249 砕かれた覚悟
「お嬢!」
どん、という衝撃があった。
痛みはほとんど感じない。痛覚のスイッチが壊れているようだ。痛みがスイッチのオンオフで切り替えられるとすれば痛覚のスイッチが全てオフになっていて、それを切ることが出来ないような状態だ。簡単に言えば痛覚が馬鹿になっている感じ。
「な――――」
しかし痛みを感じた。
肉体ではなく、精神に。
例えようのないほどの痛みを感じた。
「……何を馬鹿なことを……っ!」
前川は全身に怪我を負っていることも忘れて体を起こす。
「ぐ――――!」
視界が明滅し、足元がふらつき、壁に手をつく。
「しま……!」
前川が手を付いた場所は壁ではなくエレベーターの操作キーであった。ガオン、というエレベーターの駆動音が鳴り響き、エレベーターは操作キーの導かれるままに下降し始める。
足元がふらついた理由は何も前川の全身の怪我だけが原因ではない。クラリスに後ろ蹴りで押し込まれるようにエレベーター内に吹き飛ばされ、そこが地面だと勘違いして足元のバランスを崩してしまったことも原因の一つだったのだろう。
「う……」
エレベーターが動き始めると振動でエレベーター内が揺れる。
「はあ……はあ……」
わずかな揺れだけで体の痛覚が役目を思い出したかのように痛みの信号を脳に送り始める。
……ずっと馬鹿になっていればいいものを。
などと自分自身の体の機能を呪いつつ、自分の体の限界を悟り、壁に背中を預けるようにして少しだけ体を休める。
「う、……ぐ」
背中を預けた時に少し腹に手が触れた。
「これは……思ったより……」
手は血で真っ赤だった。服を捲れば現状が分かるかもしれないが、今は止めておく。現状を知ったところでどうしようもない。治療する時間すら惜しい。
まあ、感覚的に多少は抉れているようだが。
それは些細なことだ。気にしてないでおく。
幸いなことに前川の手にはしっかりと刀が握り締められていた。
戻ろうと思えば……戻れる。
一度エレベーターを止め、上昇するだけでいい。それだけであの場所に戻ることが可能だ。
しかし。
「俺は……戻るべきなのか?」
いや、戻りたいと思っている。
“バイバイ。イオリ”
あの場面がフラッシュバックする。
確かに前川は彼女が幼い頃より世話を仰せつかった目付だ。
クラリス・アルバートという少女にまだ笑顔があった頃、まだ『結社』が『結社』であった頃。まだ――四人の家族が幸せに過ごしていたあの頃。
前川庵が結社の直系である教会に預けられた孤児であった頃に。
まだ前川庵が“死んでいた”あの頃に。
人は生きる目的が無ければ生きてはいけない。生きるとは何も生命の維持だけではない。生きる理由、目的が必要だ。
俗っぽく言えば欲でもいい。
金、女、酒、地位、名誉――
何だっていい。
しかし前川庵にはそれがなかった。孤児となり、家族もおらず、友人と呼べるような存在も作らず、孤独に育った前川庵は“死んでいた”。
生きる目的もなく、教会の善意で生命の維持をしていたに限らない。
いつ死んでも構わなかった。
全ては過去形。
過去形、だと言えるのは彼の中でその全てが変わったからである。
“屍”から“生者”へ。
きっかけなんてモノは本当に些細でどうでもよいことだと知る。
「お嬢……」
刀を握り直す。
「く…………」
歯噛みする。
とてもじゃないが、戦える状態とは言い難い。戻ってクラリスの身柄を確保したいという思いもあるが、こんな状態で戻ったところでたかが知れている。だが、彼の中で戻らないう選択肢は存在しない。戻るということは確定事項だ。
後は、いつ、戻るか。
傷が癒えるのを待つか。それとも。
その時、彼の懐に仕舞っていたスマホがエレベーター内に鳴り響く。
「………………協力者」
顔を強張らせながら呟いた。
朗報なのか悲報なのかを判断することはまだ出来ない。
だが。
前川はこのまま停滞するつもりは毛頭ありはしなかった。
最早後戻りするという選択肢は消え去る。
「見極めることにするか。逸材かどうか。俺はまだ貴女の考えを鵜呑みにする訳にはいきませんよ。――――――セラ様」




