265 心を凍らし、炎を燃やす
「ち」
小さな舌打ちのような音を発した後、彼女は即座に体勢を立て直すために後方に飛び退く。
首筋からぽたぽたと流れ落ちる赤い液体。
動脈までは届いていない。が、何とか薄皮一枚で繋がっているという状態。
決して良くはないだろう。
しかしそんなことはどうでもいい。
立てるのなら立つ。戦えるなら戦う。
ただそれだけのこと。
「………………」
警戒するような目でこちらを睨みつけてくる梨紅ちゃん。
あくまでも僕は“敵”なんだな。
しかも都合の悪いことに相当頭に来ているらしい。恐らく先の一撃で全てが終わると思っていたようで、その一撃をすんでのところで躱されたのが気に入らないと見える。
だから気になった。
自分の認識では彼女は操られているのだと思っている。操られていなければ彼女がクドの命を狙うなどという暴挙を実行するはずもない。
と、
「あり得ない。あり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ない――――――――あり得ない」
ざぐん、と走る寒気。
念仏を唱えるように。または呪詛を念じるように。彼女の口元から漏れる“あり得ない”という言葉。
「………………っ!?」
驚きよりも先に戸惑いが顔を出す。
訳が分からない。
――分かるはずもない。
(……何が“あり得ない”んだ……?)
様々な疑問が頭の中をぐるぐる回る。
このやり取りの中で彼女が狂ったように“あり得ない”と復唱するようなきっかけが何かあったか?
ダメだ。思い出そうとしてもそうおかしいことはない。
「嫌だ。嫌……嫌、嫌だ。……やる。やらないと、やらなきゃ……やる。ダメ。…………かーくんが望むことだもん。失敗しちゃ……ダメ」
ダメだ。それは――ダメだ。聞き逃せない。逃しては――駄目。
「かーくん?」
彼女ははっきりと言った。
かーくん、と。
かーくんとはつまり久遠かなたのことだ。久遠かなたとは一体誰のことだ? それは、僕。僕自身のこと。
だけど彼女は言った。
――かーくんが望むこと。
望むこととはつまりは命令だ。彼女は久遠かなたに命令されて、僕――もしくは前川さんの命を狙って行動を起こしたということになる。
命令されて人の命を狙った?
奪わせるために。
――彼女を。
「………………は、ははっ」
笑わせる。
まったく笑えないのに、出てくる感情は、笑わせる、だ。
「…………殺す。邪魔者は、殺します」
「………………やめなよ」
刀を構え、相手を殺すと宣告した彼女を前に僕の戦意は完全に削がれた。
「殺す殺すなって言う道徳的な話じゃない。……やめなよ。キミにそんな顔はまったく似合っていないし、そもそもキミは……向いてない」
ずっと心のどこかで思っていたことだ。
彼女がなぜ自分の力を抑制するのか。どうして彼女がクドのことを思い、可愛がり、愛し、妹を愛でるように微笑みかけるのか。
そんなものは決まっていた。
栗栖梨紅という少女は優しい。
本来の性格は地母神にも勝るような優しさを秘めた少女なのだ。本当ならば人を殺めるどころか人を傷つけることさえも是としないような温和な心の持ち主。
だが今の彼女は目の前の敵を簡単に“殺す”と言いのけ、それを実行に移してしまうほどの心を表面化している。
その心が彼女の本心であれば。
認めたくはない。認知することが怖い。
が。それでも。それでも――。
それが本心であるのならばそれを受け入れよう。“本意”で“本心”な彼女の本当の“心”であるのならば。それを僕は受け入れよう。彼女の――友人として。
だけど…………だけど!
「ずっと感じてた。だけど今僕は確信したよ。はっきりと言える。断言出来る。キミは……梨紅ちゃん、キミは戦いに向いていない」
彼女は僕よりも強いのかもしれない。
戦い慣れているのかもしれない。
それでも、僕は思う。
彼女ほど戦いに向いていない女の子を僕は知らない。
だから、
「やめよう。もう、やめよう。無理なことはしない方がいい。出来ないことはしなくていい。したくないことをキミがする必要なんてない。それでも……キミがそうやって武器を握ると言うのなら僕は心を鬼にして、キミからすれば小鬼にも満たない虫けらのような存在だけど――キミから奪おう。戦いを。術を。ありとあらゆる可能性を。キミから――根こそぎ奪わせてもらう」
拳を、強く握る。
――彼女と戦うために。