215 その夜の出来事
一人で歩く帰り道。
今日は何だかドッと疲れたような気がするのは決してクラリスの自惚れでも気のせいでもないだろう。結社のビルが近づくにつれて段々と「お嬢様」の化けの皮が剥がれていく。
――というよりは、こっちが彼女の素に近いのだが。そもそもクラリスは無意識の内に「お嬢様」っぽくなっていただけで、別に猫を被っていた訳ではない。
――いや、もしかしたら気が付かない内に被っている可能性もある。天津女学園は校則が今の時代に似つかわしくないほどに(校内の女子生徒が不平不満を教師に黙って漏らすぐらいには)厳しいところがあった。
買い食い禁止。
原則の門限(寮住まいでなくとも)は夜の七時。
バイト禁止。
身嗜みは整えて。
慎みを忘れず淑女としての行いを。
何と言うか、「どこの大正レトロだ?」だとクラリスは思う。
今日日の若者がそんな嘘みたいな校則を律儀に守るはずもない。そこがたとえ、月城町きっての進学校で噂に名高いお嬢様学園だとしてもだ。所詮は女子中学生、こんな時代錯誤もいいところな校則を守っている生徒の方が稀有だろう。少なくともクラリスは学園ではともかく、学園を一歩でも離れれば、知ったことじゃない、そんな風に思っていた。――まあ、他の学園の一般女子生徒たちからすると一種のお嬢様の火遊びのようなモノなのかもしれないが。
別にクラリスが疲れている原因は学園の窮屈な校則ではない。そんなことで一々疲れていたのでは、とてもじゃないがあの天津女学園ではやっていけないだろう。
クラリスがドッと疲れている原因は完全に別のことであった。
あれから――つまりはクラリスが密かに久遠かなたと言う少年に何も告げず、何のアクションも起こさずに電話番号を渡した日から、すでに一週間以上は経過した。
それだと言うのにあれから一度たりとも、あっちから連絡が来なかったのである。――そもそもの話をすれば、あのメモを渡したのはクラリスの気まぐれ(少なくとも本人はそう本気で思っている)で渡したモノであるし、連絡が来なくても別に構わないはず。
しかしクラリスはあれから、ずっと――ほぼ毎日、電話が来るのをまだかまだかと待ち続けていた。
(ちょっと……いい加減に遅くない?)
クラリスのイライラは有頂天に達しかけていた。あと少しでも遅れればかなたの家に乗り込んでやろうかと思うぐらいには。
また、そもそもの話をするとクラリスはかなたに『連絡をして欲しい』とは一言も言っていないのだから、連絡が来なかったとしても彼に非はないはずなのだが、そんな当たり前の正論など、今のイライラ女子中学生の頭の中には入っていない。
あるのは、
(一週間よ、一週間! ちょっと非常識なんじゃないの、あの男! ……一回ぐらい連絡して来なさいよ、……ばか)
彼を非難する気持ちと、それと同じくらいどうして連絡をして来ないのかと言う、彼女自身にも分からない一抹の“感情”だった。
それは“寂しさ”だったのか。それとも“悔しさ”だったのか、はたまた“不安”だったのか。今のクラリスにはその“感情”の正体に気が付くことはなく、
「ああ……もう! 本当にムカつくわ、ね!」
イライラを大きな声で発散することで、気が付かないフリをするのが精一杯だった。
「はあ……」
そしてすぐに自己嫌悪。
どうして自分がこんなにもイライラしているのかをクラリスは分かっていなかったのだ。理由をあえて考えると、やはり「連絡がないから」になるのだろうが、――じゃあ、どうして「連絡がないから」こんなにイライラするのだろう、と当然のようになる。
心当たりがまったく浮かばない。
彼女にとってあの少年は何でもないはずだ。
敵で。吸血鬼で。いけ好かないヤロー。
それ以上でもそれ以下でもない。
だが、すごくイライラする。
――たかが、「連絡がない」ぐらいで。
――それも、たった一週間。
イライラするにしても期間が短いような気がすると我ながら思った。
これではまるで自分があの少年のことを少なからず意識しているみたいではないか。それもまた、クラリスという少女が立腹する原因の一端となっていた。そのことを理解するのも、また、である。
意識しているかどうかは――自分がお酒に酔っていたからと結論付けたくせに――。
そうこうしている内にクラリスは自宅である結社のビルにまで到着していた。
ビルの中にある店はまだ営業中ではあったが、クラリスはどこかに寄ってから帰ろうかとは思いもしなかった。とにかく疲れていたのだ。早く帰ってシャワーを浴びたい衝動に駆られ、とっととビルの中を駆け抜けてしまおう――そう思ってビルの入口へと入り、
「あっ」
クラリスは慌てて口を塞いでしまった。
聞こえなかっただろうか、そう思ったのだ。
目の前を歩く人物と目が合ったから、である。
それがただの通行人であればクラリスは当然のように何とも思わなかっただろう。しかし、その目の前を通った人間が、自分の上司であるとすれば話は別だ。
「おや? 今、お帰りになったんですか。クラリスさん」
目の前にいたのはクラリスの上司、桜井智であった。