266 心を凍らし、炎を燃やす
どちらからともなく、僕たちは剣戟を繰り返した。
走る刀身。
躱し、往なし、迸る火花。
「――――――――ッ」
「――――――――」
勝負は拮抗している――とは言い難い状況なのが現状。
相変わらず彼女の剣は“疾い”。“速い”のではない。“疾い”のだ。疾い剣筋を見極めるにはあまりにも自分の実力が足りない。剣の達人に剣の道を一歩でも踏み出したことのないド素人が敵うべくもなく、そもそもそのような仕合など、お話にならない。
しかしそれでも僕は彼女の剣技に付いていく。
攻撃が見えないほど疾いのであれば、僕はせめて致命傷を避けるように攻撃を回避する他ない。
数値で表すのであれば彼女の優位性が九で僕はたったの一。
しかしたったの一でも勝ちの目があるのであれば僕は諦めない。縋り、噛み付き、泥臭くあろうとも彼女と戦い続ける。
が、限界は――、
「なるほど。――では」
――ある。
「少しだけ本気を出します」
次の瞬間、周りの温度が上昇した。
熱気が上がったにも関わらず感じたモノは寒気だ。それも桁違いの寒気。まるで命を脅かされた時のような、圧倒的な圧迫感と共に。
恐怖。
その時に感じたモノは紛れもない恐怖。彼女の口から発せられた“本気を出します”と言う言葉に言い表せないほどの恐怖を感じたのだ。
「焼け、焦げろ」
と、言って。
刀の柄から伸ばした人差し指と中指をこちらに向けた瞬間、
「――――――――――――ッ!!」
爆発が起こる。
目の前でプラスチック爆弾でも爆発したみたいだった。熱風を全身に浴び、体中の水分が蒸発でもしそうなぐらいの熱量をもろともに受け、爆風で体は吹き飛んだ。
抵抗何て出来るはずもなかった。
疾さと威力のつり合いが取れていない。
はっきり言って滅茶苦茶だ。
爆発で通路のガラスが全て割れて、真新しい焦げ跡が通路の床から天井にまで出来た。
再び壁に背中から叩きつけられる。
「がは…………っ…………!!」
心が、折れかける。
実力差を実感する、と言うか。あまりにも……あまりにもだ。今まで彼女の剣技に付いていけていたのはただ単純に彼女が“本気”を出していなかっただけ。ただそれだけのことだったのだ。忘れていたが彼女は“十字架を背負う者”としての宿命を背負わされた少女。
その宿命がどれだけの重さを持っているのか。その宿命を背負うに値する“力”が一体どれだけのモノなのか。
理解していなかった。
…………勝て、ない。
初めて僕はこの少女に、栗栖梨紅という少女に敵わないと心の底から思ってしまった。
「終わりですね」
彼女が近づいてくる。
どうするべきか分からない。
逃げ出すべきなのだろうか?
しかし体は動かない。
「最後に言い残すことはありますか? 赤の他人であるあなたですが、それでもその実力は本物です。それぐらいの栄誉は与えましょう」
(……………………!)
一番、効いた。……なんか、キた。
きっつ……。
冥途の土産を促されたことにショックを受けたんじゃない。
彼女の口から赤の他人であることを口にされたことが何よりも効いた。
こんな……気持ち、だったのかな?
知っている人に――――いや、自分が好きな相手に“初対面だよね”って言われた時彼女はどう思っていたんだろう? 僕は正直、今、すごく泣きたいぐらいには辛い。
でも不思議と涙は零れ落ちなかった。
分かったからだ。
「…………あるよ」
「へえ」
「最後に一つ、これだけは言わないといけないと思う」
「なんでしょうか。命乞いならお早く。私には時間がありませんので」
彼女は気が付いていない。
だから言うのだ。僕にしか言えないことを。僕しか言ってはいけないことを。僕が。僕自身が。言うんだ……。
「久遠かなたってヤツはクズだね。本当にクズだ。――――そんなやつの言うことなんか聞く必要はない。ましてや――好きになんてなるな」
「――――――――――――――――ッッ!?」
刀が突き刺された。
焼けるような熱さが左肩に走る。
「他人が……何を……!」
激昂したのだ。僕の言葉に。久遠かなたという少年のことを否定されて。滾るような怒りを覚えたらしい。
左肩に刺した刀をぐりぐりと動かす。中身を抉るように。肉をいたぶるように。苦痛を与えるために。
奥歯を噛み、苦痛で漏れる声を我慢する。
声を出すな。出してはいけない。この痛みは僕の痛みではない。――――彼女の痛みだ。
「く、…………た、他人だから言え、るんだよ……。他人になったから…………分かったんだ。…………な、何度でも言ってやる。…………久遠かなたはクズだ。救いようのない大馬鹿――――――――だ、――――――!!」
言葉を言い終えるよりも先に刀が肩に深く突き刺さる。
左肩が炎上しているようだ。これは単純な痛みなのか、それとも彼女の用いる術による作用なのか、それすら分からない。
「彼のことを馬鹿にする人は誰だって許さない。聖人だろうと悪人だろうと玄人だろうと素人だろうと――関係なく許さない」
どんな状態であろうとも栗栖梨紅という少女は久遠かなたを愛している。
いや、もしかしたら――。
久遠かなたという少年のことしか見えていないのかもしれない。
彼女にとって彼は絶対的な存在なのかもしれない。ただ、恋をしたと言うにはあまりにも盲目的だ。彼に全てを捧げ、彼以外の全てを排除することも厭わず、妄信する。
「…………どうしてそこまで」
呆然しながらそう尋ねた。
左肩に刀が突き刺さっているくせに、痛みも麻痺しているのかあまり感じなくなっているのに、どうしてもそのことだけは聞きたかった。
「彼だけが私を認めてくれた――」
それは聞いたことも無いような話であった。改めて聞けるような話でもない。
栗栖梨紅の心の闇。
――近くにいると見えなかったモノ。
――近くにいたのに見ようともしなかったモノ。
久遠かなたがクズたる所以。
「誰も私のことを認めてはくれなかった。私の存在を。私の価値を。私の意味を――。血の繋がった親も私を疎んだ。父は私が生まれてすぐ後に他の女の元に逃げて、母は父に逃げられたことと私を抱える羽目になったショックで酒に溺れて、友人は誰一人出来ず、悩みや葛藤を相談出来る相手も誰一人としていなくて」
絶望の声を聞いた。
絶対に他人は見せないような声と表情。
「――――――――う!」
頭の中が酷く痛む。
「そんな中、彼だけが私を――叱ってくれた。心配してくれた。笑ってくれた。泣いてくれた。怒ってくれた。……ああ、自分はちゃんと人間なんだと思い出させてくれた」
そんなことはあり得ない。
分かっている。
あり得ないことなんだって。
――真っ白だ。
頭の中が真っ白に染まっていく。
何かが浮かび上がろうとする瞬間、もうすぐで何かが掴めそうになるその瞬間、外から白いペンキで塗り潰されるように頭の中が真っ白になっていく。
自分の意志じゃない。
思い出しくない記憶を自らの防衛本能で塗り潰しているのとはまた別に、記憶を封印するように白く塗り潰される。
塗り潰される瞬間の記憶。
それは、
――彼女、栗栖梨紅の幼少の頃の姿。――横倒しになったトラック。――魅入られるほど綺麗な真っ赤な炎。
そこまでは思い出せる。
だけどその先がダメだ。その先だけが……どうしても。
誰だ?
一体誰が邪魔をしているんだ?
そしてこの記憶は一体……?
「理解出来ますか? 貴方に。生まれてからこの方ずっと、人間扱いを受けていない者の痛みを――――!」
「っ――――――!?」
押し込められる刀の切っ先。
痛覚はより鋭くなる。
「だから私は救われた――。救われて、ほどなくして……私は彼のことが好きになった。好きになって、好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで、好きでたまらなくなっていった」
限界にまで押し込められた刀を逆に抜きながら、
「……そんな彼を馬鹿にするというのなら私は貴方を許さない。許せるはずもない――」
妖しく笑う。
「ふふ……。さあ、これで十分でしょう? 私が彼のことを愛する理由など些末なものです。所詮他人にはね。……今度は私が貴方に問う番です。なに、簡単なことです。どうして私がこんなことを話すのか。他人である貴方に」
簡単なことだ。
考えるまでもない。
答える必要さえ見いだせないほどの愚問。
「……確実に殺すと決めたんだろ。だったらもうすぐ死ぬ相手に何を話そうと関係ない。――死人に口なし、つまり、そういうこと」
にぃっと笑みを浮かべ、
「正解です」
いつも僕たちに見せていたような顔で笑う梨紅ちゃん。
同じような笑顔なのに、いつも見てきたような笑顔なのに、その笑顔を見るのはとても不安を煽られるようだった。怖いとか悲しいとかと思う前に不安を覚える。
「と言う訳で。――――――死んで」
……簡単に言うなよ。
キミが、そんな簡単に、…………言うなよ。
死ねだの、殺すだの。
皮肉なものだけど。
彼女はきっと何でもやる。文字通り、何でも。
久遠かなたのために久遠かなたを殺すことも吝かではないといった感じか。
彼女が刀を構える。
突きの構え。
絶体絶命。
(――――――何でも、か)
この期に及んでようやく自分の覚悟が決まった。
「死――――」
「ぬ、訳にはいかないんだよなぁ……!」
心臓を狙った刃をまだ動かすことの出来る右手で受け止めた。
貫通した刃の切っ先は心臓に届く前に止まる。
自分でも信じられないぐらいの膂力だと思う。彼女の刀を受け止め、離さない。
彼女の顔が強張る。
自分の武器を受け止められたのだ。
次の行動など相場が決まっている。
反撃。
彼女の頭の中に浮かんだ危機感知能力がそう叫ぶ。
だから僕もすぐに行動を移す。
逃げられる前に。
届かなくなる前に。
言う。
否。
――叫ぶ。
「僕に惚れさせてやる!」
――――と。