073 クラリス登場!
クラリスさんが英語を叫びながらクドに飛び掛かっていった。
極細の鋼糸が空をずばずばっと切り裂いていく!
「く!」
あの時と同じだ。
初めてクラリスさんに逢った時の夜と同じ。
かまいたちのような風を切り裂く音が炸裂。そしてその音がだんだんと大きくなっている。
そして、その音は僕ではなく。
給水タンクの上で僕のことを応援してくれていたクドの元へと忍び寄っている。
僕はほとんど無意識に。
「キミの相手は僕だろう! クドを巻き込むな!」
飛んだ。
クドの元へと飛び、今にも襲い掛からんとしているクラリスさんよりも早く。
「!」
驚いたのは一人だけだった。
自分よりも早く目の前に現れた僕に驚いて。
クラリスさんが顔を歪める。
「この!」
クラリスさんは右手を小刻みに動かして、鋼糸の軌道を操作。しゅぱしゅぱ、と屋上の金網や机の脚が切り落とされている。触れれば危険。そんなことも分かっていた。
だが。
僕は。
「クドは傷つけさせない!」
咄嗟に腕を伸ばして鋼糸を掴んだ。
「うっ!」
伸ばした手から大量の血がどばどば流れた。爪の先が割れ、皮膚が切り傷だらけになって、一本の鋼糸が手のひらを貫通して、鋼糸につーっと僕の赤黒い血が流れる。
しかし。
鋼糸は止まった。
そのことに安堵。痛みなどどうでもよかった。
「だ、だいじょうぶ…………クド?」
「う、うん……」
「そっか」
安心してクドの頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをするとクドのキレイな髪が汚れてしまうと思って手を引っ込める。
意を決して。
鋼糸が貫通した手のひらを逆の手で下に引っ張る。
「――――っ!!」
言葉にならない痛みが全身に走る。鋼糸が手のひらから抜けて、そこから溢れるように血が零れ落ちた。
ぽたぽたと血がとめどなく流れる。給水タンクの前に置かれた机の周りが血で染まっていく。
そこでクドがハッとして、
「ご、ごめん! わたしのせいでカナタが怪我を!」
「え。い、いや~別に大したことないし、気にしないで。あ、それよりもクドの方こそ平気?」
「う、うん。わたしはだいじょうぶ。でも……カナタの手、結構切れちゃってる……」
「あー。うん、まあ。ははは……」
僕は軽く笑って、なんてことないよ、と。
手を振って見せた。
手を振るたびに痛みが走る。
実際、手は思い切り切れてじゅくじゅくと傷口が今も広がっているのが分かる。だけどそんなことはどうでもよかった。クドが無事なら。それで。
と。
その時。
「あ……」
クラリスさんが僕の前にいつの間にか立っていて、拳を握って、わなわなと震えていた。憎悪に震え、彼女は僕を見据え、
「あんた! あんたあんたあんた!」
机でよろめく体を支えながら吐き捨てる。
「あんたどこまで私をバカにすれば気が済むのよ!」
「え? い、いや……な、なんのこと?」
「バカにしないでよ!」
「ば、バカになんて……」
だんっとクラリスさんが地面を強く踏み込んだ。そこから霊力の波が流れた。
そして。
(え……)
クラリスさんの瞳から大きな涙が零れ落ちた。その滴は頬を濡らし、滴り落ちて、地面を濡らす。先ほどまでのクラリスさんとは打って変わり、まるで無防備な子供のような顔で泣き出してしまった。
ぽろぽろと涙を流しながら、
「そ、そいつの言う通りだった! あんた……アレ、わざとだったんでしょ!!」
「あ、あれ……?」
「熊のパンツのことよ! ああやってバカみたいなことを言って! 私の気を逸らすのが目的だったんだ! 私はそれがただの偶然だって思ったのに、思ってたのに! あんたはそれが分かってた。分かって言ったんだ! ああやれば隙を見せるに違いないって! 心の中で私のことをバカにして! ふざけないでよ!」
「え! な、なんでそうなるんだよ! あの時は僕、動けなかったんだよ? それはクラリスさんが一番よく分かっているはずでしょ! あれは……その、事故。事故なんだよ。クラリスさんの攻撃をかわせたのだって本当に偶然で……」
「嘘をつくな!」
手の甲で涙を拭う彼女を見て、すごく慌てた。
何を言っているんだ、この子。あれが狙ってやれるようなことかどうかぐらい誰だって分かりそうなものなのに。
それに。
どうして泣いているんだ?
「あれが事故だとしても。ラッキーだとしても。それは事故じゃない!」
「そ、それって……」
「あんた! 私の攻撃を難なく止めたじゃない! わ、私がこれまで生屍人や吸血鬼相手に何回もやってきた私の最強の攻撃を! たったの片手で! それも初見の! あんたみたいなヤツに!!」
「な、難なくはないよ! ほ、ほら! 見てよ。手がすっぱり切れてる! クラリスさんの攻撃はちゃんと効いてるよ!」
「それが何よ! 普通なら細切れになってるはずなのに、手が切れるだけで終わってる! そんなの意味ないじゃない! 私は勝たなきゃいけないのに! 誰よりも強くならなきゃいけないのに! ついこないだ吸血鬼になったばかりの相手に、こんな簡単に止められて! な、なんなのよ! 私がこれまでやってきた経験は一体何だったってのよっ!!」
「あ、あのね……」
「それにあんたは一度だって私に攻撃をしてこようとしなかった! たったの一度もよ! あんたが攻撃したのは左手の鋼糸だけ! 私には直接攻撃してこなかった! あんたほどの実力があればいつでも私を殺せると思ってるってこと!?」
最後に目尻に浮かんでいた涙を力強く拭うと、彼女の瞳に再び光が宿った。
「舐めないでよね!」
彼女の右手に霊力が宿る。
「あんたなんかあああああああああああああ!!」
彼女は右手を大きく振り絞って、今にも殴りかかろうと飛び掛かって来た。
僕には分からなかった。
彼女がどうして僕のことをそんな風に言うのか。
全てが偶然なのに。
だけど、どうして彼女が泣きじゃくって、喚いて、駄々っ子のような態度で僕を殴ろうとしているのかだけは分かってしまった。
彼女は僕の行動の全てが。
自分を侮辱されたように感じてしまったのだ。
自分にそんな意図は一切ないのに。
なので。
僕は。
黙って殴られようと思った。
それで彼女の気が済むのならば。
甘んじて。
その罰を受けようと思った。
僕は誰かが傷つくのを見ていられない性格だった。
誰かが傷つくぐらいなら。
自分が。
そう思ってこれまで生きてきた。
きっと。
これからも。
そうやって生きていくだろう。
自分ながら損な性格だとは思う。
だけど。
この生き方だけは変えられない。
いや。
――変えてはいけないような気がするから。
と、目を瞑りかけて。
そこに一人の少女が割って入る。
それはクドだった。
「く、クド!」
危ないと思って手を伸ばし。
「う!」
激痛が走る。
伸ばした手が鋼糸が貫通した時よりもひどい痛みに襲われ、思わず手を引っ込めた。
「クド?」
僕は彼女を見やった。
そんな彼女は、どこまでも冷たく。どこまでも低い声で。
「なぜ……分からない?」
そう言った。




