早朝
職人の朝は早い。
早朝に起きる義務は職人の息子に生まれてきた運命なのでしょうがない。
重いをこすり、階段を下りた。朝起こされる際にぶたれた跡が痛み、ふと頭に手をやると少しコブができていることが分かった。
「やっと起きたか、使えねぇやつだな」
商品の在庫確認をしながら父がこちらを見ずに言ってくる。
ため息をしていることが背中から伝わった。
ここ、「ジュエリー・グレイス」はこの街に多く存在する宝石店の1つだ。「グレイス」というのは一族代々に継がれている姓からとっていると聞いたが、どうにも好きになれなかった。
「早く開店の準備を…お前まだ寝巻きのままじゃないか!もう一度ぶたれてぇか!」
何度も言われ慣れたその言葉に、もう恐怖心もなにもかも感じなかったが、身体に刻みつけられた痣が急いで着替えを済ませるよう催促した。
もう何年も前から名前を呼ばれていない。
身体は比較的丈夫なほうなので、暴力には耐えることができたが、こう何年も同じ環境が続いていると気がおかしくなりそうだった。
階段を上る度に太ももが痛む。
痛むのか…?
「これ、いつできたやつだっけ」
痛みというよりは違和感の方が近い。
早々に店を出ていけばいいだけの話なのだが、この店には母と父との思い出が沢山ある。あれはあれで昔はいいひとだったのだ。度重なる暴力は母が死んだのが原因だった。周りから見たらもう父とは呼べないだろうが、あれの気持ちが少しはわかる身としては離れるわけには行かなかった。
離れてはならないと思っていた。
少なからず愛が残っている、そう確信していた。
ボロボロになった布を部屋に脱ぎ捨て、店の正装をまとう。母が死ぬ前に買ってくれたもので唯一残っているものだった。
ネクタイをしっかり占めたのを確認した後部屋の扉を閉じて階段を下りる。
急いで降りてもゆっくり降りてもどうせ怒られると思っていたため父親の居場所を探しつつ静かにゆっくりと足を動かした。
床の軋む音が聞こえる。父の音にしては少し軽いように感じた。
客が来ているのかと思ったが、よく考えたらまだ開店時間前だ。
うちは宝石店、その音の主が招かれざる客であると推測するのに時間はかからなかった。身を低くして音の方向を探す。
奇妙な音の主はどうやらまだ入り口近くにいるらしい。
「ジュエリー・グレイス」は入り口のドアを開けてすぐに商品が並んでいて、その少し奥の階段したに商品の会計場が設けられていた。そのため、目的は現金ではなく商品であることがわかる。
「……1人…?」
こういった客人のために、会計場の横には鉄製の棒が用意されている。
「お客さん、まだ開店時間前だよ」
それを後ろ手につかみながら、あくまで間違えて入ってしまった客に対応する従業員、という風に声をかけた。
対して声を掛けられた相手はフードを深くかぶったままこちらに気付いたような気配を見せた。
(明らかに怪しいだろ……)
握る力を少し強めた。
「ここに、ダリルという名の男はいる?」
奇異の目線を向けられてもなお、相手は冷静に答えた。女の声だった。
「ダリルはうちの父…店主だが?というかまだ準備中なんだ。訪問ならあとにしてくれ」
途端、相手の顔色が明るくなったのが、フードの上からでも十分にわかった。
一応自分もこの店の従業員のため、得意先くらいは理解しているつもりだった。
よく見るとそいつは身体の線が細い。
だいたいうちに来るような客は富裕層が多く、皆身体がよく肥えていて、指輪だの首飾りだのをジャラジャラつけているため、それ以外の客は材料の仕入れ先の人か、盗人である。
もっとも、仕入れは全て自分がやっていたため、今は後者の方が正しいだろう。
「これは、失礼しました。」
相手が予想よりはるかに異なることを言われたために、思わず挑発してみる。
「まだ何も盗ってないだろ?宝石店に入って手ぶらで帰るなんて盗賊の名に泥がつくぞ?」
言われ、その訪問者は背中を向け帰ろうとしたのをやめ、こちらを向いた。
首をかしげた。
どうやら伝わっていないようだ。
「盗みに入ったんじゃないのか?」
ふと、少女はあたりを確認しだした。
「……あんたのことなんだけど。」
いらいらしてきた。頭が良すぎる客というのはどうにも扱いにくいものだが、ここまで悪いというのもまた厄介である。
いや、もしやわざとわからないふりをしているのか、という考えが頭をよぎったが、そんなことはないようだ。
対して少女はまるで頭が悪いものを見るような目でこちらをじっと見つめ、首をかしげていた。
「なぁ、あんた、本当に開店時間を間違えただけなのか?」
少女は即座に首を縦に振った。
もし仮にこれが演技なら相当手練な盗賊に目をつけられたものだ。
「では、また改めて伺いますので、店主さまにはよろしくお伝えください!」
居づらくなったのか、こちらに小刻みにお辞儀をしてすぐに振り返り、入り口の扉のドアノブに手をかけた。
扉を半分開けてから、身体を静止させた。
「なんだよ」
「あの、えぇと、一応お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
少女が半身をこちらに向けて問いかけた。
「あんたの名前は?」
「質問に質問で返さないでください」
名前の知らない少女が、口をむっとさせて返してくる。
「人に聞く時は、自分からだろ?親に教わらなかったか?」
まぁ、自分も教わったことがないのだが。そんな言葉を聞いてか聞かずか、ますます頬を膨らました彼女が手に力を込めて言った。
「月宮灯です……。ほら、あなたは?」
聞かない名前だ。ここら辺の生まれではないらしい。かなり深めにフードをかぶっているためわからなかったが、おそらく東の生まれだろう。得意先の帳簿に似たような名前を見たことがあるが、なんという名前だったか…ともり、月宮 灯……。
長考を始めようと思ったところで名前を聞かれたことを思い出した。
思い出したというよりも、無理やり現実に引き戻されたという表現が正しいだろう。
若干空きっぱなしの扉の前でドアノブをつかんだままの灯が声をかけてきた。
自分の名前を聞かれることなどほとんどない上に、人に呼ばれることも無いため、思い出す作業にに手間取ってしまった。
また何かいらぬことを言うつもりか?と言いたげな視線を感じる。
早く言わねば。
「アル……アル・グレイスだ。」
「ある…アル…。」
どうやら機嫌は損ねなかったようだ。こちらを見たまま小さな声で何度も復唱している。
「じゃあ、アルさん。また改めて伺います。」
そう言うとやっとこちらに背中をを向け、少し開けたドアの隙間から出ていった。
カチャッと静かに扉を閉める音が店の中に響き渡る。
きちんと姿を見られていないが、おそらく自分よりは年下だろう。そんな者が、しかも女性がうちに何の用だろう。買い付けの交渉ではないことはなんとなく、それまでの客層からわかっていた。
父の名前も知っていたようだが、あの様子からうちの店の場所がわからず探していたことが想像できた。
商品ケースにかけられていた布をとり、丸めて会計場の隣にある棚に入れながら、アルは考えていた。
ふと、父の姿が見あたらないのに気がついた。このことを言うべきか。大半の接客はアルが行っていたため、経験上こういった類は厄介事であるような気がしていた。
壁にかかっている時計を見て、まだ開店時間前であることを確認する。
そこで父が先ほど確認していた商品の在庫を思い出し、もう一度自分の目で確認しようと、階段下の木箱に向かう。
外から確認した雰囲気で宝石の類ではないことが分かった。全体的に汚れていて傷の目立つ木箱だった。
道具でも買ってきたのだろうか、と思ったところで急に背中になにかが激突したような感覚が走った。
大きな怒鳴り声が聞こえる。
即座に、父が帰ってきたこと、自分が触れていたものが開けてはいけないものだったことを理解した。
まったく、蹴る前に先に注意して欲しいものだ。
ゆっくりと身体を起こし、背中についているであろう足跡を確認せずに、手ではたき落とす。
いつの間にか木箱がなくなっていた。よほど大事なものだったのだろう。どこかへ持っていく足音が聞こえる。
このタイミングで来客が来ていたことを教えても、おそらくちゃんと聞いてはくれないだろう。
外からは街の騒がしい音が聞こえ始めていた。客引きの声が聞こえる。
「そろそろか…」
背中の痛みとともにアルは、扉の前に行き、閉店中の板を裏返した。