035 クドラクとクルースニクと許嫁と
き~ん~こ~んか~んこ~ん。
終業のチャイムが男子トイレの中にまで届いていた。
僕は相変わらず手を洗っていて、手がすっかり冷え込んでしまっている。
ばしゃばしゃ。
トイレの後に手はよく洗わないといけないと何度も何度も言い聞かせて一時間以上は時間が経過していた。
トイレの外からざわざわとした喧噪が生まれる。
一度蛇口を捻って水を止めて、視線をそちらへと移す。
と。
「わわっ」
天井をすり抜けてクドが下りてきた。
急に現れたクドに驚いて尻餅。もう何度目だ。
「あ、いた」
対しクドはとん、とトイレの床に立って不思議そうな顔で僕を見下ろした。手を伸ばしながら、
「だいじょうぶ?」
そう言って僕の手を取る。
いい加減慣れないとな、と思う。でもやっぱりどうしても慣れない。急に目の前に人が現れるという異常に。
「あ、うん。ありがとう」
「…………」
しばし見つめあった後、
「えっと……その」
僕の方から切り出す。
「ずっと、手、洗ってた」
すると、
「そっか」
クドが何かに気が付いて小さく頷く。
「だから冷たいんだ」
「あはは……ごめん」
「ううん。冷たくて気持ちいい」
なんとなく。
他人が聞けば、この会話。
なんてわざとらしいんだろうと思う。
だけど二人は気が付かない。
いや、気が付こうとしない。
そんな空気が二人の間に流れていた。
やがて。
「あのね、クド」
僕は一度、迷ったように言葉に詰まる。
「……」
だが、ワンテンポ置いて、クドの方から、
「屋上」
「え」
「わたしが追いかけた人なら屋上にいる」
僕は申し訳ないようにはははと笑った。クドはその行動に何も言わなかった。
気が付けば。
僕はとてつもない速度で貧乏ゆすりをしていた。
かかか、と。革靴が地面を何度も鳴らし、トイレの中に甲高い音が響き渡っている。
待ちきれない。
そんな様相で。
たまらず。
「ごめん!」
だっと駆けだしてトイレを出て行った。
二人が交差する。
ふわっとクドの髪と破れた服の裾が流れた。
聞かなかった。
何も、何一つ聞かなかった。
髪がわずかに乱れている理由も。
服がボロボロになってクドが不可視の状態を保っているのがやっとなように脂汗を流しながら、それでいてなんでもないような表情をしている理由も。
この学校に結界が張られていた理由も。
どうしてクドが僕のクラスメイトである栗栖さんを追いかけた理由も。
僕は選んだのだ。
事、クドラクが『来るな』と言った場合、決して行かないと。
言葉ではっきりと僕を拒んだ場合、それに従おうと。
心配しないと。
そもそも僕がクドを心配することなどあってはならない。
強者を。弱者が。心配してはならないのだ。
悔しいけれど、クドは強い。とびっきり。僕なんかよりもずっと。比べること自体おこがましいほど。
あの時とは状況が変わっている。
僕は知らなかった。クドの強さを。化け物を薙ぎ倒せるような強さを持ち合わせている少女のことを。だけど知った。クドの並々ならない強さを。
そんな相手を僕のような弱い存在が助けようとしてしまえば、きっとまた足手まといになる。
そもそも助けがいらない相手に助けを求める行為は傲慢でしかない。
それでも。
それでも助けたいと思ってしまうのが僕の欠点ではあるのだが……。
手がかじかむほど洗っても頭の中では「クドを助けに行きたい! 栗栖さんの様子を見てきたい!」と何度も考えた。
だけど、耐えた。
行くべきではないと何度も何度も言い聞かせて。
堪えた。
せめて。
クドを助けに値する強さを手に入れるまでは。
クドと同じ舞台に立てるようになるまでは。
僕はでしゃばるべきではないのだ。
それが。
それが、今の彼女と僕の、関係。
とにかく今は栗栖さんの様子を見に行こう。
僕がトイレのドアに手をかけてドアを開ける瞬間、
「そういえば」
背後のクドが僕に声をかける。
首を傾げながら、頭に指を置いて、
「何か変だったぞ。あいつ」
それだけを言ってクドは僕の目からも見えなくなった。




