260 姉妹喧嘩
爆発が起こった。
ぷすぷすと上がる硝煙。
「なんで……」
戦いの結果は見えた。
勝敗は決した。だから無駄。
これ以上の戦闘の継続はただの無駄。
「は、はは…………やっぱ、強いわ。こりゃ……無理、だな」
煙の中、ぐらりと揺れる影。
左腕はだらりと垂れ、力を入れることさえ叶わない様子。
「どうして……どうしてよ、環奈ちゃん…………っ!」
誰がどう見ても勝者は夕実だ。
環奈は立っているのもやっとの状態で、夕実はほぼ無傷。
こんなのレフェリーの必要もない。そんな明確な勝ち負け。
しかし声が震えているのは夕実の方だった。
「分かったでしょう……。環奈ちゃん、私……私はね、特別だったの。八神の中でも特別」
「……知ってるよ。伊達に次期当主候補に名前が挙がっただけのことはある。正直、勝てる気がしねーよ。……八神夕実。やっぱ天才だよ、アンタ。悔しいけど、凡才じゃ天才には万に一つも勝ち目がねえ」
ギリっと歯噛みする音。
「勝ち目が無いって分かってるなら、何で。どうして。――――まだ環奈ちゃんの闘志は消えてないって言うの!!」
「……………………」
環奈は答えない。
ただ上げることの出来ない左腕を庇うこともなく、右手だけで戦おうとする意志を相手に見せるのみ。
「言っていることが違う! 違う。違う違う違う、違うじゃない! どうして、何で、環奈ちゃんはかなたくんをそんなに殺してしまいたいの!?」
涙を流しながら絶叫する夕実。
それは紛れもない彼女の本音である。
激情。
それは燃えやすく、いともたやすく炎上した。
「嫌なの! 私は、わたっしは……っ、かなたくんに死んで欲しくない。いや。嫌。嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌――――嫌!! かなたくんはもう十分苦しんだ! 一生分の責め苦を受けた! 八神家は一体、…………一体何度あの子を何回殺せば気が済むって言うの!?」
「…………ああ。そうだろうな」
少しばかりの沈黙の後、環奈はゆっくりと面を上げる。
「…………っ」
その上げられた顔の目を見て夕実が息を呑んだ。
瞳には色々な感情が乗っていた。
――同情があった。
――憐れみがあった。
――怒りがあった。
――悲しみがあった。
一つではない。
色々だ。本当に色々。
ただの一言では表せない感情がその環奈の目に込められていた。
だから夕実は動くことが出来なかった。
たったの一言で自分の息子の人生を片づけられたのであれば、夕実はもう一度妹に牙を剥くことも考えたであろう。
見つめ合ったまま微動だにしない姉妹。
夕実は目を“逸らせなかった”。
環奈は目を“逸らさなかった”。
互いに顔を合わせて直視し続け、やがて折れたのは夕実の方であった。
目を細め、力が抜けるようにへたんと崩れ落ちていく。
「なんで……っ、どうして……っ……どうし……っ」
堰を切ったように泣きじゃくる夕実。
もうそこに大人としての節度などない。ただ泣いて。泣いて、泣いて。ひたすら泣いて、泣き続けた。
「…………悪い」
そんな姉の弱り切った姿を見て、妹は苦笑交じりにそんな台詞を呟く。
「……ここまでかな」
と、今まで静観し続けていた楽斗が環奈と夕実の元に顔を向け、
「はいはい。喧嘩はおしまい!」
パンパンと手を打ち、濁った空気を晴らすように明るい笑顔で二人の間に割り込んだ。
「夕実ちゃんも。環奈ちゃんも。疲れたろ? 今、とっておきのカップケーキでも焼いてきてあげるから、席に座って待ってな」
その笑顔はやっぱり呑気で、つい数秒前まで命のやり取りをしていたとは思えない空気を作り出した。
夫婦は暮らしている内に似た者同士になると聞いたことがあるが、正に楽斗と夕実は似た者同士なのだろう。
夕実がこういった空気を生み出さないことの才能の持ち主ならば楽斗はこういった空気を変えることの出来る才能の持ち主。
「………………」
「………………」
何となく気まずい。
命のやり取りをした後の顔合わせが気まずいという訳ではなく、本当にただ喧嘩の仲裁をされたという事実がとてつもなく恥ずかしい。
ちらりと環奈が夕実に目を配れば、あちらはあちらでとても気まずそうに俯き、とてもじゃないが声を掛けずらい状態だ。
だが環奈の考えている気まずさと夕実の抱えている気まずさはまったくの別物だろう。
助け舟を探そうにも楽斗はカップケーキを焼きに厨房に向かってしまったし、こうなってしまっては自分から動かなくてはならない。
(ま、どっちにしろ。俺は俺らしく、だ)
覚悟が決まれば。
――後は簡単だ。
「だ~っ!」
環奈は俯いている夕実の背中におぶさるように抱き付いた。
「きゃっ!」
流石の夕実も突然の出来事に声を上げて驚く。
「あー、負けた負けた! やっぱ強いなー」
「ちょ、ちょっと……環奈ちゃ」
驚くのは分かってた。戸惑うのは目に見えていた。
「何を辛気臭い顔してんだ馬鹿姉貴。アンタは勝負に勝ったんだ。その顔はどう見たって勝者の顔じゃねえ。勝ったら堂々と。それって勝者の義務だぜ?」
「…………できないよ」
ぼそりと。
それはまるで呪詛のように。
否。
夕実から発せられた言葉は呪詛。ような、などと言う曖昧な表現などではなく、本当に心の底から自らの行為を悔いるように呟く。
「……頭に血が昇った。環奈ちゃんが、今日、一人でここに来た時からずっと嫌な予感がしていたから。……覚悟はしていたんだよ? いつか。そう、いつか。絶対にいつかこんな日が来るんだっていう覚悟はあったんだ。……でも。足りてなかった。覚悟、なんて。出来るはずもなかったんだ。……だって、――だって。私はかなたくんの親だから。楽斗くんを愛して、お腹を痛めて、それが間違いだったなんて思いたくないから、生んだのに。……それを運命だなんて言葉で片づけられるのが我慢ならなくて。私は、環奈ちゃんを……本当に大好きな妹を憎しみだけで殺そうとしてしまうだなんて……!」
抱き付いたまま環奈が身を硬直させる。
――運命だなんて言葉で片づけられるのが我慢ならない。
特段意識した言葉だったのではない。
ただの慰め。
運命という言葉を使うだけで全てを諦めることも出来るし、信じることも出来る。
だから言ったのだ。
――久遠かなたという少年に課せられた運命なのだから。
諦めるのもいい。
信じるのもいい。
どちらを取ったとしても彼の思うままに。
自分たちは、そうするしかないのだと。
――諦めて。
「……確かにそれは俺の失言だった。謝る、ごめん」
環奈は夕実の背中に顎を置いたまま頭を下げる。しかし。
でも、と言う言葉を続け、
「俺はやっぱり、あいつを部外者のままにしておくのは……反対だ。……たぶん、それは思いやりだ。いつくしくて、尊く、正しい。間違ってない。……でもな。当事者がいつまでも部外者を演じていても、いつかそれは綻びて、どこかで必ず歪みを生じるもんだ。その歪みってのは本当に厄介だ。何しろ、本人はそれを歪みだとも思わず、それが認識出来たとしてもそれが何なのかさえ分からないと来たもんだ。……それって苦しいし、辛いし、何よりも……悲しいだろ?」
「……!」
震える夕実の体を抱きながら環奈は静かに言う。
「…………もう限界なんだ、姉さん」
きっとこれは最後通告。
「…………術を、解いてやってくれ」




