360 クドとオランセ
「オラン……セ……?」
事態が呑み込めない僕の耳にレディの言葉だけが響く。
間違いなくあの闇の中にいるのはクドだ。間違いない。でなければこの胸の焦燥の正体が掴めない。
何の根拠も無い勘だけが示す不確定な予感だが、それでもあの中に何かがいて、その中の正体がクドだと僕は確信していた。
しかし、レディは闇の中に誰かがいることは否定しなかった。ただ、その中にいる少女は『オランセ』という少女なのだと苛つきながら言い放つ。
まるで話を聞かない乱暴者に向かって唾を吐き捨てるかのような苛立ちを見せて。
「ああ……ようやく合点がいったぞ。そうか……貴様か、貴様が。そうか」
苛立ちはやがて殺意へと変貌する。
その殺意の完全なる変貌を遂げるよりも先にレディの体が消えた。
否。消えたのではない。消えたように見えた、の方が正しい。消えたように見えるほどの速度で数十メートルほど開いていた間合いを詰め、まるで風を切るかのような速度で振り抜いた蹴りが僕の右側頭部へと直撃した。
「ぐあ!」
僕の体は回転しながら吹き飛び、そのまま壁に激突する。
しかしそれで安心するのはまだ早かった。
(こ、攻撃が見え……っ)
攻撃が見えなかったなどとレディの一撃を分析するよりも早くレディの体が宙に浮き、追撃の踵落としがそのまま後頭部へとお見舞いされる。
「……っ!」
今度は悲鳴すら出なかった。
攻撃の速度が速すぎる。目にも止まらぬという言葉は正にこのこと。
肉体的に不可能な速度で繰り出された移動と攻撃に成すすべもなく倒れ込んだ僕の頭をレディはそのまま流れるように踏みにじるレディ。
恐らくこれでもレディは手加減をしたのだ。死なぬように。話を聞くために。
「……弱すぎるな」
レディの殺意が弱まる。
別にレディが僕を許したという訳ではもちろんなく、それは単に殺意を用意するほどの相手ではないとレディが判断したために、レディの殺意が弱まったのだ。
誰も彼も虫けらを殺すために殺意を全開にする人間がいないように、殺意を弱めた。
脳震盪を起こしそうになる。しかし辛うじて意識はまだある。
腕と頭に力を入れ、起き上がろうとするが、それよりも遥かに強い力で踏みつけられ、それは叶わない。
「あまりにも弱すぎる。であれば、オランセの力を利用しようとした口か」
「な、に、を」
「知らぬとは言わせぬ。オランセをクドなる偽りの名を与え、洗脳した輩だろう? 見ろ」
レディが足で僕の視線を固定する。視線の先には闇の塊があった。
闇がわずかに薄れてきていた。それはまるで闇が空間に定着し始めているかのように見える。
そしてその闇の中にははっきりとクドの姿が見えた。
「クド!」
いくら声を上げてもクドには届いていない。闇の中で膝を抱え、蹲るようにじっと動かない。それはまるで胎動しているかのような。
表情はまだよく見えないが、それでも今まで感じていた予感が間違っていなかったのだと確信した。あの姿はクドそのものだ。
「クド! 目を覚ましてくれ、クド! こんなところにいちゃダメだ! 帰ろう! 帰ってお腹一杯カップケーキを食べよう! だから目を覚ましてくれよ、クド!」
いくら叫んだところでクドは返事をしない。声が聞こえていないのかもしれないが、それよりも無反応で闇の中にいるあの姿がすごく堪える。
嫌な予感が消えない。拭い切れない。
だがそんな不安を、
「ぐっ!」
レディの踏みつけにより遮られた。
「何度も何度も何度もクドクドクドと。貴様は人を苛つかせる天才だな。あそこにおるのは貴様の言うクドなどではない」
「だったらなんだって言うんだ」
「言っただろう? あそこにいるのはオランセだと」
「なんのことを言っているんだ?」
「それは儂が言いたい台詞だ。貴様の方こそ何を言っているのだとな」
会話がどこまで行っても平行線。
譲り合おうと言う心持ちが無い。互いに譲り合えない。それは言ってしまえばお互いがお互いの言っていることを否定し、お互いがお互いに自分の言っていることが正しいと思っているということ。
そしてそのことに気が付いていないからこそ、会話が成り立たない。
「……洗脳したのだろう? ヤツを利用するために。悪疫の力を利用するためにな」
「ふざけるな! 誰が洗脳なんて!」
体をブルブルと震えさせながら否定した。
その冤罪だけは認める訳にはいかなかったのだ。それでは同じじゃないか。あの桜井智と。
「事実、貴様は弱い。あまりにも弱すぎる。小僧、知っているか? 弱い人間が強く成り上がるための最も効率の良い方法を。それは他者の利用。自分の力ではなく、他人の力に依存し利用する。貴様たち人間がよく利用する手だ」
「違う! クドは僕の家族だ! 僕の妹だ! 妹を利用しようだなんて思う訳がないだろう!」
それは綺麗事のように聞こえたのかもしれない。だけど本心からなる言葉。
だからこそ、レディはその言葉を挑発的だと捉えた。
「くだらん、くだらんくだらん、くだらぬわっ!」
今度は間違いなく激昂し、冷静さを欠いて頭を踏み抜く勢いで何度も踏みつける。
「家族だと? 妹だと? 巫山戯るのもいい加減にせぬか! 満足か? 血も繋がっていない女を妹などと呼んで、家族ごっこをして! 貴様の性的趣向にオランセを巻き込んで!」
「血が繋がっていなくてもあの子を……クドのことを妹と呼んだあの日から、クドは僕の妹なんだ! 決してごっこ遊びなんかじゃない!」
拳を握りしめ、踏みつけられる頭がそのまま引き千切れてもいいという思いで、思いきり頭を引き抜く。
運がよかった。正に運がよかった。激昂したレディが再び踏みつけようと足をわずかに上げた隙間から頭を引き抜くことに成功した。
思いがけない力が発揮した理由なんて、分かりきっている。
(絶対……助ける……、あの闇の中から……クドを……!)
救いたい。
ただそれだけの気持ちが僕を奮い立たせる。




