075 クラリス登場!
僕は力を失って、だらりとしていくクドの体を懸命に抱きなおした。
深い深いため息を吐いた。
彼女の顔からは先ほどまでの恐怖は感じない。
とりあえずの危機は脱したようだ。
それを見て、ようやく呆然と今までの光景を眺めていたクラリスさんが、
「な、なんだったの……今の……」
と、表情筋を動かすことすら忘れて囁いた。
「それに」
と、何かに慄くように指を指す。
指示したのは。
僕の。
腕。
「なんなの……その腕」
気が付いてはいた。
だけど気が付こうとはしなかった。あえて、触れないようにと思っていた。
だが、触れずにはいられない。そう彼女は思ったのだろう。
呻くように、
「そ、それ……それは一体……なんなのよ」
と、僕を見やってから立ち上がる。
何とも言えないような表情で、
「う、腕だけじゃない……足も体も……か、顔にまで……」
「え」
そこまでは気が付かなかった。
どうやら、この。
この腕全体に走っているまだら模様のような黒い蕁麻疹は僕の体全体にまで及んでいるらしい。
少し驚いた。
少し。だけ。
危機感が足りないと取られるかもしれない。だけど僕にはどうでもよかったのだ。この子が無事ならそれで。みんなが何ともないのなら、それで。
僕はクラリスさんの方を見ようともせず、ただ黙ってクドを抱きしめ続けていた。その寝顔を見て、ひどく安心していた。
やがて、
「あれ?」
クドを抱きしめていた腕からまだらが消え、腕に生気が戻る。
「消え……た?」
発したのはクラリスさんの方だった。僕は腕の裏表を確認して、
「は、はは。やっぱり大丈夫だったみたいだ。ほら……もう何ともないよ」
その腕をクラリスさんの方へと見せた。
クラリスさんは腕をちらりと見てから苦しそうに俯いて、考え込んだ。そして独り言のようにぼそりと、
「今の……まるで……流行り病……、悪疫……」
「悪疫……」
「それに……どうして消えたの?」
もう一度僕を見て、
「ううん」
首を横に振る。
やがて、クラリスさんは自分に言い聞かすように。そして僕に答えを求めるようにして、
「見間違いだったと思う?」
「……きっと」
すごく曖昧な答えだった。答案としては最悪だったと思う。だけれども、そう思いたいという心が二人の思考を停止させる。
そんなはずがないのに。
心の内ではそう感じているのにも関わらず。
二人とも。そういった意味では子供であった。
そして。
「……ありがと」
「え?」
突然の言葉に僕はあれから初めてクラリスさんの顔を見た。クラリスさんは少し悔しそうに唇を噛みながら、横を向いて。
「正直。正直に言うとね。私……その……死ぬかと思ったの」
「あ」
そこでようやく何に対してのお礼の言葉なのかを理解した。
僕は静かに首を横に振る。
「僕は大したことをしてなんか」
「またそれ」
「え」
今度は呆れるように、
「あんたね。ちょっとは自分のことを認めなさい。あんたは……強い。少なくとも、尻込みして……“悪疫”に怯えて竦み上がってしまうような私よりは……、ね。でも、勘違いしないで。私はまだあんたのことを認めた訳じゃない。今回のことだってもしかしたらまぐれかもしれないってまだ心のどこかで思っているんだから」
そして背を向けた。
「私、今日のところは帰るわ。もう戦う気なんか失せたし、報告しなきゃ。“悪疫”のこと」
「ま、待ってクラリスさん!」
慌てて後ろ姿に声をかけた。すがりつくように、
「お願いだ! このことは黙っていて欲しい。クドのこと。このことは誰にも」
ぴたりとクラリスさんが動きを止めた。
「それは……ごめん。無理よ」
「クラリスさん!」
「私がここにやってきたのは“悪疫”の存在を確かめ、可能であれば討伐すること。それが私の仕事なの……分かって」
「じゃあせめて! せめてここで何があったのかだけは誰にも言わないで……いや、ここでは何も起こらなかった! 僕とクラリスさんはここで何も見なかった! そういうことにして欲しいんだ! お願いだ! クドのことを誰かに言うのは仕方ないって思う。それがキミの仕事だから。それは。それは! でも!」
言葉にクラリスさんは後ろ姿のまま、指を顔にやる。そして、
「……分かった」
こちらへと振り返りながら。
「私は……何も見なかった。そういうことにしてもいい。いい? これは借りよ。私はまた、来る。そこの“悪疫”が危険な存在だって分かったから。私は任務を継続して、ソレを監視する。だけど……私は借りを返すためにソレを一旦、見逃す。結社に報告もしないし、今はあんたの力にもならない。ただ、見て見ぬフリをする。それでいい?」
「クラリスさん!」
震えながら頷いて、少しだけ涙が零れ落ちた。
「ふん」
そう言ってまた、彼女は髪を掻き上げる。
そんな彼女を見ながら、僕は思う。
この子はきっと悪い子じゃない。喧嘩早くて、負けず嫌いで、粗暴を荒い。けれども、きっと。
僕はそっとクドの髪を撫でながら、
「この子が言ったこと、気にしないで欲しいんだ。僕はさ、本気でキミと戦ってた。でも心のどこかでキミのことを傷つけちゃいけないって思って、キミへの攻撃を躊躇っていた。うん。そのことは、本当にごめん。でもキミのことを侮辱する気なんか一切なかった。それだけは信じて欲しいんだ。そして……このことだけはキミに伝えておきたい。僕は思うんだ。勝利だけがすべてじゃないって。勝つこと以外にも大切なことってあるんじゃないのかな?」
僕は目を伏せたまま。
そして彼女は何も言わず。
やがて、踵を返し。
「そう言えるのは……あんたが負けたことがないからよ」
たんっと屋上から跳躍して飛び去る。
飛び去る後ろ姿を一瞥してからもう一度クドの方へと視線を落とす。そっと髪を撫でながら、
「クド……」
ぎゅっともう一度抱きしめ。
「……誰が何と言おうと。僕はキミのことを“悪疫”だなんて思わないよ。今までも……これからだって」
その表情は少し。
「キミは……変わるんだろう……?」
ほんの少しだけ悲し気なモノだった……。




