295 悲嘆と孤独の姫
今まで重く口を閉ざし、言われっぱなしだったクラリスが初めてアクションを起こした。
指を動かし、牢の入り口付近に『銀の結界』を張り巡らせたのだ。
「近づけば……殺す……」
文字通り、自分に近づく者、全てを拒絶するかのような蟻一匹すら通さぬ細やかで強靭な『銀の結界』を。
クラリスの霊力は僅かばかりではあるが、回復している。少なくともこれだけの小規模な『銀の結界』を張り巡らせられる程度には。
「クラリス……? 本気か? 僕を……拒絶するのか……? 馬鹿かお前」
桜井の表情に初めて動揺が見て取れた。
狼狽え、目が僅かに泳ぐ。
そしてキッと目つきを尖らせ、
「何の冗談だ、ええ! クラリス・アルバート!!」
怒号を浴びせる。
一方クラリスは虚ろな目で、空虚な心で、一人静かに、
「勘違いしてる」
と。
「……な、に?」
「ずっと、感じていたこと……なんだけど」
空っぽにした心で、僅かに残った本心を桜井に聞かせる。
「私は“お前”には負けていない。私が敗北したのは“レディ”。この結社のナンバーワンの君主、レディ。お前じゃない」
「なっ……!」
今度は明らかに狼狽した。
だが心を殺したクラリスにはその狼狽など気にも留めず、これまたどうでもいい。
「お前はただあの場に居合わせただけの部外者。少なくとも私にとっての仇はあの女ただ一人。自らの暴力で私をねじ伏せたレディ以外は眼中にない」
「眼中に……ない……だって……?」
桜井の瞳の奥から光が消えていく。
寸前まではようやく欲しかったモノが手に入るかもしれないという喜びが見え隠れしていたものの、その光が薄く闇に呑み込まれていく。
「私にとって貴方はどうでもいい存在。薬にも毒にもならず、路上に転がる小石よりも無価値で、私の人生にとって何の関係もないただの外野、眼中の外の存在」
男にとって最悪の振られ文句だった。
自分のことをどうでもいい存在だと断じられ、自尊心を粉々に打ち砕かれたのだ。
憤慨しないはずがない。
「き、貴様! この僕を無価値だと言ったか! 無価値? 無? 無だと! 巫山戯るな!」
肩で息をし、目を血ばらせながら激昂する桜井に対し、クラリスはやはり静かに、
「私は誰かを好きになったこともないし、きっと誰かに好かれたことも無い。それはきっと、これからもね。でも、きっと。私がもし、本当にもし、誰かを好きになるとすれば、私は自分を殺せるような相手にしか興味が湧かないと思うわ」
仮定の話をするのが何とも愚かしいことかと思いながらも自分の考えを口にする。
だけど口にしてみると少しだけ、何かがこみ上げてきたのを感じた。
「ああ……そういう意味では、久遠かなた、あいつもきっと私を殺せるようなやつなのか」
この期に及んで浮かんできた久遠かなたの顔にクラリスは苛つきながらも心のどこかに暖かい何かを確かに感じていた。
「なに……」
この二人は会話をしていない。
この場に居合わせているのに、クラリスは言葉通り桜井智のことなど見ていない。見向きすらしない。
それが桜井にとって最大限の侮辱であり、屈辱であった。
「久遠……かなた……?」
桜井は、
(あの……男か……?)
思い出す。
レディに命じられ、悪疫を探している際に接触したあの男。
へらへらと笑いながら理想ばかり口にし、誰彼構わず愛想を振りまき、桜井智が本心から気持ち悪いと感じた少年。
そしてその少年が、
(クラリスが“名前”を呼んだ? クラリスが“認知”している?)
クラリスにとってどういう存在なのかを桜井は受け止めることが出来ない。
クラリスは孤独だった。
家族をレディに殺され、友人も作らず、恋人も求めず、ただひたすら己の研鑽に努め、復讐を果たすために生きてきた少女は孤独以外の何者でもなかった。
しかしその孤独の少女が“名前”を覚え、“存在”を認めた男の価値とはいったいどういうことなのか。
桜井の心がざらつく。
「殺してやるよ……」
それは会話のための言葉ではない。決して聞き取りやすい声などではなかった。誰かを呪う時のような声。実際、クラリスの耳には届いていない。
これは確認のための言葉。
決定事項を復唱する軍人のような冷静さと冷酷さを掛け合わせたような無慈悲な確認行動。
(どちらにせよ……僕はこの結界に触れられない。触れれば僕が傷つくだけだ。何のメリットも無い。ただ怪我をするだけなのが分かっているのに、触れようとする馬鹿がいる訳もない。だったら今のクラリスは放っておけばいい。――いずれ必ず、クラリスを僕のモノにする)
文字通り桜井智はクラリスに固執する。
それは時と場合によれば“愛”と呼べるモノに違いはない。ただ、それが“真っ直ぐ”か酷く“歪んで”いるかの違いでしかない。
身だけが欲しいのかと問われれば答えは否だ。
どうしても身を欲したければ自らのナンバーツーという立場を利用し、命令して服従させるという強行策も取れなくもない。
だがそれでは意味がない。
桜井が欲するのはクラリスの愛だ。クラリス・アルバートに愛されたい。ただ愛するのではない、愛し愛され、相思相愛という仲になることなのだ。
孤高に咲く高嶺の花のような存在だったクラリスが身も心も捧げるに値する男になった時、その瞬間に、桜井智という男の願望が初めて叶う。
――無価値だった男が、初めて価値ある男になれるのだ。
その願望を果たすための障害は全て排除する。
邪魔者ならば始末し、利用価値があるのならば洗脳し操る。
ただそれだけのこと。
そして、
「お前は殺す。……クラリスに認められている男は許さない。クラリスの愛を受けるのは僕だ。僕、だけでいい」
指針が決まれば後は行動だけ。
クラリスに背を向け、踵を返し、桜井はその場を後にする。
その道中、ふと、
(そう言えば、何故クラリスは指輪を持っていた? 普通捕虜なら所持品を奪うのは鉄則だろう? ……分からない。何故だ?)
そんなことを思う。
が、今はそれどころではない。
銀枷鎖には繋がれているのだ。逃げ出せるはずもない。
だから気にする必要性も今は感じない。今すべきことは久遠かなたという愚かしい男を排除するだけ。




