318 少女と狂犬
「よそ見をしている場合!?」
「っ」
横顔を殴られたミセの体がまるで羽のように横合いに吹っ飛んだ。
悲鳴すら出ない。
ミセはそのまま横回転しながら壁に激突していく。
全身の骨が軋むような音がして、ミセは小さな体を何とか立ち上がらせる。
彼女は理解していたのだ。
倒れれば終わると。
倒れれば、負けるのだと。
だからこそ彼女は立ち上がることを選択した。倒れて殺されてしまうという楽な道を拒む。
「はあ……はあ……はあ……」
息も絶え絶えになりながらもミセは前を向く。
アサギを見て、その奥に見えた久遠かなたの姿を見た。
(なんて顔……しているのよ)
ほとんど面識のない少年の顔が憔悴しきっているのを見て、ミセは闘志が湧いてくるのを感じた。
あんな顔をさせてしまった自分がいかに情けないのかを自覚し、それが闘志に変換される。
握った拳からは膂力を感じず、立ち上がった膝はいつでも折れそうで、右目はすっかり腫れて視界が悪くなっているくせに、不思議とミセの中には闘志が残っていた。
(これほどの差があるとは思ってもいなかったけれど、いざ体感してみると、どれだけ自分が弱かったのかを自覚できて、清々するわね。……まったく、どれだけ自分が守られて生きてきたのかが分かって、反吐が出る。あー、やだやだ)
全身の痛みを無視して構える。
(でも……あんな二人の顔を見せられたら、こっちも見栄を張らなきゃ示しがつかない)
ミセの中に残されていた原動力の全てはもうほとんど見栄しか残ってはいなかった。しかしこの見栄は相当根強くミセの中に根付いていた。
(アサギ……。貴女は本当に強い。だけど気づいている? そこにいる男は貴女の本当の強さを知らない。貴女の上辺だけの強さしか欲してはいないのよ?)
アサギが距離を詰める。
ミセが銃のように構えた指の先から弱々しい魔力の弾丸が放たれる。
激痛に眩むミセの意識化で放たれた一撃はアサギには当たらない。当たることはない。
弾丸は明後日の方向に飛んだ上で壁に激突した。魔力の塊である魔力の弾丸はただの石壁に衝突し、魔力が霧散する。
魔力がただの壁に押し負けたのだ。
勝負は決した。
勝ち目など初めからなかったのだ。この結果は誰もが分かっていた。分かっていた上での殺し合いなのだ。それは殺し合いとは呼ばない。ただの殺戮と呼ぶ。
「逃げろ! 逃げてくれ!」
少年の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「はははははははははは!」
少年の狂ったような笑い声が聞こえてきた。
一方は諦観。
一方は狂乱。
二人の少年の相対する感情の波にミセはこんな状況ながら、
(なるほどね)
などと、呑気と取られても仕方ないようなことを思った。そんなことを思っていたとしてもアサギの攻撃は続く。
「あらら、もう限界って感じ? 攻撃を当てるどころか威力さえも見る見る落ちているわよ!」
魔力の爪の左フックがミセの脇腹に刺さる。
「ぐっ!」
ミセは攻撃に堪えてみせようと踏ん張った。否。踏ん張ろうとした。しかしミセの身体中に浸透したダメージがそれを許さない。脇腹に刺さった爪がミセの横腹を引き裂き、鮮血を飛び散らせながらミセの体が横合いに吹っ飛ぶ。
「はあ……はあ……」
ミセの勝ちの目は完全に潰えている。そんなことは逃げてくれと叫び続けている少年もそんな少年が感情を剥き出しにしている様子を見て愉快そうに笑っている男も、当然その勝ちの目を潰した当の本人も、勝ちの目を完全に踏みにじられたミセにだって分かっている。だけど、ミセはそれでもボロボロの体に鞭打って立ち上がろうとする。
アサギが不思議そうな顔をしながらミセの方へと歩いていく。
「どうして? 貴女らしくもない。そんな懸命に立ち上がろうとして。どちらかと言うと貴女は諦めの早い方だったでしょ? 死ぬのが怖いだけなら、いいことを教えてあげるわ。死んだ方が楽なことってこの世の中にはいくらだってあるのよ」
アサギが地面を蹴って跳躍する。
対空状態で右手を大きく振りかぶる。振りかぶった右手からは直視出来るほどの大量の魔力が迸る。魔力が右手に纏い、それは徐々に紫色の大きな爪の形に形成されていく。
ミセは咄嗟に身構えようとした。
しかし、
(ダメだ。もう限界みたい。腕が上がらないし、足だって……。それに今更身構えたところで……)
ミセは瞬間的に思った。
たとえ体が動いたとして、それが一体何になる?
と。
もう勝ち目などないのだからアサギの言う通り、負けを認めて死んでしまった方が楽なのだろうと。
そしてその考えが頭を過った瞬間、
「うわあああああああああああああああ!」
ミセは唇の端を思いきり噛んで、自分の中に残された最後の力を振り絞って遮二無二に跳ぶ。
「!」
ガゴン、とアサギの攻撃が地面に直撃し、地面を抉り取った。
ミセは全身に走る激痛と共に地面に転がっていく。攻撃を躱すことは辛うじて出来たが、立ち上がる力の全てを使い切ってしまった。
アサギは怪訝そうな表情を浮かべる。
「あの状態で……攻撃を躱した? あり得ない……」
アサギと言う吸血鬼は勝気な性格だ。勝ち目のある勝負、勝ちの目しかない勝負において自分が負けるなどとは微塵も思っていないはずだ。まさか自分の攻撃を瀕死の状態の相手に躱されるとも。その意外性にアサギの動きが停止した。
「何をしている。さっさと殺せ。もうそこの女は虫の息だ。あとはとどめを刺すだけで終わる」
そんなアサギの様子に桜井がアサギに急かすように命じる。
アサギはその声を聞いて、
「はい」
と、返事をし、再びミセの方へと歩いていく。
(ミセ……。ミセ……?)
アサギは歩きながら、
(アンタってそんなに強かったっけ?)
そんなことを思った。




