046 あなたさえいれば……
この部屋に戻ってきてから一体何回目なのかも知れず、僕はまたもやぽかんとする。
「何ですか、これ」
「見て分かりませんか? 婚姻届けですよ」
「はぁ!?」
もう驚く以外ない。
「何を驚いているんです。私がこの日をどれだけ楽しみにしていたか分からないんですか? あの日、かーくんが引っ越すって聞いたあの日からずっと、ずーっとこの日を楽しみにしていたんですよ。引っ越す前日の日に私がかーくんに告白して、この紙に一緒に“こんいんとどけ”を描いたこと覚えてないんですか」
はい。
一ミリたりとも。
「本当に忘れんぼさんですね。でも……もうそんなことはどうでもいいです。この紙を見せてしまいましたから。たとえかーくんが覚えていなくても、この紙が何よりの証拠になりますよ。ほら、この字。見覚えありませんか? この『くおんかなた』っていう文字は紛れもなくあなたが書いたものなんですよ」
確かに青のクレヨンで書かれたこのいかにも男の子が書いたような文字は、自分の字だ。これまたあやふやで……何とも断言がしにくいのだが。
でも。
流石に婚姻届けだなんてものを自分が書くはずがない。
だって……だって、そんなの。
覚えてないもの!
そんな人の一生に関わるような大事。忘れてしまうだなんて、その……。人としてどうかと思う!
クズだと思う!
紙切れを手に栗栖さんがにじり寄ってくる。
僕はたまらず後ずさり。
しかし、悲しいかな。僕の部屋は狭い。
ベッドにテーブル、テレビ、タンスに本棚。諸々の家具のせいで部屋は思ったより、本当に狭いのだ。
「お、落ち着いて……ね、ね」
「もう待てません……。一〇年待ったんです。もう、もうダメです……」
妖しく笑って、栗栖さん。
僕はそんな異様な気に押されて、
「うわっ!」
何とか踏みとどまろうと踏ん張ってみたが、時すでに遅し。
床に落ちていた漫画に足を取られて豪快に転ぶ。後頭部が壁に激突。そしてそのままずるずると倒れこんだ。
「いつつ」
くらくらする頭を無理矢理振って、眼前を眺める。
「ふあっ!?」
目の前の光景は如何ともしがたいものであった。
――――床に転がって倒れる僕。
――――その上に馬乗りの栗栖さん。
クラスの栗栖さんに憧れている男子諸君にしてみればこれほど羨ましいと思うシチュエーションはないだろう。現に当事者である僕は顔の表面温度が一気に上昇していくのが分かった。
熱い。とにかく、熱い。
「………………」
「………………」
パニックで言葉を失う両者。互いに動けず、赤く染まった頬を照らしあう。
見合って、しばらくして。先に動いたのは男の僕ではなく、女の子の栗栖さんの方だった。
普通年頃の女の子が男の子に跨って男の子の体に馬乗りになっていたら多少は動揺してもいいと思うのに、栗栖さんは動じず、むしろ喜ばしいように頬に手を当ててうっとりと。
「私は……いつでもOKです……ぽっ」
何が!?
答えを知りたくない問題を心の中で盛大に叫んで、嫌々と首を振る。
とにかくこんなのおかしい! 僕の知ってる栗栖さんと違う!
栗栖さんってのは……もっと、こう。
清楚で。可憐で。成績優秀で。非の打ちどころがなくて。みんなの人気者で。奥ゆかしくて。
こんな……強引な子だったっけ?
気が付けば互いの顔がかなり近接した状態だった。
意識がホワイトアウトした。口と目が変な形になって、心臓がさっきからばくばくと高鳴る。どきどきしている、簡単に言えばそういうことだった。無理もない。栗栖さんの顔は正直美しい。同年代でも間違いなく高レベル。その上、朱で染まった顔はどこか色っぽく、スカートの裾からちらりと覗いた生白い太ももが艶めかしい。
生唾を呑む。
動けない。身じろぎ一つ出来ない。
このままでは……。
このままでは……きっと。
息が止まる。
赤面したまま、栗栖さん。
「する?」
「なにを!?」
渾身の叫び。
だけど栗栖さんの耳には届いていなかったらしい。
「もう、待てません」
目の奥が渦巻いている。
じりじりと近寄ってくる栗栖さん。
「約束。遂げる日」
「僕は……」
「この日をずっと……ずーっと待ちました。忘れてたことなんて私は気にしません。遂げることが出来れば。なんでも」
「僕は……」
「さあ。かーくん。一緒になろ」
甘い声。女の子の香り。色っぽい仕草。
思考がぐるぐると回って、陥落しそうになる。
「あ……あ……」
と、そこへ、
「持ってきたぞ。ユミが冷蔵庫の飲み物を持っていけって言ったから適当に持ってきた。これでいいの、か?」
――停止した時間が今、動き出す。
クドが飲み物の缶を持ってきて、扉を開けた。
クドは二人の現状を見て、首を傾げる。
「なに……してるの?」
その言葉をきっかけに僕は跳ね起きて、すすすと。狭い空間を這うヤモリのように栗栖さんの傍から離れてクドの隣に立つ。栗栖さんが少し膨れて、こっちを見た。
「かーくん……」
ごめん!
栗栖さん、ほんっっとうにごめんなさい!
心の中で何度も頭を下げる。
栗栖さんが嫌いだという訳ではもちろんない。でも、僕はそういうことはちゃんと段階を踏みたいって思う。いきなり、こーいうのは……なんか、や!
ちょっと乙女ちっくではあるが、やっぱりこういうのは勢いでやると後々後悔しそうで、なんかやなのだ。
「あ、ありがとう~。クド~ほんと、クドはいい子だな~」
だーっと涙を流しながらクドの頭をくしゃくしゃ撫でた。
クドは意味が分からずに、
「???」
と、首を傾げているだけだったが。
背後の方で栗栖さんが、確かに。
「ちぇ」
と、軽く舌打ちをしてからゆっくりと起き上がっていた。
「さ、飲も飲も! 僕、すっかり喉が渇いちゃったよ~」
二人を自室のテーブルへと案内する。
「ほら、カップケーキも食べなよ。美味しいんだから」
間違いは起こらない。
そんな当たり前のことに、ホッと胸を撫でおろす僕。




