254 潜入
一体どれだけビルの中を進んでいたのだろうか。
相変わらず人の姿は見えない。ここが人の済んでいない廃墟ビルと言う話なら人とすれ違わないという話もそうおかしな話ではないのであろうが、どう見てもこのビルは廃墟ではないし、人が住んでいる痕跡がこちらかしこに残っている。
無人のビルという訳でもなし。しかし人とはやはりすれ違わない。
……謎。
「止まれ」
不意に聞こえてきた声に足が止まる。そしてようやく自分たちがビルの五階の階段の前、――より正確に言えば六階へと向かう登り階段の前、だということを知る。
「やはり……いるか」
そうして前川は構えを取った。
戦闘態勢と言い換えてもいい。刀身の長い刀を腰に据え、いつでも刀が抜けるようにした居合の構え。
「いる?」
「言っただろう? 盟主争いをしているのだと」
そう言えばそんなことを言っていた。
だが。
反論がある。
「でも、今まで人とすれ違わなかった。いや、人がいないと言った方が正しいくらいだ。なのに、その盟主争いとやらを行っていると言っているんですか?」
「人がいないのは当然だ」
「え?」
反論をたったの一言で断じた。
「ここは境界線だ。結社とて一応の分別は持ち合わせている。一般人と玄人、それぐらいの分別はな。ここまでの場所には人が近づかぬよう、人が訪れることすらなきようにと結界が張ってあっただけの話。しかし、これ以上進めば結界はない。――――ここから先、この先こそが結社の本当の姿だ」
息を呑む。
目の前に広がった光景は自分のよく知る日常とはかけ離れたモノであった。
有り体に言えば殺し合いだ。目の前に広がっている光景は人が人を殺し合う殺戮の場。
「――――――――、」
おぞましい光景に吐き気がこみ上げてくる。
鼓動が速くなっていく。
握った拳の内に拭いきれない汗が浮かぶ。
刃と刃がぶつかり合う音。
罵声に罵声を重ね、醜く殺し合う人の姿。
相手を殺したことに歓喜する者。
自分が殺されたことよりも自分が殺し損ねたことに心の底から落胆し、嘆く者。
たった一つのフロアを超えただけで目の前から日常が消え失せた。
「お前も」
ざっと。目の前に剥き出しの闘争心を隠そうともしない男が現れた。
男はゆらりと揺れる。
「お前も盟主になりたいよなあ……。俺も同じだ。だから――――――死ね!」
迷いも躊躇いもない凶刃が振るわれる。
前川が腰を落とす。
ネーブラが右手を上げる。
男は、
「殺った!」
勝ったと思った。
いや、男だけではない。腰を落とし反撃を試みた前川も、右手を霧のように溶かしたネーブラでさえも間に合わないと思った。
凶刃は止まっていた。
男が刃を握る利き手の手首を掴み取り、その進行を阻む。
“黙って殺されるの? それもいいけど、キミはお人形? たまには選んでみるといい。殺されるのか。“殺す”のか。それぐらいの自由は許される”
心よりも先に体が反応した。
男の手首を掴み、それを捻り上げる。
「……………………馬鹿野郎め」
「ぐ、ぎぎぎぎ――――」
殴る。
苦痛に歪むその顔面に拳をめり込ませた。
慈悲は無い。
与える暇が無かったと言う方が正しい。思考よりも先に体が動いてしまったのだから。
止める暇さえ、なかった。
襲ってきた男の体は吹っ飛び、思考より通路の壁に叩きつけられる。
「はあ……はあ……」
息を整える。
気分が悪い。戻しかけた吐き気が再びせり上がって来た。しかしその吐き気を無理矢理にでも押し戻す。否。押し戻さなければならないのだろう。
簡単に人が人を殺し合う。
これが結社。
これが盟主争い。
……ぼけっとしている場合ではない。ここは戦場であり、命の価値が暴落している場。
それにしても、
「…………随分と手際がいいんだな。見直した、と言うべきか? その手腕、どこで身に着けた?」
「手腕?」
「俺から見ても、お前は慣れてる。……人を殺し慣れている」
「な、にを」
心臓を掴み取られた。
「殺し“慣れる”って言うのはさ、そうそう身に付かない。そもそも常人であれば殺しに“慣れる”どころか死体に見“慣れる”ってことも難しいんだ。殺すってことは“殺す”ことと同時に死体を作り上げるってこと。だから死体に見“慣れる”ってことは殺し“慣れている”ってことに他ならない。……だから疑問だ。結社にも属していないようなただの眷属たるお前がどこで、その手腕を身に着けた?」
殺し、慣れている……だって?
そんなこと、あるはずがない。
アレは咄嗟の出来事だった。だから思わず反撃をしてしまったのだ。……だけど。
自分の手を見る。
あの時、確かに自分はあの襲ってきた男を殺してしまった。そこに迷いはなく、呼吸をするように自然に、歩くように当然に、幼い頃より習いを実行するかのように。
そう、慣れていた。
――相手を殺すことに。
しかし覚えはない。否。覚えがあるはずがないと信じ込みたいだけなのか。
頭痛がする。
自分の中の自己防衛機能が思い出すことを拒絶しているのか、それとももう一人の自分が全力でその記憶を封印しようとしているのか分からないが、記憶が混濁し、頭の奥がひどく痛む。
聞こえてくるのは少女の声。
“かなたはダメね”
「――――――!」
口を両手で塞ぐ。
戻した吐き気が呼び戻された。喉の奥が焼かれるように痛む。油断すればすぐにでも吐瀉してしまいそうになる。
「……かなた殿?」
「な、なんでもない……」
相当顔が青くなっていたのだろう。ネーブラさんが顔を覗き込んできた。
この吐き気は死体を見たことによる気味の悪さが原因ではないことは明らか。
ならこの吐き気の原因は一体?
「慣れているかどうかって話、だけど」
話を戻す。多少、無理矢理でも今はそっちの方がずっといい。
「よく、分からないよ。ただ、あの男が襲ってきて自然と体が動いたんだ。それだけ。本当にそれだけなんだ……」
殺し“慣れている”という事実だけは否定しておいた。それだけは違うと信じたいから。そんな訳がない、と。
だが、否定出来ない事実も一つ。
――――死体に見“慣れている”という事実。
その事実だけはどうしても否定出来ないだろう。
何せ、そこかしこに死体が転がっているのだから。
盟主争いに敗れた者。
命を取り合ったのだ。死体が有象無象転がっていたとしても不思議ではあるまい。
その死体を見て多少の怒りはあった。多少の悲しみはあった。
――しかし、嫌悪感はなかった。
あったのは、ただそこに死体が転がっているという事実だけ。その事実を受け止める自分の姿だけ。
なんだ、そんなことかと思う自分の自分とは思えない思考だけ。




