたぎこちない初夜から後、夜を共にしたことは、数えるほどしかなく、ここ数ヶ月ほどに至っては、全くご無沙汰になっている。夫の仕事が忙しく、夜も遅いとあって、寝室も別にしているのだ。

 そうした日々が欲求不満となって、あんな夢を見たのだろう、洋子はそう考えて己を納得させた。

 実際、使用人の一人をつかまえて、夫のことをたずねると、昨夜は職場に泊まり、屋敷へは戻っていないという。とするとやはり、昨晩、体験した全てのことは、夢だったのだ。


 それ以来、夢と現実のさかいが、洋子の中で曖昧になっていった。相変わらず去らない眠け。夢なのか現実なのかはっきりしない日々。

 そんな中でまた夢の中に狼男があらわれたのだ。身動きができないままベッドに横たわる洋子に、狼男は覆いかぶさると、やさしく、時に荒々しく、体を抱く。

 次の晩も、また次の晩も。それは毎夜のように続いて、いつしか洋子は狼男が来ることを、心から待ち望むようになっていた。

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