288 結社の掟
「ぐ……あ…………、…………っ」
現実を直視し、今の今まで機能していなかった痛覚と言う感覚が一気にフル稼働で動き出したかのような感覚に悶えながら、その場に倒れ込んだ。
(い、……息、息……が……で、でき……でき…………な…………っ…………!!)
呼吸が出来ないだけで人は簡単にパニックに陥る。呼吸と言うこの世界に生まれ落ちた瞬間に、まず覚えるべき生存本能が機能しないだけで人は簡単に悶え苦しむことを男は初めて“理解”した。
「うへー、気持ち悪い-。ははっ、地面を這い蹲って、死にかけの虫みたい」
そんな男を見下ろしながら桜井は男をこれでもかというぐらい嘲笑し、嘲り、侮辱し、――そして、嗤う。
笑うのではなく、――嗤う。
「か、は……はー……は、……はっ……は、……はー……は……は…………は……っ」
男に桜井の言葉は届かない。正確には音として認識することは出来るが、それがどのような言葉で、どのような嘲りで、どのような侮蔑が込められているのかを“理解”することが出来ないでいる。
言葉を理解出来ないということは相手の侮辱が意味を成していないのと同義である。
では、侮辱、侮蔑の意味とはなにか。
相手を愚弄するのが目的か。答えは否。相手の反応を見るためである。
そして。
今の男の反応は桜井智という男にとって、何ともつまらない反応に見えた。
「息が出来ないみたいだね。じゃあ……息、させてやるよ……っと!」
男の傷口を桜井はつま先で蹴り上げる。
「――――――!!」
激痛で男の意識が飛びそうになる。しかし歯を食いしばりそれを堪える。意識を途絶えさせた瞬間、自分は終わる。そう考えたからだ。
うつ伏せに倒れたまま男は自分を蹴り上げた桜井の姿を睨みつける。
口の端からは血が混ざり切った涎が流れ落ちていた。
「ぎ……ぎぎ…………さ、くら……い……い……いぃ……!」
殺意と敵意の混ざる眼差し。
どちらが上でどちらが下なのか。そんなものを考える必要などない。どちらも同じ。目の前の敵を殺してしまいたいという意志しか残っていない。
「いいね。その目。何度見ても、いいよ。ぞくぞくする」
しかし。
男には抵抗する力が欠片も残っていない。意識を保つだけで精一杯であり、反撃する力すら残ってはいないのだ。
詰まるところ、――無抵抗。
目の前に転がっているのは喋る木偶人形でしかない。
「僕を舐め腐って。僕を侮って。僕を甘く見て。僕を――弱いくせにいきがってと。僕を馬鹿にしたやつを徹底的に叩き潰し、侮蔑するの……ほんと、本当に――楽しい!」
再び桜井は男、――木偶人形を蹴り上げる。
蹴って、蹴って、蹴って、蹴って、蹴って、蹴って――――蹴り続けた。
「くは……はは、ははっ、――――はははははははははは!」
嗤いながら何度も何度も蹴り続ける。
「お前、馬鹿だろ。馬鹿、馬鹿、ばーか。僕を殺せると思った? 殺せる訳ねーだろうがよ。僕は守られてるんだ。レディに! この世、最強の存在に! 僕を殺すなら、僕を殺したいなら、僕よりも先にレディを殺さなきゃいけない! けど、無理だ。そんなことは無理! だってレディはこの世で最強。最強を殺す? どうやって? 理論上不可能! はい、残念!」
男は朦朧とする意識の中、どうしても拭い切れない疑問が頭を過ぎる。
どうせ自分は死ぬ。どうせ助からない。どうせ――殺される。
だったらこの疑問を解消してから死ぬ。
一矢を報いることすら叶わずに死ぬのならば、せめて納得して死ぬ。この死は仕方が無かったのだと納得して死にたい。
「な……ぜ……レディが……お前のような、存在を……守る……? ひ、つよ……うが……ない。れ……で……ぃ…………が、お、……前を……愛してい、……る……などと……戯言を……ほざく……やからが……いる……、……のは……し、……知って…………る……。あ……、愛……だとでも、言うか? ……ば、ば……かに……するな、よ……? あ。あの……あんな……目をする……女が……、あ、……愛……だ、と……ふ、ざけ……」
強いものが弱いものを守る。
美しい話だ。穢れなど一切なく、美しく、気高く、尊い、まるで美談。
だが男は知っている。
あの“目”を。レディが我々に向ける何の感情も浮かばないような、あの冷たくも青白い炎が灯るような“目”を。
「愛? 愛だって?」
それは耳を疑うように、そして今世紀最高の冗談を聞いた時のように、
「はは、はははははははははははは!!」
狂ったように笑い出した。
「ないない。それはない。ははは! 最高だよ。お前! 馬鹿もここまで極まると道化じみて最高に面白いや!」
目尻に浮かぶ涙を軽く拭い取り、
「ああ。でも、本当に面白かったからご褒美に答え合わせだ」
言う。
「ある訳ないだろ。レディに対してそんな不確定極まる謎物質なんて――」
極端な話。それは本当に極端な話、ゼロか一〇〇かの話。
愛なんてものを証明することは不可能だ。
この世のどんな物質、存在、エネルギー体に愛なんてものは含まれていない。
愛は証明するものではなく、語り合うものだ。
言葉を交わして語り合うのも愛であり、目と目で語り合うのも愛であり、拳と拳で語り明かすのもまた愛である。
だから当人同士が愛が存在すると言えばそれは存在“する”し、逆に今度はどちらかが一人が愛なんてものはないと言えばそれは存在“しない”ことになる。
そして桜井ははっきりと言った。
愛なんてものは“ない”――と。
――レディに対しては。
と。
「分かってるだろ? 気付いているだろ? もし、気が付いていないなら真正の馬鹿だし、気が付いていてその質問をしたってんなら、もっと馬鹿だ」
それは誰もが口にしなかった、――いや。出来なかった答え。
「レディは吸血鬼だ」
初めて男はその言葉を口にした。
言葉にしてしまえばなんてことのない、ただの、そう、ただの普通の言葉に過ぎなかった。
でもその言葉を口にすることはこの結社においての暗黙の了解となっている。
「馬鹿にするなよ。そんなのとっくに気が付いている。俺だけじゃない。全員だ。この結社の人間、全員が気が付いている。誰も彼もがレディの正体に感付いておきながら、それでもそのことを口にすることが出来ないでいるだけだ。この結社の人間は吸血鬼に対して何かしらの憎悪を少なからず持っている者たちばかりだ。だって、そうだろう? もし、吸血鬼に対して罪悪感なんかを持ってしまったら、吸血鬼を殺せなくなる。害虫駆除の業者がいちいち害虫に対して罪悪感なんかを持ってしまったら仕事が出来なくなってしまう。それと同じだ。ああ、俺たちの仕事ってのはそれと同じなんだ」
ある意味でこれは“暗黙の掟”とも呼べるモノだろう。誰かが言い出した訳でもなく、誰かに強要された訳でもなく、誰もが従わなければならないという了解もない、結社の“暗黙の掟”。
「そうさ。分かってるじゃないか。レディは吸血鬼。ま、もちろんただのモブ吸血鬼なんかとは訳の違う吸血鬼な訳だけども、所詮は吸血鬼さ。“人間”の僕が“吸血鬼”なんかを愛する訳もないし、その逆もまたあり得ない。それはさ、獣に欲情するような変質者ぐらいおかしなことなんだよね」
「ならば……何故。どうしてレディはお前を助ける? お前の言い草ならばお前を助けることなど、それこそあり得ないことだ」
両者の間に愛というモノは無い。これははっきりとしている。これは最早、否定ではなく断定である。
――ないかもしれない、のではなく――あり得ないと来たものだ。
「んー? 逆に言えばさ、あり得なくないことだから僕のことを助けてるんじゃないの?」
「な……に……、ぐっ……――」
桜井の言葉に動揺してしまったことが原因か、今まで麻痺していたかのような痛みが現実に戻って来た。
「はいはい。死にかけは余計なこと考えなくていいんだよ。とっとと死んじゃいな」
愉快気に桜井は男の死を宣告する。
男もそれが避けようのない事実だと“分かってしまう”のが何よりも口惜しいと思う。
「でも、ま。最後に一つだけいいことを教えてあげようか」
「……?」
「レディが言ってたろ。――いつも通りにって」
「いつも……通り……だ、って? つ、つまり……?」
「つまり、さ。お前が初めてじゃないってこと。僕を甘く見て、侮って、馬鹿にして、僕を殺そうとするやつは」
「まさ……か」
「そういうヤツを僕は何度も返り討ちにしてきたんだ。もちろん、レディに手伝ってもらってね。んで、レディは直接的に僕を殺そうとしてきた人間を殺したことは一度だってない。精々が半殺し。ま、今のお前みたいにね。あーでもお前の場合半殺しと言うよりは四分の三殺しって感じだけどね」
そう言いながら桜井は嗤う。
「何故そんな回りくどいことを」
「何故? あ、あは、あっはは、ははは……」
ひとしきり嗤って、そして。
「そんなもの。僕が遊び殺すために決まってんだろ、ばーか」
「遊び……殺す……」
男は桜井を前にした時に感じた恐怖を思い出した。
アレは、あの時感じた恐怖の正体はてっきり桜井の背後に
いるレディの影に怯えていただけなのだと思っていた。
だが事実は違う。
桜井は自分のことを“弱い”と言った。だからこそレディの影に隠れ、レディの虎の皮を被り、威を表しているだけなのだとばかり思っていたが。
――桜井智という人間はどこか“歪んで”いる。
人間を殺すことに――いや、言い方を変える。
“同族”を殺すことにどこか快感と喜びを感じている。踏みにじり、侮蔑することに悦楽する。
決してそれは“力”の無いモノが持っていいような思想ではない。その考え方と行動はレディのような“力”のある者だけが持っていいことなのだ。
もし“力”の無い者がそのような思想を持ったとしてもそれは空虚となる。
ただの妄想、妄言の類。
しかし桜井の場合はそれが実現出来てしまう。危ない思想を実現出来うる力を、桜井智は持ち合わせてしまっている。
「は、はは……」
乾いた笑いが出た。
もう助からないという諦念。
そして。
――桜井智という人間を見誤っていた自分の愚かしい目を。
あざけ笑う。
「もう俺は助からん。息をするのだって苦しいんだ。分かる。もう、俺は死ぬ。お前に殺される。だから言いたいことを言って、――死ぬ」
桜井は一瞬怪訝そうな表情を浮かべる。言葉の意図を理解するのに時間が掛かったからであるが、それでも自分の優位性を理解し、優先した結果、ほくそ笑んでこう切り返す。
「ねえ、知ってる? そう言うのって負け犬の遠吠えって言うんだけど? 恥ずかしくない?」
男は死にそうな顔で言う。
「いや? どうせ死ぬんだ。恥も外聞もあるか」
これは男に残された力による精一杯の抵抗。桜井の言う通り、ただの負け犬の遠吠え。言い換えればただの負け惜しみ、あるいは捨て台詞。
冥土の土産にも満たない自己満足。
「お前は“怪物”だ。紛れもない怪物だよ。人間しておくには惜しいぐらいの、そして」
だがこの自己満足で桜井の心に僅かばかりの靄でもかかれば、それは僥倖である。
「俺の経験上、最も弱い怪物、そうだな。――――最弱の怪物ってところだ」
そう言って男は腹が裂けるような大きな声で、意趣返しのように笑い出した。
「うはははは! そうやっていつまでもレディの影に隠れていればいいさ! お前がこの結社でナンバーツーと呼ばれているのはお前が強いからじゃない。誰も彼もがレディの強さに惹かれ、レディの強さに怯えていたからに過ぎない! お前を馬鹿にして? お前を甘く見て? お前を侮ったヤツを散々遊び殺したと言ったな? 当然の評価だ。お前を認めているヤツなどこの結社には誰一人としていやしない!」
痛みで感覚が馬鹿になっているのか、それとも抑圧された感情を爆発させたことにより気分が高揚したのか、とにかく男は気分がいいと感じた。
「…………」
対して桜井は眉根にしわを寄せ、不服そうに、不快なモノを見るような目で倒れた男を睨む。
「理解に苦しむよ。どうしてレディがお前のような役立たずを傍においておくのか。は、ははっ。役立たず。役立たず、役立たず、役立たず! 結社の価値を下げるだけの存在、とっとと地獄に落ちてしま――――」
「死んどけ」
男が最後の言葉を言い切るよりも前に桜井は男の最期の灯火を踏み潰した。
「僕のことを役立たずだって僕よりも下の存在が言うのか。はっ、笑える。最高最高、面白い」
男の目論見は見事に成功した。男が残した最後の言葉は桜井の心を縦横無尽にかき乱した。心の空間の中を男の言葉が駆け巡り、それが桜井の中で不快感となって表情に現れる。
「僕がレディのお飾りだって思ってるんだろ? 違う。違うだろ? 僕はこの力を手に入れてナンバーツーになったんだ。じゃあ、この力の持ち主であるこの僕はお前らより上なんだよ。下っ端は黙って従ってろ、出来ないなら死ね。ここはそういうところだろうが」
最後に唾を吐き捨てるように悪態を吐いてからその場を後にした。




