039 クドラクとクルースニクと許嫁と
あれから。
彼女はとにかく居心地の悪い日々を過ごすようになった。長かった髪の毛も今は短くショートカット気味。
幼稚園では子供たちだけではなく、大人でさえ。梨紅のことを無視するようになった。苛めが悪いことだと諭すのではなく、まるで腫れ物に触るように、しかし、大人としての勤務を全うするように最低限のことだけをして、彼女を無視するようになった。
その理由は、当然。
あの出来事が原因だ。
初め、男の子が手洗い場に頭をぶつけて気絶したのは事故か何かと思っていた大人たちは梨紅のことを可哀そうな目で見ていた。しかしあの出来事がきっかけで梨紅に何かしらの異能の力があると分かった途端、大人たちは梨紅に関わることを恐れ、とにかく梨紅の機嫌を損ねないように、だが出来るだけ近づかないというものを心掛けた。
それが五歳の梨紅からすると本当に気持ちが悪かった。
怖いなら怖いと言えばいい。
なぜそんな簡単な言葉さえ言わないのか。それが梨紅には不思議でならなかった。
家での扱いも似たようなものだ。
最低限の育児はする。
ご飯を食べさせたり、お風呂に入れたり。だけど、梨紅はいつも一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って、一人で就寝して。とにかく梨紅は一人だった。
「…………パパ、ママ……さみしいよう……」
あくる日。
この日もまた、梨紅は一人で道を歩いていた。居心地の悪い幼稚園へと向かうためだ。
今日はいつもと違う道を歩いていた。いつも歩いている道が工事中で通れなかったから。
工事現場の人が少し驚いていた。
どうしてこんなに朝早くスモックを着た幼稚園児の女の子が一人で出歩いているんだろうと。
梨紅はうんざりした。その手の視線はもう飽きた。
視線だけで何かを語る。
だったら何か言えばいいのに。
かわいそうでも、なんでも!
「はぁ……」
ため息を漏らす。
どうしてこんなに居心地が悪い思いをしなければいけないのだろうか。五歳の梨紅にとって、この登園の道すがらはとても窮屈で、本当に嫌いだった。
ふと。
その時、梨紅は思わず顔をあげた。
目の前には横断歩道があった。その上には信号機。今は青。
どこか儚げな信号機のメロディー。
青色の信号機が点滅し、赤に変わる。
メロディーもそこで止む。
目の前は車がびゅんびゅん走っていた。
いつも眺めていたはずの光景なのに、すごく目に留まった。
気が付けば、梨紅の足は信号機が赤に点っているにも関わらず、動いていた。
一歩。また一歩。
そういえば……。
あの男の子たちが入院したって話を聞いた時、あの子たちの親がものすごく心配してた。
わたしも。
わたしも……怪我したら、パパとママは心配してくれるかな?
はしってるくるまに当たったら、すごくいたいよね?
いたくて。怪我……するよね。だってせんせーが言ってたもん。おうだんほどうは右を見て左を見て、手を上げて渡りましょうって。それって……くるまにあたったらあぶないから言ってるんだよね。だったら……だいじょうぶ。けが……できる。わたしが怪我したら……きっと。
パパとママがわたしを見てくれる。
そう思うと梨紅の体は道路に吸い寄せられるように、一歩また一歩と動く。
ふぁ~!
大きめのクラクション。
だが梨紅の耳には届いていなかった。
真っ赤なセダンが何度もクラクションを鳴らしながら、横断歩道目掛けて猛スピードで突っ込んでくる。
だが、梨紅はそのことにまったく気が付いていなかった。
みててね。パパ、ママ。わたし……いたいのがまんするから。いいこにするから。だから……みて。わたしを、わたしをみて!
キキー! というブレーキ音。
気が付くと、
「きゃっ!」
梨紅は横断歩道の手前で尻餅をついていた。
セダンの運転手は顔面蒼白と言った感じ。
対し、梨紅は。
どうしたの?
訳が分からない様子できょとんとした。
「なんで!」
梨紅はその後に、叫んだ。どうして自分は怪我をしていないのかと、憤慨した。また自分の“力”が勝手に暴発したのかと思って、とにかく怒った。
念じてなんかない!
そして。
「なにしてるんだ! あぶないだろ!」
ようやく気が付いた。
きょろきょろと辺りを見回して、自分の手を掴んでいる男の子と目が逢った。
その男の子の目はすごく怖かった。初めて見る。とても怒っていて、しかし、どことなくあの自分を苛めた男の子とは違うような。そんな目。
男の子は梨紅の手を掴んで無理矢理引っ張ったのだ。そして梨紅は男の子に引っ張られて尻餅をついた。
きょとんとしたまま梨紅。
男の子が叫ぶ。
「みて! あれ! 赤しんごーだよ! 赤はね、渡っちゃダメなの!」
男の子はすごく怒っていた。梨紅を掴んだ手にすごく力が入る。
「しんじゃうんだよ!」
その男の子は梨紅が死んでしまうかもしれないと、ひどく心配して。ひどく怒った。
初めての叱咤。
初めての心配。
梨紅の瞳から涙が流れ、力尽きるように座り込んで、初めて人前で泣きじゃくった。泣いた梨紅を見て、男の子が心配そうにして梨紅の頭を撫でた。もっと涙が溢れた。
「ごめ゛ん゛な゛ざい゛~~~~!!」
周りに人が集まってくる。それでも涙が止まらなかった。
ついさっきまで怒っていた男の子は今度はものすごく心配するような優しい口調と声で自らをこう名乗る。
「あーなかないで。ごめん、ぼくもいいすぎちゃったよ。ぼく……くおんかなたっていうんだ。きみのなまえは?」
泣きながら、
「りく。くるすりく……ぐずっ」
自分をあやす男の子に向かってそう告げた。涙と鼻水を流す梨紅の顔は相当ひどかったはずなのに、男の子は、
「りくちゃん。ごめんね」
と、何度も謝って梨紅の頭を撫でてくれた。
それが五歳の少女には、とても頼もしいと思えた……。