303 巨(おお)いなる影
もし作戦参謀がこの場に居合わせていたら、きっと想像し得ないほど頭を抱えていたことだろう。
「……道具? 娼婦?」
聞き逃すことなど出来るはずもないワードだった。殴り倒した桜井を見下ろしながら沸き立つ衝動に再び拳を握る。
その衝動とは、“敵意”を即座に塗り潰した圧倒的な本気の“殺意”。
「……笑えないよ」
拳を握り、追撃の構え。
もう知ったことか、と、俗に言うブチ切れモード。
自分に対し手何かを言われることに何かを思うことはない。たとえどんな誹謗中傷だろうと愛想笑いを返し、聞き流して、明日には水に流すことだって容易い。
だけど自分でも理由はよく分からないが、誰かを愚弄して傷つけようモノならその怒りは抑えられそうになかった。
「くそ……僕を、殴りやがった……」
呪詛を唱えるように桜井が呟く。
暴行を受け、桜井の瞳に冷たい光が差す。そして、
「僕を殴りやがったな、ちくしょうめ」
不吉な微笑みを浮かべる。
(……!)
その笑みに不穏な気配を感じた。
殴られたことに喜んでいる訳ではない。怒りに打ち震えている訳でもない。悲しみも苦しみも。あらゆる感情がその微笑みを否定し、その微笑みを肯定した。
「あー、このまま僕は殺されてしまうな」
他人事のような声で、他人事のような態度で、桜井は事実を語る。
実際、このコートのように身に纏った殺意は本物だ。だから桜井の事実誤認ではない。これから起こる紛れもない事実を桜井は冷静に口にしたのだ。しかし、何とも不気味な、不吉なモノを感じた。
「何が言いたい?」
「いや、ただ事実を言っているだけだよ。そう警戒するな」
ゆらりと体を揺らしながら立ち上がる桜井に、そこはかとない恐怖を感じた。しかし、反撃が来るとも思えなかった。
にやりと歪めた口元に指を宛がい、その端から切れ落ちる真っ赤な鮮血を拭い取る。
そして背後から、
「く――!」
ミセの攻撃を受けた。
攻撃手段は魔力の砲撃。威力自体にそれほどの殺傷能力があったかどうかで言えば、正直、そこまでではない程度。しかし予想し得ない不意打ちに不覚を取り、倒れこみそうになる。
その勢いのままに二人から距離を取った。
ミセの瞳が少し鋭くなっていた。
ああいう目は恨み節とでもいえばいいのだろうか。
怒っている、とはいかずともその目は語っている。「この裏切り者」と。
俯瞰してみれば、裏切り者に近しいのはミセの方だと思うが、この場合の裏切り者は作戦を無視して先行した僕の方なので、何も言うことはない。
ミセは操られているのだ。本当は操られてなどいなくても、ミセは操られていなければならない。操られていなければ、ミセの目的は果たせない。
「申し訳ありません智様。あの状態でアレが動けるとは」
言いながらミセは徐々に桜井に近づいていく。
それは桜井を守るために。桜井の盾となるために。
(ごめん……ミセ。だけど許せなかったんだ……。ミセの思いを無駄にしてしまうと頭の中で理解していたとしても、あんな言葉を僕は許せない。許してくれとは言わない。……だけど、どいてくれ。もしくは逃げてくれ)
この祈りが決してミセの心に届くことはないのだろうと思いながらも、愚直にも祈らざるを得なかった。
ミセが僕を見る。
(え……?)
気のせいかと思った。しかしそれを気のせいと言うにはあまりにもあからさまだった。
(に、げ、て)
ミセは口を動かしている。
読唇術など出来るはずがないのに、そういう風にミセが言っているような気がしたのは、決して気のせいなんかじゃなかった。
(……逃げて)
間違いなくミセは口を動かし、僕に逃亡を提案する。
単純な三文字だったからこそ、唇を読むなんて言う芸当が出来たのだ。
そこでミセの行動の意味を理解出来た。
どうしてミセが桜井に近づいたのか。それは桜井の盾となるためなんかじゃなかった。桜井に読まれないためだ。この三文字の言葉を。
逃げて、と言うミセの言葉を桜井に悟らせないために、ミセはあえてそんな行動をした。
(逃げろ……だって……? 何を言って)
逃げるのはミセの方だと言いたかった。しかし言えば僕とミセの繋がりを桜井に悟られてしまう。だからこそ言えないもどかしさがある。
「ひ……ひひ」
嗤い声。
あるいは漏れ聞こえてきたただの吐息にミセの表情がこれ以上ないまでに引きつった。恐怖と絶望に塗り固められた表情。
その表情を見て陳腐だが死神を前にした人の姿を想起した。もうどうしようないことに絶望し、これから待つ恐怖を想像し、体が動かなくなった人。
最早殺されるのをただ待つだけの存在となったミセが、苦痛に表情を歪めているのが目に見えて分かった。
歯を鳴らして恐怖を紛らわすことも、口元と頬を痙攣させながらも、必死に「逃げて」と懇願するその姿が。
一瞬で発露する。
「こいつ私たち二人を殺すつもりだ! とっくにバレてる!!」
あり得ないことが起こった。
「…………っ!」
ミセの体が横合いに飛ぶ。
突然乗用車に吹き飛ばされたみたいにミセの叫び声が掻き消えるようにミセの体が吹き飛んだ。一瞬の衝撃にミセは受け身も防御行動も何も取ることも出来ずに壁に激突する。
「ミセ!」
そうなる前に地面を蹴って飛び出し、何とかミセの体を受け止めた。
ミセの小柄の体躯には見合わない衝撃が骨にまで達する。何十キロぐらいしかないはずのミセの体重が何百キロにも増加したかのような衝撃に、五、六メートルは余計に後ずさる。
「侮るなよ、クソモブ吸血鬼。僕は裏切られていることを想定しているんだ。騙し通せるとでも思ったか。自分の術がかかっているかかかっていないかなんて、把握しているに決まってる」




