287 結社の掟
「自信、ね」
桜井は自分に向けられている殺意を前に思わず微笑を浮かべた。
桜井にとってその殺意はそう珍しいモノでもない。むしろ日常的に浴びるモノだ。
だから殺意だの敵意だのにとてもよく慣れている。
しかし今、感じている殺意に思わず笑みが零れた。
「もっとはっきり言いなよ。僕を殺せる“自信”じゃなくて、“確信”だろ。今、キミが感じているのは。僕を殺せる……いや。違うな。僕なら簡単に殺せるってな」
「ぐっ」
男はぐっと歯噛みする。恐怖を噛み殺す。
「そこまで理解しているのなら話は早い! そこをどけ! お前を殺して俺はここを出る! 簡単な話だ! 強い奴が弱い奴を黙らせる! それがここの掟だろう!」
ぐっと地面を蹴り、男は疾走。
頭を刺す。首の骨を折る。心臓を射貫く。胴体を切断する。
順序、方法、手段――何でも構わない。
目の前の人間、障害を排除するのみ。
「僕を侮っているんだな。僕を舐めているんだな。僕を甘く見積もっているんだな」
桜井は目の前に鬼気として迫ってくる男を前にしてもその微笑を緩めない。むしろその口角が愉快気に上がっていく。
そして、桜井はくすりと嗤い、
「正解」
ぱちぱちと軽めの拍手をする。
「自分で言うのもなんだけどね。僕、はっきりと言って“弱い”よ」
男は桜井の言葉に耳を傾けない。
どうせ挑発だ。どうせ命乞いだ。
その類の言葉ならば散々聞いてきた。
だから聞く必要などない。
「だったら不思議だろ。何で僕がこの結社においてナンバーツーなんて呼ばれているのか。霊力も並。戦闘能力も並。頭脳も並。度胸に至っては並以下だ。とてもじゃないがナンバーツーの器なんかじゃない」
武器に力を込め、そのまま振り抜く。
(や、やった……!)
ガギンという鈍い金属音。例えるなら動物の骨と金属がぶつかり合ったような生々しい接触音。
男は――勝った、そう思った。
勝ち誇り、口元を歪めた。だが、その表情はすぐに疑念へと変わる。
手ごたえはあった。
否。
――手ごたえがあり過ぎた。
異常なまでの感触に男は視線を振り抜いた先ではなく、振り抜いたと錯覚した地点へと戻す。
男が見たモノ、それは手だ。
闇から伸びた人間の手。
その手が男の武器をいともたやすく捉えていたのだ。
武器を掴まれ、男はその手が幻覚の一種ではないのだと自覚する。
その手は男と比べようのない程の膂力であり、男は武器を前に押し切ることも武器を後ろに退き抜くことさえ出来ない。
「な……な……」
男の顔が一瞬で青ざめる。
あり得ないことだと男は絶望し、呪いさえする。
「やれやれ」
声は。
呆れるような、あるいは達観した声。透き通るような美声でありながらも男はその声に恐怖する。
「な、なぜ……」
声色だけでなぜこうも体が硬直するのか。
答えは簡単だ。それは恐怖の象徴だからだ。男がこれまで生きてきた中で最も恐怖を感じ、最も抵抗してはいけないと体に刻み込まれた恐怖の象徴が――今、目の前にいるから。
「――レディ、なぜここに――」
薄闇の中においても漆黒の長髪は艶やかに輝き、肉体美とも言うべき頑強にしかししなやかにすらりと伸びた長身、高貴めいた日本人らしからぬ相貌、こちらを射貫かんとする真紅の瞳。
その全ての条件が目の前に現れた人物像と男の中にある人物像が合致する。
間違いなく本物。本物のレディ。この結社の頂点。その人である。
だからこそ男は困惑した。
あり得ないことだと、狼狽し、怯える。
「ふん。くだらぬな。何を震えておるのか」
レディは静かに語る。至極単純な疑問を投げかけるかのような気軽さで。相手の心を理解しようともしない不遜な言葉を。
「……………………っ」
男は答えない。否。答えられない。
セメントのようにドロドロと、しかし確実に時間が経てば体が固まっていくかのような恐怖心に全身――、心までもが塗り固められている。
レディは、
「つまらぬ」
男のそのような姿を見て、たったの一言で断じる。
何故相手が固まっているのかも、何故問いかけに答えないのかも、ただの『つまらぬ』という一言で全てを切り捨て、些事であると決めつける。
「まあ、よい。儂も忙しい。今回ばかりはいつも通りと言う訳にはいかぬ。手短に済ますとするか」
「え……」
あまりにも、それはあまりにも一瞬の出来事に過ぎなかった。
男が視線を下にずらす。
理解の範疇を超えていた。
「……は?」
まず見えたのは腕。否。腕だけだ。より正確に言えば肘よりも下、つまるところ手首の影も形もない。だがそれはあり得ないことだ。何せ、今、自分の目の前にはレディがいる。
だったら何故、見えない?
そして何事も無くレディは自分の腕を引き抜く。
――引き抜く――。
「くふ……っ」
まるで今まで時間が止まっていて、今この瞬間に動き出したかのように。
――男は血を吐いた。
「が……、あ…………、…………っ……あ、……あ……?」
男はよろめきながら、霞む視界の中に見えた事実を確認する。
今さらに過ぎるという点には目を瞑りながら。
目の前にはレディが立っていた。その右腕を鮮血に染めて。
「…………れろ」
レディはその腕に付いた血を舐める。
「不味い」
そしてその血を呑み込まぬようにとしたのか、唾と一緒に地面へと吐き捨て、
「もう用はないな。後は好きにするがいい」
そう言い残して再び闇の中へと消えていった。