294 悲嘆と孤独の姫
暗闇に落ちてから一体どれだけの時間が経ったのだろうか。
時計が無いから分からない上にもう時間を気にする必要もないのでそれ自体に固執することはなかった。
ただ、
「くっくっくっく……」
誰かの笑い声が聞こえて、クラリスは顔を上げる。
目が暗闇にまだ慣れていない。檻の向こうに見える人影だけが肩を揺らしながら笑っているのが分かるだけでその影の正体には気が付かなかった。
「無様だね。クラリス・アルバート。今のキミはとても薄汚い。路上に捨てられたフランス人形のようだ」
その声を聞き間違うはずもなく、暗闇に目が慣れていき、その薄暗い相貌が露わになる。
――桜井智。
結社のナンバーツーであり、クラリスにとっての仇とも呼ぶべき天敵。
その天敵が何故ここにいるのか。
理由は気になるが、クラリスは全ての事象が億劫に感じていた。
クラリスは全てを“どうでもいい”と片付け、考えるのをやめたのだ。
如何なる理由があり、目の前に、手の届く距離に天敵が現れようとも、もう微動だにしない。
体が――ではない。
――心が――だ。
クラリスは銀枷鎖に繋がれたまま無表情に桜井智を見つめる。
目は虚ろに、心は空虚に。
「ははっ……、無様。無様、無様。ほんっとうに無様! くっ、くっくっく……は、はーっはっはっはっは!」
クラリスにはどうして桜井が腹を抱えるようにして桜井が笑っているのかを理解出来ていなかった。
心を折られ、心を閉じ、心を殺したクラリスには分かるはずもなかった。
「お前は、お前は! クラリス・アルバート! ヴァンパイアハンターとして名高いアルバート家の実子、クラリス・アルバート! 当然、力も権力も何もかもが僕よりも上で、何もかもが恵まれ、誰からも憧れられて、時には羨望、時には嫉妬や妬みの対象となって、カースト上位のエリート様。……くくっ……」
「……?」
桜井は感情が昂り、抑え込むことが出来なかったのか、目の前の鉄の檻をガン! と思い切り殴った。
「そのエリート様が今や結社の牢獄に幽閉され、無様にも薄汚れたお姫様…………は、はっはっはっはっはっは! これが! 嗤わずに! いられるか! はっはっはっはっはっは!」
桜井はまるでこの世の終わりを目の前にした時のような狂いじみた哄笑を浮かべる。
「分かんないだろ、お前には。カースト上位の存在のお前にはさあ! 力も無く、ずっとカースト下位に甘んじるしかなかった弱い立場の気持ちはさあ! どんな気分だよ、ええ!?」
今度は檻を揺さぶり、クラリスをとことんまで煽り、嘲る。
「………………………………」
クラリスは答えない。
「お前は誇り高かった! 僕がお前を初めて見た時はもうレディの奴隷であったくせに、何故か目が死んでいなかった。いつかレディを超えてやると虎視眈々と窺っているかのような目で、常に前を向いていた!」
「………………………………」
クラリスはやはり答えない。
「それが! 気に入らない!」
ガガン! とむしゃくしゃした気持ちを表すかのように桜井は檻を手荒く蹴った。
「だが、実際にお前は負けたんだよ。ざまあないな、クラリス・アルバート。お前は“僕たち”に負けちまったんだよ。カースト下位、いや。カースト最下位のお姫様」
「………………………………」
それでもやっぱりクラリスは何も答えない。
「ち」
いい加減何も反応が無いことに桜井は苛立ちを見せる。
「何とか言いなよ。無視してるのか? 子供みたいだな」
「………………………………」
「まあいい。なあ、クラリス・アルバート、いいや。“クラリス”。僕がお前を助けてやろうか?」
初めて桜井がクラリスのことを罵るのでもなく、嘲笑うのでもなく、ただ、名前を呼んだ。
「僕ならお前を助けてやれる。僕だけがお前を救い出すことが出来る。この薄汚い牢獄から光ある外に連れ出せる。それがどういうことか分かる? カースト最下位からまたお前をカースト上位にしてやれるんだ」
そして、
「だから僕のモノになれ。そうすれば、そうするだけでお前の立場は元通りになる」
牢獄の檻越しに、
「僕はお前が好きだ」
桜井は愛を囁く。
「………………………………」
「僕はお前が憎い。僕はお前が羨ましい。僕はお前に憧れる。僕はお前に嫉妬する。――だけど同時に僕はお前のことが好きで好きでたまらないんだよ。殺したいほど憎いと思うのと同時、殺したいほど愛している」
人を蔑み、嘲り、そして嗤うような男の口から出てきた愛の言葉。
それは決して真っ直ぐな想いなどではなく、ひどく歪んでいる。
しかしその想いは紛れもなく本心であり、その歪な形もまた“愛”であった。
「一目見た時から思ったよ。誰よりも美しいお前を、この僕が、僕が穢すことを想像するだけで、心臓が高鳴って、ぞくぞくする」
興奮を抑えきれない桜井は自分の喉を掻きむしるような仕草を見せ、檻の鍵を開ける。
ぎい、と言う重い音を響かせ、牢の扉が開く。
「どうだ、クラリス? 悪い条件じゃないだろう? 僕の想いに応えるだけでお前は今までの地位を守れるんだぞ?」
もう答えを聞くまでもないとばかりに桜井は徐々にクラリスに近づいていく。
そしてやがてクラリスは、
――静かに指を動かした。
答えは桜井の頬を掠めることで示す。
「……………………は?」
つーっと桜井の頬から流れ落ちた一筋の血液。
あまりにも綺麗に切れたものだから桜井に痛みは無かった。何かが頬を伝っているのが分かり、それを指で拭うことで初めて桜井は自分の頬が切れているのだと理解した。




