340 甘さor優しさ
結論から言えば桜井智は死んでいない。気絶しているだけ。時間が経てば意識も問題なく回復するだろう。
ミセはまだまともに歩くことも敵わない。なので僕の腕を取りながら歩いている。
「流石はミセだね。桜井智が死んでいないことをすぐに見抜くだなんて」
「当たり前。怨敵の生死ぐらい警戒して当然でしょ」
確かにと頷きはするが、その生死を気絶から回復したすぐの状態で判断出来るのはミセの能力の高さが故なのだろう。そこは素直に感心するところだ。
僕とミセが桜井智が倒れているところまでに到着すると、ミセが僕の腕をきゅっと強く掴む。
桜井智は小さな寝息を立てて、絶賛気絶中。
それでもその手がまだ震えていることを僕は知っていた。が、敢えて口にすることでもないだろうと思いその震えを黙殺した。
「まず聞きたいのは……レディは一体どうしたって言うの?」
「レディは……桜井智を見限った」
「見限る? あのレディが? 桜井智という男を助け続けてきたレディが? そんな話、普通なら信じない」
「レディがどうしてこの男を助けてきたと思う? 単純な愛情じゃなかったんだとしたら?」
「つまりは」
「レディは桜井智に洗脳されていた。多分それが答えなんだろう」
愛は偽物だった。
見せかけの愛でしかなかったということなのだろうか。断言は難しいがそう考えるのが一番都合がいいような気がしてならない。
桜井智がレディの助けを借りられていたのもいつ如何なる時であろうと桜井智を助けてくれていたのは桜井智の洗脳を受けていたから。
しかし一つの疑問が生まれる。
どうしてこのタイミングでレディの洗脳が解けたのか。
その疑問の謎に近づくピースはレディ本人が口にしていたとあるキーワード。
「だけどレディは言っていたんだ。演技に疲れたって。それってミセと同じなんじゃない?」
「同じ……つまり何らかの方法で桜井智の洗脳を逃れた?」
確かに……その考え方も間違ってはいないのだろうが、僕の考えは少しだけ違う。
「僕は……そうは思えない」
ミセの問いかけに首を横に振ることで応える。
このタイミングでレディが桜井智を見限ったという展開の都合の良さは重々承知した上で考え出した答えだが、そう間違ってはいないだろうと思い、その考えを口にしてみる。
「レディの実力は……何と言うか規格外だった。皆がレディを恐れる理由にも納得がいった。戦いを避けようとする意味も分かった。だからその実力を考慮して言うけど、僕にはあの二人が釣り合っているとはとても思えなかったんだ」
「釣り合う? 何が?」
「実力と洗脳だなんて言う手段がさ」
桜井とレディの関係性を見て真っ先に感じた違和感。
違和感の正体は単純だ。
あれほどまでの実力差を上回るほどの洗脳の力が果たして桜井智にあったのだろうか。
確かに桜井は洗脳の力には相当の自信があったように見える。
だが、明らかにレディの実力はそれを遥かに凌駕していた。
「レディの強さが圧倒的なのはミセも認めるだろ? ミセだけじゃない。ルシドさんだって、本当はキャストの皆を助けにここへやって来たいのに、それを押し殺してでもレディとの戦いを避けた。そんなレディが洗脳だなんて、たった一つの手段で篭絡されるのかな?」
「それが……釣り合わないと言う言葉の意味……?」
考え込むようにして顔を俯かせるミセ。
彼女を惑わすために出した言葉なのではないのだが、ミセが何かを思い悩むようにしたのを見て失敗だったのかもしれないと思う。
しかし、ミセが先に僕の迷いを払拭させた。
「吸血鬼として……と言うよりは、サキュバスとしての意見を言いますが、案外悪くない着眼点かもしれません、久遠かなた。本当に貴方には驚かされます」
僅かに笑みを零しながらミセがそう言う。
ミセは言うか言うまいかを迷っているような素振りを一瞬だけ見せたが、結局は話すことにしたらしい。
「戦闘の能力が魔力や霊力に依存するように洗脳の能力もまた魔力や霊力に依存するモノなのです。要は洗脳にかかる相手は洗脳をかけている相手よりも弱くなくてはならない。もしも相手の実力が自分よりも上の相手に洗脳をかけるなんていうことは本来起こり得ない。それが洗脳というモノなのですよ」
つまりミセはこういいたい訳だ。洗脳と言うモノは本来自分よりも弱い相手を従わせるモノであって、決して自分よりも強い相手に効くような術ではないと。
理屈は分かる。
もしも自分よりも強い相手にも洗脳が効くのならば全員が洗脳を使うはず。だってその方が効率がいいんだから。戦わずして兵を獲得出来る。将棋だったらチート駒と呼ぶに値する。
しかし実際はそうではない。使える者がいて、使えない者がいて、――使わない者もいる。
ということはつまるところ、洗脳と言う術は決して万能などではないということだ。
そして今ミセが言ったことが洗脳の弱点になり得ることなのだろう。
「確かに桜井智の洗脳はキャストの皆を操れるほどの力を持っていたかもしれないけど、それでもあのレディという女吸血鬼を操れるほどの力があったのかと問われると首を傾げざるを得ない」
「そこまでの実力差があったのにレディはそれを隠して演技をしてた」
「何らかの理由が無ければ説明がつきません」
この問題は考えていても分からない問題だ。しかし確実に言えることはレディが桜井智を愛していたというミセの考察は間違いだったということ。
「一つ、いい?」
ミセが神妙な面持ちで僕を一瞥した後、倒れている桜井智を見下ろしながら聞いて来た。
いつかは来るかと思った質問。思ったより早く来ただけの話。
だから僕は大して驚きもせずにミセの言葉を待った。
「どうして桜井智を、この男を殺さなかったんですか?」




