285 結社の掟
「くそ……くそ……くそ……くそ……くそ……くそっ!」
男は走っていた。
目的地はない。否。どこでもよかった。ここでない場所であるのならば。強いて言えば“ここではない場所”。それが男の目的地であった。
男は自分の不運を呪った。
せっかく手に入れたチャンスであった。
結社の幹部の椅子の内の一つが空席となり、誰もが平等にチャンスを与えられたのだ。
こんな千載一遇のチャンスを逃すことなど、この結社に身を置いているのならば逃すはずもない。
いや、平等とは言葉だけだ。
この『結社』たる組織。
結社の掟。
それはただ一つ。
強者に従う。
この一点。
ある意味でこの掟は全ての理に通ず。
男は理解していた。
空いた席に座るのは自分ではない。
所詮自分程度の実力ではその椅子に座ることはおろか、その椅子に触れることも、その椅子に座った自分を空想することさえおこがましいのだと。
しかし僅かばかりの希望を見た。
違う。
――望んだ。
藁にもすがる思いとはこのことかと、このチャンスに全てを賭け、そして委ねた。
だが、自分の体は思った以上に恐怖に対し、あまりにも愚直であった。
『智様の直系の部下。部隊の内の一人。ここまで言えば分かる?』
この組織において逆らってはいけない人間が二人いる。
それは絶対的存在であり、この結社におけるトップ『君主レディ』。
そしてそれに準ずる結社のナンバーツー『桜井智』。
『邪魔をした報いは受けないとね』
言葉を思い出すだけで体の芯まで冷えるようだ。
しかし寒さで体を縮こませている場合ではない。今、すべきことは一刻も早くここを離れること。
結社に未練はない。
そもそもこの組織はいつからかおかしくなっていった。元々は吸血鬼を狩るべき組織であったはずなのに、今やどういう訳か結社の中を吸血鬼たちが悠々と闊歩している有様だ。
それに口を出すことさえ自分は出来ない。
吸血鬼を従えているのがあの桜井智であるのだから。
桜井智。
誰もが彼の戦う姿を見たことが無い。この組織での仕事は精々がレディの小間使い。
レディの命じた任務をこなす。
任務の内容までは組織の末端である自分には想像が及ばないが、それでも確かなことが一つだけある。
それは誰も彼もが桜井智が戦っている姿を見たことが無いと言うことだ。
任務内容が吸血鬼の討伐あるいは生屍人の討伐であるのならば、桜井智が戦っている姿を少なくとも一人や二人が目撃していてもおかしくはないはずなのだが、その姿を誰一人として見たことが無いと言うのは流石に不自然だ。
誰もが桜井智の戦っている姿を見たことが無いと言うのに、どうしてあの男がこの組織においてレディの次に権力の強いナンバーツーを名乗り、そしてそのことに対して誰も疑問にさえ思わないのか。
男は暗がりの中を走りながら考えた。
――本当はあの男、弱いのではないか、――と。
妾。
レディにとっての桜井智は正に妾のような存在なだけ。可愛がり、愛するためだけに、ただそれだけの理由のために力もないのに自分の傍、つまりはナンバーツーというポストに置かれた案山子なのではないか、と。
男は現実逃避のようなこじつけであり、願望であり、妄想であり、空想まがいの思考を巡らせる。
「はあ……はあ……、はあ……はあ……、は……あ……っ!」
疲労で下がる頭を上げ、そして見やる。
出口が見えた。
(ここから……出る……! ここを、出て、しまえば……っ!)
男は最後の力を振り絞り、拳を握り直してから再び駆ける。
「うーん? どこに行くのかな。キミは」
空気に緊張がみなぎる。
男は信じられないとばかりに自分の中で悪態をつく。
(どこまで……、どこまで今日の俺は運が悪いんだ……っ!)
男の前に現れたのはたった一人で姿を現した桜井智、本人であった。