314 少女と狂犬
磔にされてからいくらかの黙考が両者にあった。無論、両者とは目の前の少年と自分自身。
先に動いたのは口元をまるで悪童のように歪めた桜井智の方だった。まあ、物理的に動くことが出来る方が先に動くのは必然とも言えるだろう。
「キミってお人よしだよね」
予想外の質問にすぐに答えを返せなかった。だが悪意に満ちた言葉だったので、答えを返す必要はないと判断し、沈黙を貫くことに徹底した。
しかし悪意の篭っている言葉ならば、それは決して誉め言葉などではないのだろう。
「僕は見てた。ずっと見てた。見たくもないモノを見続けなくてはならない苦痛をずっと味わってた。だからこそ感じることがあった。それはキミのお人よしっぷりさ」
予感がした。
明確に何かと断じるほどの強いモノではないが、それでも予感がした。無論、その予感は面白みも希望も無いただの悪い予感だ。
悪辣にニヤリと笑う桜井の表情に。
不安を無造作に煽られるような予感がした。端的に言えば何かを企んでいるのは明白に思えた。
「このままキミを殺すことは簡単だ。吸血鬼は確かに化け物だ。しかし同時に生命体であることに変わりはない。そのルールだけはきっと僕たち人間とほぼ変わらないはずだ。でなければ、この世界はとっくの昔に吸血鬼に牛耳られている。首と胴体を離すだけで死ぬだろうし、心臓に致命的なダメージを負えばやっぱり死ぬだろうさ。このナイフで心臓に致命的な傷を負わせるだけで僕はキミを殺せる。――お前に勝てる。だけどそれじゃあ僕が面白くない。このまま一つの死体を作り上げるよりも、キミに苦痛を与えてやる方がもっと楽しいと思うんだ」
性格の悪い男だ、と僕は素直に思った。その一方でこの状況下においてもなお勝利にこだわる理由は一体何なんだろうと考えた。
自分に勝つことに対する意味が一体どれだけあるんだろう、と。
「楽しく、勝つ。それって最高だろ?」
自分がまさか負けるなどとは微塵にも思っていない発言だが、この状況下においてその自信は慢心になり得ない。
「何をするつもり?」
いい加減本題に入ってほしいと思い、僕の口から話を切り出す。
「簡単なことさ」
そう言って桜井は僕に背中を見せた。そしてそのまま歩き出す。
――隣の部屋に向かって。
(隣? 一体何を?)
無言のまま牢獄から立ち去る桜井を眺め続け、心の中で首を傾げる。意図を理解出来なかったからだ。
隣の部屋に向かうのは何となく見えたから、それだけは分かった。
(隣の牢獄にはミセがいるだけだ……それだけだ……)
なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。
胸を掻き毟りたいという衝動に駆られるほどに。
しかし磔にされたままの状態ではどう足掻いても胸は掻けない。それがどれほどもどかしいことか、口惜しいことか。
幸いにも桜井はすぐに戻ってきた。幸いと呼ぶにしては余計なおまけ付きで。
「ミセ……!」
桜井はミセを連れて再びこの牢獄に戻ってきた。
ミセは後ろ手に縛られているらしいが、目新しい傷はない。僕のような扱いは受けていないらしい。そこはよかったと言える。
「改めて紹介は必要無いと思うが、裏切り者の馬鹿な女だ。……名前は知らないけどね、ふふ」
そう言って笑いながら僕の前にミセを連れてきた桜井。
ミセはもう演技をする必要も無いので、中心の欠片も無いような瞳で僕と桜井を交互に見つめていた。
僕には申し訳ないと言ったような感情の瞳で。
桜井には『殺すなら殺せ』と言ったような観念したような瞳で。
(…………!)
また、心がざわめく。
頭の中で砂嵐が吹き荒ぶように、感情がざわつく。あるいはざらつく。
(あの目……あの目を……僕は、僕は……知っている……?)
もう自分が何も出来ないことを理解していて、それでも抵抗したいと思っていて、いや、願っていて、だけど誰かにすがりたいと考えてしまう自分に情けなさを感じているような、そんな瞳を僕は――知っている。
そんな感情を他所に話は続いていく。
「久遠かなた。キミはいくら殺したって意味がないんだろう。殺すまで悲鳴は上げないし、殺した後もだ。だからもっと面白いことをしようと思う」
感じた予感はこれだったのかと、奥歯を噛みしめ、そして、叫ぶ。
「僕の目の前でミセを殺す気か!」
今まで貯め込んできたモノを吐き出すかのような声量に桜井の口元が愉快気に歪んだ。
「いいね。想像以上に効果があるらしい。やっぱりキミはお人よしだよ」
桜井が指を鳴らす。
瞬間、空間が揺らいだように見えた。
「惜しい。殺すんじゃない。殺させるんだよ」
空間が揺らぎ、それが再び正常な状態に戻ると、そこに一人の人間のシルエットが浮かび、ミセがその人影を見て両目を見開いた。
そこにいたのはミセの同僚、アサギであった。




