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迷宮の花嫁  作者: おたふく
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●留奈の手紙

 拝啓、浩樹お兄さん。突然の手紙におどろいているかもしれませんね。

 考えてみれば、こうしてペンを持ち、便箋に文章をつづるなんて、ずいぶんとひさしぶりのことのような気がします。

 携帯メールというものができたせいでしょう。文字を打ちこんで、送信ボタンを一つ押せば簡単に、相手がどこにいようが、何をしていようが、意思を伝えることができる。そんな便利な昨今ですから、手間も時間もかかる手紙がこうして廃れてしまうのも当然だという気がします。

 ならば、どうしてそんな便利なメールを使わずに、こうして手紙を書いているのか。お兄さんは疑問に思うことでしょう。でもこれには相応の理由があるのです。

 そうです。わたしの所有するスマートフォンは取り上げられて、今手元にないのです。由緒あるこの家のルールでは、一族の妻であるわたしが、そうした最新鋭の機器、コミュニケーション・ツールを持ち、自由に使用することは、はしたないこととされ、固く禁止されているのです。

 もし誰かと連絡をとりたければ、使用人に命じ、彼らにやってもらうことが良しとされるのでした。

 まったくいつの時代だというような時代錯誤な考えですが、これがこのお屋敷内での決まりごとだと言われれば、お嫁に入ったこちらとしては従うしかありません。

 この一件からもわかる通り、わたしが嫁いだ先、この朱雀家は、つくづく不思議な家だと思わざるをえません。

 思えば第一印象は、とても良いものでした。ご両親、お祖父様、二人のお義兄様、みんなやさしそうで、おだやかで、彼らの家族になれるなら、これほど幸せなことはない、とそう考えていたのです。

 そして実際、その通りになって、このお屋敷に住むようになると、その印象とはずいぶんと違う現実がまっていました。

 まずおどろいたのは、この広いお屋敷に住んでいる、住人の数です。まさか、これほどの大家族だったなんて、想像もしませんでした。

 夫である薫さん。そのお父様、お母様、お祖父様。それにくわえて、お兄様二人、他にも親戚の方達の家族が数十名。どういったつながりがあるのかわからない、弟子と呼ばれるたくさんの人たちに、数十名におよぶ使用人の方たち。

 そうしたいまだに名前も知らないような、たくさんの人たちがこのお屋敷の中に住んでいるのです。

 そして彼らを収容し、なおかつ余裕があるほどの広さをこのお屋敷は有しているのでした。お城のような本邸があり、別館が二つ、さらに使用人の方たちが住む寮まであり、庭には丘があって森があって、小さな川まで流れている。それはまるで小さな別の国が日本の一画に存在するような感じなのです。

 そしてそこでわたしがすべきことは何もありません。ただすました顔をして、朱雀家の三男の妻として、お飾りのように、そこに居座っていればいいだけ。

 ほかに求められるものは何もない。使用人が三度のお食事を用意してくれるし、お掃除も、毎日着る服から、それこそ、その日のスケジュールさえも決めてくれる。

 他人が聞けば、そんなお姫様のような暮らしをうらやましいと思うかもしれません。けれど、現実にそうなってみれば、これほど苦痛な日々もありません。

 何もせずにいるという状態が、これほど退屈で苦しいものだったなんて、なってみて初めてわかりました。

 たまに息抜きに、外へ遊びに行きたい。お酒を飲みにいったりもしたい。でも、そんなこともなかなか許されないのです。一族の嫁としてそうした行動は、はしたないものと考えられているようです。

 実際、わたしが勝手なことをしないように、いつも周囲には家族や親戚の方、弟子と呼ばれる人、使用人のなかの誰かがそばにいて、まるで監視をしているように思える時があります。

 それは、わたしの被害妄想。気のせいなのかもしれないけれど。ストレスから、すこし、ノイローゼ気味なのかもしれません。

 けれど、こんなことでへこたれたりはしない。だって、大好きな薫さんと、こうして結婚して、そのお嫁さんになれたのだから。

 だから浩樹さん、わたしを応援し、見守ってください。新しい家族の一員になれるようにがんばりますから。

 六月十五日  瑠奈より


●瑠奈の手紙

 拝啓、浩樹お兄さん、暦のうえではすでに夏にはいって、すっかり暑くなってきましたね。体の方は大丈夫ですか、ばてていたりしないかしら? 昔から暑さには弱かったですものね。冬の方が俺は好きだって、口癖のように言っていたのを思い出します。

 ごぞんじの通り、わたしは逆に夏が好きだから、日ごとに陽射しが強さをまして、周囲の緑が色あざやかになっていくのを見て、ワクワクした気持ちをおさえきれません。

 けれど、今年はそれほどでもないみたい。というのも、前回送った手紙の内容通り、このお屋敷に閉じ込められたような日々が続いているせいです。

 まるで籠の中に閉じこめられた小鳥のような気分。自分の意思でそこから出て、外を飛ぶことがゆるされないのです。

 明るく輝いている庭の景色を窓ごしにながめなら、心は沈んで憂鬱になるばかり。

 このあいだ、ついにそんな状態に耐えきれず、薫さんにうったえてみたけれど、わらってばかりでまともにとりあってはくれませんでした。こういう生活にも、そのうち慣れるからって、そう言うばかりで、なんだか邪険にあつかわれているようで、いい気はしない。彼にはじめて不信感をもってしまいました。

 時間が解決してくれる問題なのかしら。わたしがわがままを言ってるだけ? 我慢して慣れていくしかないのでしょうか?

 ああ。浩樹さんや、学生時代のお友達に会って、せめて気晴らしでもできればいいのだけれど、そんなことすらもなかなか許可がでずに、自由に出歩くこともかなわない。

 これが普通なのかしら? こんな状況がこれ以上続いたら、わたしはおかしくなってしまうかもしれません。

  瑠奈より  七月十二日


●浩樹の日記

 七月十六日

 瑠奈から手紙が来た。一読しておどろいた。まったく、なんてことになっているんだ。籠の中の鳥? お屋敷に閉じこめられたまま、自由に外へ出ることもできないとはどういうことだ。

 朱雀家。薫の一族が時代錯誤な考えをもち、風変わりであることは、うわさには聞いていた。けれど、まさかここまでとは思わなかった。

 江戸時代以前の名家のお姫様でもあるまいし、現代の日本において、あまりにも常軌をいっした生活だ。

 と同時に僕は責任を感じずにはいられない。というのもそもそもが、瑠奈に薫を紹介したのは他ならぬ、僕だったからだ。

 しかし別に、二人をこうして結ぶつけようと考えていたわけではない。むしろその逆だ。できれば、瑠奈と薫とを引き合わせたくなかった。

 しかし、あの日、薫が訪ねて来た時、家にはちょうど瑠奈がいて、二人は僕の意思と無関係に顔を合わせてしまったのだ。となれば、互いを紹介をしないわけにはいかなかった。もちろん、その後、ひどく後悔したのは言うまでもない。

 瑠奈の薫を見つめる瞳、そこには恋におちた者特有の、夢見るようなうるんだ光がやどっていた。

 薫はただそこに立っているだけで、自然と女性を惹きつけてしまうような、独特なオーラを生まれつき身につけている男だった。ルックルもよく、服装、身につけている物も高価でセンスのいいものばかり。何よりも、家柄がよかった。

 とにかく女というやつは、家柄というものに弱いようだ。御曹司のおぼっちゃんと聞いただけで、一気に好感度が上がってしまうものらしい。

 まさか瑠奈はそんな軽薄な女じゃないと思っていたけれど、結局、瑠奈もその点では、他の女性と大差なかったようだ。

 そして薫の方もまた瑠奈に好意をもってしまった。そうとなれば、相手が友人の妹だろうと、遠慮するやつじゃない。いつの間に連絡を取り合ったのか、数日後には恋人同士になっていたのだ。

 それを知って、はっきり言って不快だった。薫は友人としては、知的な会話のできる好もしい相手だったが、正直腹を割って話せるような、親友という存在ではない。むしろその人間性においては、嫌っていたかもしれない。尊大な態度、冷酷な一面、キザな物腰。それらがどうにも鼻につき、好きになれなかったのだ。僕のまわりの男連中もほとんどが薫にたいし、そう思っていると思う。

 けれど女性からみると、そうした面が、ことごとく好ましく映るようなのだ。だから薫の横にはつねに、新しい女性がいる、そんな感じだった。

 そんなスケコマシ野郎が、大切な妹である瑠奈と交際するなんて、ゆるすことができなかった。けれど瑠奈の方が相当に夢中になってしまったようで、どうあっても僕の忠告を聞き入れようとしない。

 しかたがない。どうせすぐに、薫が浮気するとかで破局するだろう。そう考えて静観を決めこんだ。

 それがまさか、結婚することになるなんて。これにはさすがに強固に反対した。あからさまな罵詈雑言を二人に浴びせ、無理に引き離そうとさえして、「わたしが好きになった人に、どうしてそんなひどいことを言うの?」と瑠奈に泣いて抗議されたこともある。

 でもどうしても嫌だったのだ。瑠奈が薫の妻になるなんて。悪い予感しかしない。

 けれど結局、瑠奈の心を変えることができないまま、二人はほどなくして結婚してしまった。

 華やかで、そして不気味な(僕にはそうとしか見えなかった)結婚式が終わり、瑠奈は家を出て、朱雀家に嫁いでいった。

 それから数ヶ月。僕のところにまいこんできたのが、例の瑠奈からの手紙というわけだった。

「わたしはもうこれ以上、耐えられない」瑠奈はそこに、そう記している。兄として放っておくわけにはいかなかった。


●電話での会話

「もしもし」

「わたし……」

「瑠奈か、瑠奈なんだね?」

「そうよ。浩樹さん、瑠奈よ」

「よかった。あれからどうしてるか、心配してたんだ。朱雀家に電話しても、いつも用事があるとか言われて、つないでくれないし」

「そうだったみたいね。知らなかった」

「知らなかったって?」

「大きいお屋敷だから、わたしのところまで、ちゃんと話が伝わってこないのよ」

「そんなものなのか?」

「そう。偶然に使用人の方から、電話があったと聞いて、こちらから掛けているのよ」

「ふーん。それにしても瑠奈、声が暗いな。まだ事態はよくなっていないんじゃないか? もらった手紙には、耐えられないとまで書かれていたけど」

「……そう、そのことなの。じつはあやまっておきたいと思って」

「えっ?」

「心配させたみたいで、ごめんなさい。あの手紙を書いていた時、わたし、どうかしていたの。情緒が不安定だったのね。昔からそういう時期があったでしょう?」

「ああ、それはそうだが……」

「新しく家族の一員になるのって、思った以上に大変なことよ。わたし、甘く考えていたみたい。そのストレスから、ちょっと鬱になっていたのね。浩樹さんに手紙を書いたあとで思い切って、お義母様に相談してみたの」

「うん」

「たまっていた色々な不満や悩みを打ち明けたら、やさしく聞いてくださって。いっけんきびしく見えるけど、実際はとても包容力のある方なのね。安心なさい、最初はわたしもそうだったから、とおっしゃって。今後も何でも話してちょうだいなんて、受け止めてくださったの。思わず泣いてしまったわ」

「そ、そうなんだ」

「お母様があいだを取り持ってくれて、親戚の方とも、徐々に話をするようになって、親しくなりつつあるし」

「薫の方はどうなんだ?」

「薫さんとも、二人きりゆっくり話す機会があって、誤解がとけたわ。仕事が忙しかったようなの。それですれ違いがおこっていたみたい。今では彼も気をつけて、二人で過ごす時間を作ってくれるようになったわ」

「……」

「だからもう大丈夫、心配してくれなくてもいいのよ。電話をかけて確かめる必要もないの」

「そうか、わかった。瑠奈がそう言うのなら。でも、できれば電話じゃなく、じかに顔を見て話したいな。そうだ、今度近いうちにこっちに戻ってこいよ。オヤジもさびしそうだし。そのくらいの自由はゆるされるんだろう?」

「……残念だけど、今はまだ無理そうね。帰ることはできないわ。わたしは朱雀家に嫁いだ身ですもの。出戻りみたいなそんな勝手なことしないほうがいいと思うの」

「でも……」

「大丈夫。わたしは平気よ。お父さんには元気だからと伝えておいて。じゃあ、浩樹さん、ごきげんよう」


●浩樹の日記

 七月十八日

 突然に掛かってきた瑠奈からの電話。大丈夫だ、と瑠奈は念をおすように、何度も口にしていたけれど、その言葉を鵜呑みにすることはできない。

 なぜなら、受話器を通して聞こえるその声の、かすかに震える末尾。それは内心の動揺をおさえているせいだと思われるからだった。そう、瑠奈は本心をいつわっている。

 それが当たっているとしたら……大変なことになる。瑠奈は朱雀家から、何らかの圧力を受け、嘘をつくように強要されていると考えられるからだ。

 けれど、それはあくまでも僕の推測に過ぎなかった。心の底で、瑠奈に帰ってきてほしい、という願望があるから、そう聞こえるだけなのかもしれないのだ。

 わからない。今はとにかく、どうすることもできなかった。しばらく様子をうかがうしかなさそうだ。

 でもこれだけは言える。大事な瑠奈を傷つけるようなことをしたら、僕は決して薫を、朱雀家をゆるさない。


●ICレコーダーによる録音された会話

「よお」

「ひさしぶりだな、お義兄さん」

「やめてくれよ」

「ふふっ、いいじゃないか。本当にそうなんだから」

「薫に兄さんなんて言われると、ゾッとする」

「ご注文よろしいでしょうか?」

「あ、じゃアイスコーヒーで。浩樹は?」

「コーヒー、ホットで。……ところで。ここへ薫を呼んだのは他でもない、瑠奈のことで聞きたいことがある」

「というと?」

「夫婦として、うまくやっているのか?」

「もちろんさ。何だい、そんなことを確かめたくて、呼び出したりしたのか?」

「うん、実をいうと、瑠奈から手紙をもらったんだ。そこに気になることが書かれていた」

「知ってるよ。屋敷にいるのが耐えられないとか、そんなことをうったえていたんだろう?」

「心当たりがあるのか?」

「改めて話し合って、すでに解決済みさ。新しい家族になれていなくて、ちょっと精神状態が不安定になっていたんだ。でも心配ない。瑠奈は落ち着きを取り戻したよ。おふくろや、まわりの人たちにも事情を話して、進んで話しかけてくれるように頼んだし、じょじょに慣れていくだろう」

「そうか、でも実は、僕にはそうとも思えなくてな」

「おい、変な言いがかりはやめてくれ」

「お待たせいたしました。ご注文のコーヒーです」

「ああ、そこへ置いてくれ」

「言いがかりじゃないよ。あの後、瑠奈と電話でも話したんだ。僕が大学で心理学を学んでいたことは知ってるだろ?」

「ああ、そうだったな」

「受話器を通して聞いた瑠奈の声は、震えていた。それは心にもないことを言っていたからだ」

「何を言い出すかと思えば。そんな単純な理由から疑われても困るな。そもそも浩樹は心理学の基礎を学んだだけだろ。別に専門家というわけでもないのに、そんな意見、説得力も何もないぜ」

「そうかもしれない。でもな、子供の頃から一緒に育った瑠奈の心理状態なら、僕には声を聞いただけでわかるんだ」

「いいかげんにしてくれ! 当てこすりもいいところだ。お前は大きな勘違いをしているぞ。それに瑠奈はもう北川家の娘じゃない。れっきとした朱雀家の嫁なんだ。いちいち干渉するのはやめてくれないか」

「何をっ、よくもそんな!」

「どうして瑠奈のことになると、そんなにむきになるんだ? 以前からそうだったな。もしかしたら、おまえはやっぱり瑠奈のことを……。何しろ、おまえら兄妹は血がつながっていないから……」

「やめろ!」

「おいおい、怒るなって。落ち着けよ。こんなところで喧嘩する気はないんだ」

「……」

「ほら、座れって。コーヒーでも飲んで落ち着け。あっ、すいません。何でもありませんから」

「……とにかく、一度、瑠奈に会わせろよ」

「ふーっ。わかったよ。いいさ、今度家に来るといい」

「朱雀家へ?」

「ああ。そこで瑠奈と会って、気の済むまで話せばいいさ」


●資料

 スザク・コーポレーション。

 江戸時代より、町の薬局屋として生計をたてていた朱雀家は明治時代、朱雀清一の代において、新薬製造の分野に手をひろげる。

 数年後、発表した皮膚疾患薬が好調な売り上げを記録し、株式会社化を果たす。その後も優秀な人材を集め、新薬の開発につとめ、いくつかのヒット商品を生んだ。 

 途中、二度の大戦をはさみ、多少の浮き沈みはあったものの、右肩上がりに業績を伸ばし、日本はおろか世界各地に生産工場を持つ、大企業にまで成長した。

 平成時代にはいると、製薬だけでなく、バイオ工学、遺伝子治療などさまざな分野に事業内容を拡張し、いずれも大きな成果をあげ、さらに現社長である朱雀伊知郎は、政治的手腕を発揮して、政界、経済界、芸能界など、多くの著名人とのコネクションを持ち、人脈をひろげている。

 現在、スザク・コーポレーションは、日本を代表する世界的一大企業になっている


●洋子著 「籠の中の乙女」より

 洋子はひどくおびえていた。不気味な音ががするのだ。窓の外、庭の方から。

 時刻は真夜中である。さきほどから気になっていたけれど、怖さが先にたち、その音の元を確かめることができずにいた。

 何しろこの広い部屋に、洋子は今ひとりきりなのだ。震える体、高まる鼓動。あおざめるくちびる。

 庭からの物音はなおも止むことはなかった。むしろ、時間とともに、騒がしくなっていくようだ。ガサガサガサ。植え込みの間をうろついでてもいるのか、葉のこすれ合う音が響き渡る。

 次第に洋子は、ただおびえているばかりの自分が情けなくなってきた。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざの通り、実際には、その音の原因は迷い込んだ野良猫とか野生のタヌキだとか、そんなものに過ぎないかもしれない。

 意を決して立ち上がり、窓に近づいていく。厚い木綿のカーテンをひいて、わずかな隙間を開けると、外をのぞいた。

 ぼうっとしたかすみがかった三日月の、弱々しい明かりに照らされた庭。やはり、そこには何かがいて、うごめいていた。

 けれど、それは猫やタヌキなどではない、もっと大きな、人間の姿をしていた。

 誰だろう? どうしてこんな時刻に?

 そしておぼえる違和感。というのもそのシルエットはたしかに、人の形をしてはいたけれど、どうしても普通ではなかったからだ。

 大きく前かがみになった姿勢、ノソノソと全身を揺らすその歩き方、そして全身をおおうフサフサとした、毛? あれは……体毛?

 その姿にもっとも近いものといえば、ゴリラ? だろうか。動物園から逃げ出してきたのかもしれない。

 いずれにしても非常事態だ。誰かに知らせた方がいい。

 洋子は窓をはなれ、ドアに駆け寄ると、ノブをつかみ、ひねって開けようとした。が、ドアは開かない。

 ガチッ、ガチッ、ガチッ。

 部屋の外側から鍵がかかっているようだ。??? 洋子は困惑した。というのも、そもそも、この部屋のドアに鍵などついていなかったからだ。それなのに、今、それは何かによって固く施錠されている!

 何度も、ノブをひねって、引っ張り、押してみても、頑丈なスチール製のドアはびくともしない。

 洋子は声をあげ、屋敷の中にいるはずの人達を呼んだ。

「開けて! ここを開けて!」

 そして荒々しく、ドアを叩く。

 すると背中に異様な視線を感じて、動きをとめた。身をひるがえす。窓の向こうに、それは迫っていた。洋子のたてた物音が、それの注意をひいてしまったらしい。

 洋子は目を大きく見開いて、その場に凍りついてしまった。ガラス一枚をへだてた外に立つ、そのものの異様な姿におどろきをかくせない。

 暗闇の中で、はっきりとはわからない。けれど毛むくじゃらのその顔は、人間でないことは確かだった。けれど、一概に獣だとも断定はできない。というのは、ギラギラと光をはなつ二つの瞳、それはこちらに何かうったえかけるような、知性が宿っているように見えたからだった。

 次の瞬間、それは口を開けた。そこに並ぶ歯は、すべて鋭くとがって、まるで牙のようだ。

 洋子は我が目を疑った。そんなこと、あり得ない。それは現実に存在しない、あくまでも想像上の生き物のはずだった。

 狼男。まさしく、その姿は狼男そのものだった。

 遠吠えのような、咆哮を聞いたような気がする。わからない。その直後、洋子は気をうしなってしまったからだ。


●ICレコーダー

 ガチャ(ドアを開ける音)

「瑠奈、元気だったかい?」

「ごきげんよう。浩樹さん」

「さあ瑠奈そこに座って、お兄さんに元気な顔を見せてあげるんだ」

「はい、薫さん」

「瑠奈、どうなんだ、調子の方は?」

「調子……」

「瑠奈、お兄さんはね、君の体のことを心配してるんだよ」

「体、いい」

「僕に手紙をくれたね? そこにはお屋敷にいるのが耐えられない、とそう書いてあった。だからずっと気がかりだったんだよ」

「……」

「瑠奈、お兄さんはね、君が出した手紙のことを言ってるんだよ。おぼえてるだろ。手紙だよ」

「手紙」

「でも、もう大丈夫なんだよね。ストレスからちょっと、心が不安定になっていただけなんだ。そうだろう?」

「そう」

「今は何ともない。何しろ俺がついているからね」

「そう」

「なあ、薫、悪いんだが、せっかくこうして訪ねて来たんだ。兄妹二人きりにしてくれないか。何ていうか、うるさいんだよ」

「おい、失礼じゃないか。俺たちは夫婦なんだぜ。一緒にいて何が悪い?」

「ひさしぶりに会ったんだ。二人きり水いらずで話したいことだってあるんだよ」

「ふん、まあ、いいだろう。でもくれぐれも瑠奈に変なことを吹き込まないでくれよ」

「僕が何を吹き込むっていうんだ?」

「おお、怖い。じゃあな、ごゆっくり!」

 バタン(ドアを閉める音)

「瑠奈」

「……」

「これで邪魔者がいなくなった。だからもう遠慮することないんだぞ。本音を聞かせてくれ」

「……」

「どうなんだ、本当のところは? この屋敷にいるのが嫌なんじゃないのか?」

「ううん」

「本当か?」

「ええ」

「じゃあ薫が言ったように、ストレスから心が不安定になっていただけだっていうのか?」

「ええ」

「家族はやさしくしてくれるんだな? いじわるされたりしてないな? 薫は大切にしてくれるのか?」

「ええ。みんなやさしい」

「……」


●浩樹 日記

 八月二日

 今日の午後、瑠奈に会うために、僕は朱雀家へおもむいた。広大な敷地を持つ、お屋敷を前にして、あらためて圧倒されてしまった、というのが正直な感想だ。

 大げさなアーチ型の正門をくぐって、中にはいるとお城のようなお屋敷がそびえていた。噴水があり、彫像が立って、そのバックにはあざやかな緑の森がうっそうとしげっている。まるで別の世界に紛れ込んでしまったような錯覚をおぼえる。

 そんな僕を迎え入れてくれた薫は、その慇懃な態度とは裏腹に、明らかに迷惑そうな表情を浮かべていた。けれどそんなことで遠慮する僕ではない。気にすることもなく、案内された応接間のソファにふんぞり返って座ってやった。

 お屋敷内もまた、ロココ調でそろえられた家具や、調度品、全てが一流品でまとめられて、豪勢の一言だった。世界に名だたる一流企業の本宅ともなれば、それも当然なのだろうが、こんなところに、自分の妹が嫁いでいった、という現実に改めて戸惑いをおぼえずにいられない。瑠奈はもう、一般庶民に過ぎない僕らとは、住む世界が違うのかもしれない。

 とはいえ、瑠奈がここから逃げ出したいと、そう望むなら、何としても連れ帰る。その気持ちに変わりはない。それが兄としての務めだ。

 しばらくして、薫に引き連れられるようにして、瑠奈があらわれた。結婚式を挙げた日以来、実に四ヶ月ぶりの再会だった。

 しかし、そこで交わされた会話は、決して実りのあるものではなかった。何よりも、久しぶりに会ったというのに、うれしい顔一つしないことに落胆してしまった。

 それに加えて、よそよそしい態度。まるで感情をなくしたみたいに、冷たい瞳。返答はどれもそっけないものだった。その様子はまるで、隣に座る薫に操られた人形のようだ。

 ……とここまで書いて、はたと思い至った。

 操り人形?

 その想像にゾッとした。まさか、そんな。ちょっと待ってくれ。もう一度、録音された瑠奈との会話を聞き直してみる。

 

 閑話休題。

 

 聞き直してみた。やっぱり思った通りだ。

 瑠奈の言動、その声の調子は、催眠状態にある人間のそれだった。薫に誘導されて、まるでオウムのように言葉を返しているだけだ。

 いったいどうやって、瑠奈をあんな風に? 催眠、催眠薬。そうだ、そんな薬があったことを思い出す。

 カルピナル錠。

 それは数年前、スザク・コーポレションから、新しい睡眠薬として発売されたものだった。けれど副作用として催眠状態におちいることが判明して、すぐに発売中止にされている。

 瑠奈はそれを飲まされ、操られていたんじゃないだろうか? あり得る。スザク・コーポレーションの倉庫には、まだたくさんのカルピナル錠の在庫が眠っているに違いないのだから。


●資料

 カルピナル錠

 大人一人につき二錠、水と共に服用してください。三十分ほどで眠りにつくことができます。この効果は六時間ほど続きます。


 後に副作用が判明。

 服用した者は、しばらくすると酒に酔った時と似通った酩酊状態におちいる。しかし意識はあり、立って歩いたり、簡単な受け答えはできる。暗示にかかりやすくなり、人によってはまるで、操り人形のようになってしまう。

 薬の効き目はその後、五、六時間ほどで解けるが、軽い頭痛、めまい、意識混濁がしばらく残ることがある。

 

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