005 ボーイ・ミーツ・ヴァンプ
僕たちが話をしていたのは広場に到着する少し手前の道。日中なら犬の散歩コースやジョギングコースの広場のゴール手前付近。そして僕と少女が見つめるのはそこから眺めた広場の一角。広い公園の分かれ道。外灯がちょうど置かれていてちかちかと明滅する光の下。そこに異変がいた。
「なに……アレ……」
「なにって……」
困惑の表情を浮かべる僕に対し、少女は毅然としていた。まるで日常を過ごすみたいに、平然と。
でも、それは。
異変と呼ぶしかないような光景だった。
今まで人と出会うことなく、この公園を進んでいた。
人っ子一人だ。
けれど。
それはまるで大群を為すように現れた。
人。
人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人――――。
公園の舗装された道だけではなく、街路樹が埋め込められた柵の内側にも人が乗り上げ、まるでテロでも起こしそうな勢いで人が群れていた。
な、何で……?
人があまりにも多すぎる。
一〇、二〇なんて数じゃない。ざっと数えても五〇近くはいる。いくらなんでも多すぎだ。
それに様子がおかしい。
「…………ニク…………」
「…………チ…………」
「…………クワ…………」
「…………セロ…………」
全ての人が何やら片言でぶつぶつと喋っている。
呪言のように何度も、何度も。
肉。
血。
喰わ。
せろ。
…………。
それは断片的には何の繋がりのない言葉だった。
だけど、気が付く。
言葉の一つ一つを繋げていくとそれはある文章になる。
『肉、血、喰わせろ』
と。
「ひっ…………!」
意味が分かってしまうと体が強張る。
鋭く息を呑む。
「お前」
呼吸が荒れる。
な、何かの撮影……?
け、けどけど……だ、だからって……な、何で……こんな夜に……? か、カメラは……照明は……監督は……?
見渡したけどそんなのいない。あの変な連中以外見当たらない!
「お前」
ああ……に、逃げなきゃ。逃げなきゃ……。逃げ……――――、
だ、ダメだ! か、体が動かない。
恐怖がピークに達して体の動かし方をど忘れしたみたいに、指先一つ動かない。
ざっ、ざっ、ざっ。
足音はだんだん大きくなる。
姿かたちがはっきりと明確になっていく。
人。
それは見紛う事なき、人。
けれども、人に非ず。
足を引きずっていたり、腕が曲がる訳の無い方向を見ていたり、首が千切れていたり。
そのような風貌の持ち主が着々と近づいてくる。
「はぁ……はぁ……」
胸が苦しい。
「お前!」
声にハッとして顔を上げる。
「だいじょうぶ」
優しい声。
「ここはわたしに任せて逃げて」
と、少女が言う。
「任せて……って、キミは?」
逃げないの? と、続けるよりも先に、
「……と、その前に」
指をくるくると指揮者のように動かして、何もない虚空に何かを描く。少女が動かした指の後に青い残像が走る。今度は爪痕というよりは、筆の軌跡のようだ。そして最後にぴんと跳ねた。
と、同時に、
「え」
自分の耳がおかしくなったかのように、外界の音が聞こえにくくなる。
「簡易型の結界」
「結界?」
「そう。この公園内に張られていた結界が解かれていたから、簡単に結界を張った。この公園内の音と光を遮断する役目の結界」
「公園の中の結界……?」
「うん。この公園には夜に人が近づかないように刻印が彫られていたはず。でも、人がいた。それはきっと刻印が途切れちゃったせい。刻印は万能だけど弱点が一つだけある。刻印が少しでもずれたり途切れたりすると魔法の効力がぱったりと無くなっちゃうということ」
「で、でも……この公園にそんなものあるはず……」
ふるふると首を横に振る少女。
「ううん。張られていたはず。人払いの刻印が。ここ一帯に住んでいる人や生き物が“なぜか夜にこの公園に入るのをやめておこう”と無意識に思ってしまう刻印が」
「夜に……?」
「そう。夜に」
「でも……どうして。日中はこの公園の中は人が溢れ返すような何でもないただの大きな公園ってだけじゃ」
「夜になったら、現れるから。アレが」
「アレって……」
僕が見たのは人の大群。
そして少女が見ているのも人の大群。
間違いない。少女の言うアレとは、あの人の大群のこと。
「生屍人。わたしはそう呼んでる」
「ぞ、ゾンビ……?」
「生ける屍。人を喰らう化け物」
少女の言う生屍人の集団の先頭に立っていた一人がこちらを視認する。
「…………ニ、……ニ……ク……」
大きく口を開いてにぱーっと笑う。
「ニ~ク~ダアアアアアアアアアアアアア!」
凄まじい怒号。
怒号は重なり、やがて騒音となる。
耳を塞ぐ。それでも生屍人の雄叫びは止まらない。
びりびりと大地が震えている。
「クワセロオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
「!」
一体の生屍人が軽くビル二階ぐらいの高さを跳躍して、少女に飛び掛かる。
「はっ!」
それを少女は軽くいなし、生屍人の懐に入り込んでから生屍人の胸元に掌打。
「グボオァ!」
生屍人はボーリングの球のように吹き飛んで生屍人の群衆のピンに激突した。
もうもうと砂埃が舞う。
吹き飛ばされた生屍人はまだ辛うじて動いているから、多分まだ死んでない。
けれど、思った。
強い。
この子、なんて強さだ。
この子の言う色んなキーワードは未だ理解を出来ていない。だけど、一つだけ分かる。この子は強い。しかも生屍人やあの刀の女の子との戦いを見る限り、すごく戦い慣れている。
僕にとっての非日常はこの子にとってしてみれば、なんてことのない日常。
だから不思議そうな顔をしていたんだ。
僕が理解を示さなかった全ての反応に。
何を当たり前のことを聞いているんだ、みたいに。
「なにしてるの」
少女が生屍人から視線を逸らしてこちらを見た。
「え」
「はやく逃げて。この結界は音と光を遮断するだけの簡単なものだから簡単に出られる。逃げるのは簡単なはず」
そういえばこの子には逃げろと言われていた。
僕はそうしたいのは山々なのだが……。
「こ、腰が抜けて……」
手足をなんとか動かすことは出来るようにはなったのだが、立ち上がって走り去ることが出来ない。
「? 動けないの?」
「ご、ごめ……」
ん、と続けるよりも先に奥で揺らめいていた生屍人の集団が一斉にこちらへと向かってきた。
「あ、危ない!」
また一人の生屍人が少女に向かって飛び掛かる。
「!」
生屍人の伸ばした爪が少女の肩を掠める。
つーっと少女の肌から赤い血が流れ落ちる。
生屍人はそれを見てけたけたと笑い始めた。
ぼ、僕のせいだ……。僕がこの子の注意を逸らしてしまったから。この子がしなくてもいい怪我を……。
僕は焦る。
とにかく動かないと。
動いて、それから逃げないと。
僕だけじゃく、この強い少女にも危険を及ばせてしまう。
くそっ、くそっ、くそっ!
だけど、動けないんだ!
動きたいのに! 動かなきゃいけないのに!
動けないんだ!
焦れば焦るほど体ががんじがらめにされたみたいに動かない。
「ニ……ク……マダ……アッタ……」
けたけたと笑っていた生屍人が僕に視線を向けた。
「ひっ……」
思わず手で頭を防御する。その瞬間、
「こっちだ!」
そう言って少女は落ちていた枝で血が流れていた腕を突き刺した。
崩壊したダムのように少女の腕からだくだくと大量の血が流れ始める。
ひくひくと生屍人の鼻が動く。
「お前たちの餌はこっちにあるぞ!」
少女は叫ぶ。
声と血に反応するように生屍人は僕から視線を逸らし少女に向いた。少女はさらに叫んだ。
「わたしが時間を稼ぐからその間に逃げて」
たっ、と少女は腕を引きずりながら駆ける。
そこでようやく僕は少女の意図を察した。
少女は囮になろうとしているのだ。生屍人の言っていた血を見せつけることで。自分に相手の注意を引き付けさせようとして。僕を守るために。
生屍人の集団は動けない僕を放っておいて怪我をした少女を追いかける。
「だ……ダメ、だ……」
僕なんかのために……、そんなことしちゃダメだ……!
いくら彼女が強いって言ったって……、あの数の相手をたった一人でしようっていうのか。しかも、片腕は使えない状態で。
無茶だ。
結局僕は彼女とそれを追いかける生屍人の集団が見えなくなるまで動くことが出来なかった。




